入会に導かれた幸い 朴 大信

昨年のクリスマス礼拝において入会しました。基督教共助会がその歩みを始めて100年もの歳月を刻んだ節目の年と重なりました。この時を選んだのも、共助会と出会ったのも、そしてこの度の入会を決心したのも、私が自分でそうしたというより、共に歩んでくださっている皆さんを介して、主なる神が絶妙なご采配で導いてくださったとしか思えません。ちょうど向こう側から差し伸べられた大きな招きの手を、そっと握り返すような感覚でしょうか。躊躇したり、力んだり、踏み出すという感覚とはおよそ無縁で、ただ気づけば、ここに導かれていたと素直に思えます。不思議な幸福感です。

不思議な幸福感はそれだけはありません。この交わりに身を置くと、前方には伝道者としての自分が歩んでゆくべき未来像が明るく描き出されます。主なる神が「ここまでおいで」と呼んでくださっているような声が聞こえます。また後方には、見つめるべき時代と歴史、そしてその中をキリスト者として命懸けで生き抜いて来られた先達たちの生き様や証しが宝のように輝いています。その光に心地よく引き込まれながら、しかしさらに前方に向かって押し出されてゆく愛の励ましをも感じます。そして左右両隣りには、この混沌とした時代を共に生きる信仰の仲間たちが与えられています。なんと幸いなことでしょうか。

しかし思うに、真の幸いは、自分という存在の前後左右に映える美しい光景によるものだけではないようにも思います。この幸いを深く心に覚える時、そこにはキリストの眼差しにすっぽり捕えられた私自身があることに気づかされます。別の言い方をすれば、この交わりに身を置く時、そこには「主に在る友情」を通じて、実はキリストのリアリティに包まれている自分がいます。キリストに問われ、砕かれ、立ち上がらされ、なお応答者として呼ばれ続ける、素っ裸の自分がいるのです。存在が剥き出しとなった自分とでも言いましょうか。飾らなくてもよい自分。肩書が外れた自分。己をキリストに、そして目の前の他者に、安らかに開放できる自分。その反対にキリストを、そして他者を、共に生きるかけがえのない存在として受け入れることを喜ぶ自分。そんな自分と出会うことができるのです。

願わくは、いくつもの小さな幸せを与えてくれる共助会が、ここに招かれる者にとっての憩いの泉であり続けますように。主のさらなる豊かな恵みを祈り求めます。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。抑えきれぬ感謝と共に。

(日本基督教団 松本東教会伝道師)