荒川朋子さんへの応答 海野日向子

【応答:第2号 荒川朋子氏「発題」に対して】

自分が信仰を考える時、性別という属性を捨てありのままの自分の姿で神という存在に向き合いたいという欲求が自分にはありました。自分とは何者だろうか、と思い巡らすとき、性別もまた己の人格の一部分なのだということを否定したいと感じていました。性別という要素は自分にとってなんら重要ではなく、それは自分が自分の人格に到達するのを妨げるものでしかない。荒川さんの文章を読むまで自分はこのようにさえ考えていたことに気づきました。実際、私は自分の性別について意識的に考える必要性を感じることなく、信仰について考えることができます。しかし、過去に、そして今の時代でも性別についてどうしても考えざるをえない、信仰に達するまでに性別が人生に与えるものについて向き合うことが人生において要求されることがあるのだということを特に以下の荒川さんの文章を読んで熟(つくづく)と考えました。「私が共助会に入会を希望するようになったのは、子育ても一段落つき、アジア学院の職員としての仕事をしなくてよい、純粋に信仰について考える静かな場所と時、そして仕事場とは別の純粋に信仰に根差した仲間が欲しかったからです。さらに家庭の雑多なことと神経を使う仕事とも切り離されたところにある自分の『人格』(そういったものがあるならば)を確かめたいと思ったから、ということもあるかもしれません。」

私自身が扶養家族を持たず、学生という立場だからということもあり、また環境に恵まれていたということもあり静かな場所と時間、そして共に聖書を読む仲間が特段の苦労を経ずと手に入り、私は私の人格について思索する時間を豊かに持つことができます。考えてもなかなか辿り着かないことに焦燥を覚えるけれども、しかし、思考する時間と場所を持つことも叶わず、そのことをすら願いとして持ち続けなければいけない人がいるのだと教えていただいたように思います。「……目前の事に追われて全く宗教に意を向ける余地が無いのです」。また、櫛田孝さんの言葉から、社会文化的な要求を満たさねばならないがゆえに、「自分」に向き合う時間を持つことすら困難なことがあるのだと教えていただきました。信仰において、自分の内面を見渡す時間を持つことが大切であり、そしてそのことを行うために自らが自由にできる時間というものがいかに尊いものであり、万人に許されているものではないということに思い至りました。自分は時代の多少の変化と自らの恵まれた環境ゆえに、時間労力を経ずとも信仰について考える静かな場所と時を持つことができ、この恵みについて切実にその尊さを感じることがなかったのです。そのためか社会的な制約の中で自分の人格、信仰に心を向ける時間を切に求める人々がいることを意識に留めることがありませんでした。自分は自分が生きた経験に基づく性別ゆえ、また他の属性ゆえの困難さを知っていますが、しかし私は私の経験と知識に制約され、性別が同じといえども他者が経た性別に起因する体験も思いも深く理解することはおろか、存在していることに目を留めることも困難だと思えるのです。私は私の人格によって考え生きる限りは、他者の体験を生きることができず、他者の全てを理解するということは叶いませんが、しかしこのことを踏まえても私に問われているのだと改めて思ったのは、自分が繰り返し己に問うている、他者と私はどのように生きたいのかということでした。私は自分が何をしてもしなくても、私はいろんな人と同じ社会に生きており、その事実をみるとき、私は他者と共に生きるということは、自分の意思を持って行うことなのだと思います。人間がその人にしか生きることのできない人生を生きており同じ性別であろうとも一人一人の人間とその人生というものは誠に多様であり限りなく深く、それが故に他者を理解することは長い長い旅路のように感じられます。その多様さの中で誰かと共に生きる時、一人一人の命はどこまでも尊いが故にと信じて生きるようでありたいです。人が一人一人違うというのは本当に美しいことなのだと信じて生きたいと思います。そのように信じる時、私は心から他者と共に生きる人生を生きたいと思うのです。

教会という場所は聖書が書かれた時代も今もさまざまな境遇、立場の人がいて、いろんな人が、いろんな思いを背負ってひとつの神に対峙している場所です。パウロは「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3・26―28)と私たちに語っています。私もそのように信じています。異なる人格が「キリスト・イエスにおいて一つ」になるとき人間は神のみ前に、神の御心に映る人間の姿は神の基準においてのみ測られ、各々が神の問いかけにどのように生き応答したのかによってのみ測られる。その時私たちは一人一人の人生において、与えられた命を通して神の問いに生きる被造物であるという点において同じであると言えるのかなと思いました。私は神に向き合っているときの自分はありのままの自分だと思えます。神の前にはどのような取り繕いをする必要性を感じることがなく、自分が逃げたいと思っている途方もなく苦しさを感じる自意識から自由だと思えるからだと思います。属性も自分の背負っているものもなくなりはしませんが、それでも自由であると感じ安堵感を覚えるのは「……この罪の身の儘まま神にささげればよいのだ」と自分もまたそう信じているからだと思います。

女性であることは、私の選択によるものでも私の人格の全てを表すものではありませんが、しかし私の人生と人格から切り離すことはできず、切り離す必要もないのだとこの文章を書いていて考えるようになりました。全く、この自分の属性から切り離しては自分が成り立たない以上、私は私とはなんであるかについて考える上で、自分の性別も含めて、信仰について向き合い続けていこうと思います。女性という性別は自分の紛れもなく大切な自分の一部であり、その一部とともに生きてきた思いを通して信仰を考えることは本物だと思います。

(エモリー大学大学院生)