ひろば

分団C報告 藤坂 一麦

今回の修養会では二時間の分団が持たれた。一回のみではあったが、その分集中した話し合いがもたれたことが功を奏したのか、分団Cでは非常に多岐にわたるテーマについて話すことが出来た。しかし図らずも、「本当の意味で相手と話し合えているか」というテーマが一貫したように思う。そこで、このテーマを軸に報告をする。

〈熱河宣教について〉

最初に熱河宣教についての真剣な議論がなされた。順番としては、熱河宣教を誰がどのように評価しているかを確認した後、各々の個人的な見解を述べた。様々な側面において話し合われたが、例えば「自分たちには見えていないものがある」という意識を持たなければいけないという意見や、今とは違う当時の時代背景があったことを考慮しなければいけないという意見があった。

〈ジェンダーについて〉

次に、ジェンダーについての話し合いがもたれた。始めに、ジェンダーについて考えるときに考慮すべき視点が様々挙げられた。例えば、「ジェンダーは個人間、パートナー間のみならず社会的な視点からも見る必要がある」という意見や、「言語的視点からも見なければいけない」という意見があった。すなわち、敬語や、特定の性別に使用が限られた単語の存在がジェンダー差別を助長しているのではないか、という意見である。

その後、「若い世代とのジェンダー問題の共有」というテーマに移った。まず、荒川朋子さんの発題にあった「若者がどんな社会を願うのかに耳を傾ける必要がある」(本誌23頁上段)という内容を全員で共有した。その後、「今若い世代とのジェンダーにおける話し合いが十分に持たれていないことを意識し、その原因を探らなければいけない」との意見が出た。

〈若者伝道について〉

その流れの中で、テーマは若者との対話に移っていった。その時に全会一致した(少なくとも皆が頷き、反対意見は出なかった)意見として、「今、若者が内面をさらけ出せる環境が非常に少ない」というものがあった。これを主軸としてその後の話し合いがもたれた。

 まず、「これは組織ではなく中身(宣教の質や語るメッセージ)の問題である」という意見が出た。すなわち、組織としての教会はあっても、青年が持っている問題意識を教会の中で語る場が無いし、教会もそれを受け止めようとする意識が無いという意見である。また、「若者が内面を語る場ひとつあたりに集まる人数に限界がある理由として、その集いがテーマとする問題が限定されてくる」という意見があった。例えば、実存的な問題をテーマとする集まりに、社会的な問題意識を抱える若者を招待しづらい、という意見である。筆者の意見として、ここで、若者の一人としての実感を語った。すなわち、同世代の友人と接していて思うことは、普段は明るく振る舞う人が一定数いるものの、実際には多くの人において何かしらの内面的な悩みを抱えていることを感じる瞬間があるという旨の話をした。また、若者が内面をさらけ出せないひとつの理由として、さらけ出すと傷付けられてしまうという感覚を皆持っているように思うとの話をした。

〈全体を通して〉

全体として、今自分たちが直面している問題を隈なく確認するという感があった。そのため、問いかけの形の意見が多かったように思う。その大部分は現実に持っている厳しい問題をありのままに伝えるものであったため、緊張のある話し合いであった。しかし、その分各参加者が普段から見つめていた問題をそのまま伝えることが出来たので、きっかけと意味に富んだ充実した分団であった。個人的には、話し合い方、その内容ともにとても勉強になる集いだった。すなわち、抽象に逃げずに自分たちが直面している問題を具体的に見つめる話し合いを行うためにどの視点に立って意見を述べる必要があるかが直に見えたし、今自分たちの前にある問題はどのようなものがあるのか、特に、自分の目の前にいる人たちはそれぞれの社会でどのような問題と向き合っているのかが私の目にありありと写った。それは言い換えれば、信頼関係のひとつの証拠が提示されたということなので嬉しくも思ったが、その分、自分の無自覚に気づかされる時間でもあった。私も、自分の現実に積極的に働きかけ、今回得た目によってその現実をごまかさずにしっかりと見つめていきたい。

