分団B報告 光永 豊

今回、分団報告ということでお役目をいただきましたが、不勉強である故に、言葉の流れを正確に理解しきることができませんでした。分団報告というよりも、心に残ったキーワードを手掛かりに、分団を振り返った私の感想になってしまうことをお許しください。こういう風に見えた人間もいたのだと、受け取ってくだされば幸いです。

私たちの分団では、自己紹介を終えた後、ジェンダーに関することを切り口に、話が進みました。固定化された男性、女性の役割について、仕方のないものと諦めていたという意見もあれば、選択的夫婦別姓に関連して、選択肢のある社会にして欲しいという意見もありました。生まれ持った性別は人間の都合で決められたものではないので、自分の身体が受け入れられないことをどのように受け止めたら良いかは分かりません。一方で、集団や社会から望まないものを押し付けられることによって生じた心と体のズレ、固定化された役割による心の苦しみがあるとしたら、私にも向き合う余地があるのではないかと感じました。そのような中で、選択肢のある社会にして欲しいという言葉が、強く印象に残りました。

選択肢のある社会にして欲しいという言葉を聞いて、私は選択肢とどう向き合っているかを考えさせられました。私の場合、選択肢がある状態とは真逆に、誰かが敷いてくれたレールに便乗し、受動的に生きることが、効率的で楽に感じてしまうことがあります。決められない場面では選択肢があることで迷いに陥ってしまうことがありますし、選択をしたことによって負わざるを得ない責任が生じ、自分に跳ね返ってしまうこともあります。そういった面倒事を避ける私は、主体的に選択することを恐れ、選択肢のある社会とは真逆の生き方をしています。しかし、選択したいという願いに出会わされ、人間に与えられた命を同じ人間が奪ってしまうことを想う時、向き合わなければならないものを感じます。

 私自身、ジェンダーについて考えることは、とても難しいことです。目に見える性別で切り分けられるほど人間は単純でないことを理解していますし、自分も当事者に近い何かがあるのではないかと感じたこともあります。しかし、そもそもジェンダーについて悩んだことがありません。帰属意識が低く、集団を忌み嫌い、人間関係から離れて生きることを好んだ故に、無頓着でいられたのだと思います。そういった目線から悩みを抱える人に対して、「男性とか、女性とか、社会がどう思っていようがそんなものは関係ない。一人の人間でいいじゃないか。」という言葉を発したとしても、他者を解放する言葉には繋がらないだろうと思います。まずは自分自身が、生まれ持った身体を与えられているという事実を、関係性の中で受け止めなければなりません。

分団では話題に上がりませんでしたが、初日のシンポジウムでの日本と韓国の関係性についても言えるかも知れません。私は、日本人が韓国の人々を苦しめた歴史を学校で習っています。しかし私は、自分が日本人であるという意識の低い人間です。もしも傷付いた人に心から謝罪するならば、まずは自分が日本人であるという事実を、関係性の中で受け止めなければならず、過去の時代の名前も顔も知らない他者が犯した罪を、自らが背負わなくてはなりません。私が「日本人だとか、韓国人だとか、そんなものはどうでもいい。一人の人間でいいじゃないか。」という言葉を発したとしても、目の前の一人の他者に起こった事実を消し去ることはできないし、解放することもできないだろうと思います。

分団では、共助会のこれからの課題についての話題もありました。ある方は佐久学舎での学びや交わりの影響が大きく、共助会より佐久学舎が大きかったと話しておられました。またある方は、キリスト教に対して異質性を感じておられたこと、共助会そのものの「友情」ということも、大正の教養主義の臭いを感じたというような話をしておられました。まだ、共助会の交わりを与えられたばかりの私。これまでの歴史や先達の歩みに対する理解が浅く、自分の経験した背景の中でしか、言葉を捉えることができませんでした。ただ、共助会との出会い方、生かされてきた背景が一様ではない中で与えられた共助会であることは感じ取りました。主の前に立つ、役割を与えられた一人の人間として、私はどう生きるのかという問いが残りました。

私はこれまで人と接してきた経験の中で、悪意なく発した言葉や、善意で発した言葉が、敵意のように解されてしまう経験が度々ありました。他者の感じてきた抑圧に、気付くことができなかったのだと思います。抑圧された心を、ある時は自己へ向け、ある時は他者へ向けて、苦しんでいるのかも知れません。その心の奥から、私は人の心の不信を感じ取りました。私たちの中心におられるキリストを見、私の心がもつ無自覚の不信を想う時、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23:34)が心に響きます。自らがしたことでないものを、受け止める。どんな理不尽にも仕返しをせず、強き者にも、弱き者にも、私の不信を、信で包み込んで受け止める。そこから程遠い自らの姿を顧みながら、私はなおもキリストに向き合うことを願い続けています。キリストが指し示したのは、信じて心を開く平和ではなかったのか。

自分が関わったことですら解決が難しいのに、自分が関わったことのない事柄にまで関わることは、安易な気持ちではできないし、大きな負担と責任を要することです。自分がしたことでないことを受け止め、引き負った共助会の先達の生き様に、キリストの足跡がありました。

分団では、一人を大切にする、共助会の友の存在に触れていた方もおられました。それほどまでに他者を愛した、キリストの示す友情を生きるとはどういうことなのか。抑圧する側とされる側の痛みを、同じ人間としてどう受け止めるのか。どのような隣人と出会い、共に歩みながら生きたいと願うのか。目の前に問いが差し出される時、志を与えられた友と葛藤を共有し、祈りたいと願います。

(東京神学大学職員・日本ホーリネス教団 井土ヶ谷キリスト教会員)