小豆島 林 貞子
「二十四の瞳」の島の分教場波音に和す歌声思う
桟橋を日の丸に送られ出征の若きら多くは白木の箱に
出征し盲目となりて帰還せし磯吉写真を正しくなぞる
空腹に耐えかね愛児は青柿を食みて死にたり戦終わるも
家族旅行で、小豆島へ行きました。小豆島と言えば日本の映画史上、不朽の名作「二十四の瞳」の舞台になった島で、ロケ地となった分教場がそのまま残されて観光の名所になっています。
太平洋戦争が始まったばかりの頃、島の分教場に赴任した大石先生と12人の子どもたちとの、まことに温かいふれあいと暮らしの日々で始まります。戦局が激しくなり、その子どもたちひとり一人も、大石先生の家族も、戦争に巻き込まれてゆきます。聖戦と信じ込まされ、日の丸の旗振られつつ若者たちは桟橋から出征していきます。先生の愛した子どもたちがいましたし、先生の夫君も息子もまたそうでした。生きては帰りませんでした。
この時代、私は国民学校(小学生)でしたが、記憶に「英霊のお出迎え」が頻繁にありました。先生に導かれて生徒全員が外に並び、長い時間待って、白い布地で首から吊った白木の箱を持った人に続く長い行列を、頭を下げて出迎えた記憶です。思えば部落総動員での長い行列だったのではなかったでしょうか。夫を、息子を失った人たちの悲しみ、そしてそれからの暮らしはいかばかりだったかを、今になって思います。白木の箱には遺骨のかわりに、石ころが入っていると子どもながらに聞いていました。
男の子たちだけではなく「二十四の瞳」の女の子たち一人ひとりにもまた、厳しく苦しい戦争の歳月がありました。そういったこの昭和の傷痕が、丁寧に描かれた作品を見直して、歳を重ねて一層胸に迫るものがありました。
貧しさに病み伏す教え子訪ねては共に泣きたる大石先生
(日本キリスト改革派 千里摂理教会員)
