【共助会員の消息】森川静子さん

インタビュアー 角田芳子

共助会員の森川静子さんが脳梗塞で倒れ、入院されていたのは5・6年前だと思います。私の属している教会が比較的病院に近かったので、礼拝の帰りにはよく夫婦でお邪魔していました。しかし、病院から施設に移られて、コロナ問題が出てきた3年前からは、対面でお会いすることは全くできなくなりました。電話でお話しをと思いましたが、なかなかスムーズにつながらない状況でした。後で伺ったところ、食事やリハビリやトレーニングなどでタイミングを合わせるのが、難しかったのです。しかし、妹の鈴木惠子さんに教えていただき事務所に連絡を取りました。事務所の方の執り成しにより、この時間なら大丈夫という時に、ゆっくりお話が出来ました。皆さんに森川さんは日頃どんな風に過ごされているかを、お知らせしたいこともありました。共助をこよなく愛し、修養会の時にも、キャリーバックに雑誌『共助』をいっぱい入れて運び、多くの方々に講読を勧めてくださっていました。その他にも、多方面で活躍されていた彼女の記憶力は鮮明で、インタビュアーが沢山のことを教えていただきました。左記にその時の様子をお知らせいたします。

Q1  施設に入られ、なかなかお会いできませんが、最近の様子を教えてください。

A1  施設に入っての生活をしていますが、元気で日々守られて生活をしています。コロナになってからは、クラスター感染を防ぐため自由に皆さんにお会いできなく寂しいです。妹さえ直接面会はかなわず、物の差し入れなどでアクリル板越しにやり取りしています。それだけではなく、施設の方々ともほとんど話せていないのが現状です。しかし、週3回リハビリの方が来てくれ時間をかけて、トレーニングをしてくれます。その方は大変ユーモアがあり、色々なことも楽しく教えてくれます。例えば、食事のことに関して「野菜ばかりでなく、たんぱく源のお肉もしっかり食べましょう! そうしないと、筋肉がつかず、足にも関係して歩けなくなってしまいます」(笑い)等。

Q2  森川さんが熱心に関わってくださった『共助』誌はお読みになっていますか?

A2  毎日の生活の中で、雑誌『共助』は、机のパソコンの側において、教会から送られてくる資料とともにカゴに入れ、事あるごとに開いて見ています。特に和田健彦さんの書いている文章に惹かれることが多いです。例えば今年の第一号「表紙絵に添えて」マタイによる福音書20章1~16節「葡萄園と農夫」が印象的でした。沢崎堅造・良子夫妻の手記『熱河宣教の記録』の貴重さを感じます。この伝道で、ご夫妻は二人の愛児を天に送っている事実を改めて思い返しました。また、和田 正牧師は中国伝道を志し、1945年5月に母上と一緒に4歳の健彦さんを伴い、神戸港を旅立つ様子も書かれています。そして、福井二郎牧師のいる赤峰の教会に着きました。ここで、身重の沢崎堅造の妻良子さんと望君(10歳)と合流できたのです。このあと、間もなくすると良子さんは、不運にも堅造氏とは離れ離れになってしまっていたのです。薄暗く蒸し暑い避難所で、1945年の8月17日に生まれた沢崎 香ちゃん。良子さんと和田さんのお母様がかわるがわる抱っこしてあやしている姿や、高粱のおかゆ、トウモロコシを煮て花のようにわれたご飯をも和田氏は、いまでもはっきり覚えているそうです。二人の母は、ソ連軍満州侵攻という現実の中で、避難の最終列車に乗り、翌日には北朝鮮の亀城に逃れていたのです。二人は日に日にやせ細っていく香ちゃんの世話を懸命にしながら、時々見せる笑顔やかわいらしさに力を与えられたといっておられます(『共助』2022年1号)。ここを読むたびに胸が熱くなります。風土病のはしかにかかり、著者の健彦さんも死にそうになりながらも、その場所にいた。その時の記憶は、のちに他の人から聞く言葉などと共に、より鮮明に残っていることでしょう。アメリカの貨物船で博多に向かったけれど、博多湾に停泊中に香ちゃんは父を知らぬまま1歳1カ月で亡くなってしまいました。とっても残念なことです。

和田さんには「葡萄園」の雇人として、夕方雇われ最後にやってきた人に、香ちゃんが重なったのではないでしょうか。早朝から長時間はたらいた人々と同賃金を天の父は、香ちゃんに払われました。

「自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。このように、後にいるものが先になり、先にいる者が後になる」(マタイによる福音書20章14~16節)

また、巻頭言(『共助』2022年4号)「どこで主のうめきを聞くのか」でも、和田さんが語る言葉の重さをしみじみ感じています。そこでも、洪ホン 彰チャン 義ウィ先生と李イ 英ヨン 環ファン先生は、和田 正牧たちがモンゴルに出発するとき、途中まで送っていったようです。その洪 彰 義先生が1999年の夏期修養会で「どこで主のうめきを聞くのか」との講演で、語られた言葉が忘れられないと語っています。「キリスト者とは結局、最も苦しめられた者のうめきの中に主のうめきを聞き取り、そこで苦しみを共にする者をいうのではないかと思います。」(『共助』1999年10・11月号)

Q3  胸がジ~ンとします。その健彦さんが「共助編集委員」で、ご一緒に仕事をしているのは感謝なことですね。他に印象的なことはありますか?

A3  洪 彰 義先生のことです。先生は、私が韓国に留学していた時に、本当によくしてくださいました。困ったことがあれば何でも言ってくださいと声をかけてくださり、とても心強かったです。洪 彰 義先生は沢崎良子さんへのメッセージをテープに入れてくださいました。当時北白川教会牧師であった佐伯勲先生が、私を入院中の沢崎良子さんのところへ連れて行ってくださいました。良子さんはそのテープの言葉を聞き終え、閉じていた目をしっかり開けておられたのを今でもはっきり思い出します。

角田  今日は、本当にありがとうございました。コロナ禍で対面ではなかなかお会いできなくなりましたが、長時間にわたり貴重なお話をうかがうことができ大変うれしかったです。このような方法であれば、森川さんから、お話を伺うことができることが分かりましたので、また、時を見てお話しをさせてください。共助会に連なっていた先輩たちの言動に現在を生きる私たちは、影響を大きく受けていることを改めて感じさせていただきました。人と人の友情は、時代の荒波の中でも変わらず保たれてきたこと、その背後に神の存在がさせてくださっていることを感謝しつつ、地道な今日の歩みを続けて行きたいと思います。

(日本バプテスト 浦和キリスト教会員)