【修養会の感想】

幾つかの気づきがあった二日間だった。気づきは日常的に得られるが、気づきに気づかされるのは稀である。つまり、普段の気づきは白昼夢のごとく積極的に言語化しないと忘れてしまうが、今回の気づきは、言語化する意思はなくとも容赦なくされてしまう類のものだった。それだけ自分にとってインパクトのあるものだったのだろう。今回はそうやって得た気づきを二つと、自分の意思で言語化した気づきを一つ書き残したい。

一つ目は、自分が知らな過ぎたことである。私はジェンダーについてある程度学んできたつもりであった。しかし今回、考えもしなかった視点がいくつも提示され、自分が如何に何も知らなかったかを知らされた。思い返してみると、そういう視点で見たときに、ジェンダー差別に出会ったことが何度もあった。しかし、その時に自分で気付けたのは一つだけである。その事実が今も自分に重くのしかかっている。特に、自分が無意識に差別的発言をしていたことに気づくのは辛い。しかし、そういうところでこそ妥協なく内省していかなければいけないと強く感じた。

二つ目に、愛のある責任についてである。かつて私は強い責任感をつくりそれをエンジンにしていた。しかし、そこにほとんど愛は無かった。すなわち、自分のために、自己完結した責任を自分でつくっていた。しかし、李仁夏(イインハ)先生や和田正先生の深い愛と信仰を持った行動を前にしたとき、自分の責任感の人工的なグロテスクさに気づいて恥じた。

私は現時点では、和田正先生のように、顔も知らない人のために命を賭す(本誌8頁4行目)ほどの覚悟はない。しかし、意外なことに、この人を守るためなら命を賭けてしまうかもしれないと思う人が三人いたことに気づいた。これは神様のくれた愛の芽なのだろう。出会いの中でこれをゆっくりと育てていきたい(もちろん、命を賭すことを目的にしているわけではない)。

三つ目に、前より正直になれたことである。これは修養会の内容とは関係ないが、今回の修養会における気づきのうち最も大切にしているものなので書き残したい。

共助会関係の集いに出席するのは三回目だが、回を重ねるごとに自分が正直になっていることに気づいた。しかしそれは同時に、前回無意識についた噓、誇張、虚栄に気づくことである。特に、この人には噓をつきたくないと思っていた人についてしまった噓を認めるのは本当に辛い。一方で、その変化を喜んでいる自分がいる。かつて唯物論と虚栄の塊だった人間が、過去についた噓と向き合おうとしている事実を喜んでいる自分がいる。もちろん、それによって傷つけた人々を忘れて有頂天になっているわけではない。例えるなら、牢獄の鉄格子に差す陽光だろうか。私は傷だらけになってそれを見上げている。最近は、自分が過去に犯してしまったどうしようもない罪と、それによって傷つけてしまった人々を思い出しては神に告白する日々が続く。めちゃくちゃ痛い。いつか、この凄まじい重圧が自分の十字架なのだと確信する日が来る気がする。その血みどろの中で、しかし希望を感じざるを得ない自分がいる。だから、告白はもう止めないと思う。神様の前で本当の自分になるにはそうするしかないと思う。

修養会でこの変化が与えられたのは、やはり気づきにあると考えている。気づきは自分の目を変える。それは、他者との関係性を質的に変えることとほぼ同義だろう。そして、関係性の特定の変化は、人を自然と正直にさせていく。ならば、特有の気づきが私を正直でありたいと思わしめた。それはきっと、本当に正直に語る人々との出会いだろうと今になって思う。具体的には、二日目の全員が順番に応答した時だろう。あのとき、本当に深い次元でありのままの自分をまさに告白する参加者が何人もいた。それは、私を無意識のうちに、しかし確かに変えていったのだろう。改めて、噓をつきたくないと思える人々に出会えてよかった。あの場で出会えたことに感謝します。

(京都大学学生)