「コロサイの信徒への手紙」を読む(四) キリストによる二つの創造 下村 喜八

コロサイの信徒への手紙 第1章 13節―22節

1 キリスト讃歌

今回取り上げた箇所は、難解なコロサイ書の中でも特に難解とされているところである。なるほどと知的に納得できても、私の信仰の現実としていまだ消化できないところが残る。その点お許しいただきたいと思う。

この箇所は三つに区分して読むと分かりやすくなる。⑴13―14節、⑵15―20節、⑶21―22節である。

15節から20節の部分は、散文ではなく詩の文体になっている。その上、一読して分かるように、前後の文章とスムーズにつながっていない。この手紙が書かれる前にすでに原始キリスト教会において存在していた「式文」あるいは「讃歌」を一部変更して挿入したものと推測される。内容はキリスト讃歌である。

14節の「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」のあと、挿入部分をとばして、21節以下を読むと意味がよくつながる。叙述の順序としては、先に15節から20節を取り上げたいと思う。

2 キリストは見えない神の姿

15―16節「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」

父である神と子であるキリストとの関係について少し考えておきたい。父である神と御子キリスト、さらに聖霊を加えて「三位一体」と呼ばれていることは周知のことであろう。連続的思考の理性では理解し難い教理である。「日本基督教団信仰告白」では、「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証せらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ」と書かれている。次のように理解すればよいのではなかろうか。

三位一体の神とは、三つの現れ方をする一人の神という意味だと思われる。あまりにも人間的で浅薄な理解かもしれないけれども、例えば次のように考えればどうであろうか。「私」は一人の人間であるが、妻に対しては夫、子に対しては父親、孫に対しては祖父という側面をもっているわけである。それと同じように、一人の人格である神が、旧約聖書の時代には父なる「神」として預言者等を通して現れ、新約聖書の時代にはもっぱら御子「イエス・キリスト」として現れ、キリストの復活・昇天以降は「聖霊」として現れると理解すればあまりにも単純化し過ぎであろうか。とはいえ、そう考えると分かりやすくなると思われる。

「御子は、見えない神の姿であり」。神は私たちの目に見えない。その見えない神が、イエス・キリストという形をとって、自ら姿を現されたという意味である。繰り返しになるが、二人の神があるわけではない。キリストと神は同じ一人の神である。神が人格であることを表象するために、父と子の一つなる交わりとして説明されていると考えられる。人格は二つ以上の人格的存在の間に成り立つものだからである。

また、神は義である、あるいは愛であるといっても、それは抽象的で私たちには十分に理解できない。そこで、神は、眼で見、耳で聞くことができる、あるいは触ることのできる人間の姿をとって自己を現された。イエス・キリストの生涯とその言葉によって神の愛が、また神の義が何であるかを知ることができる。私たちはキリストによって神を知ることができる。そしてキリストによってしか神を知ることはできない。

「すべてのものが造られる前に生まれた方です」。キリスト教の神は創造者であり、すべてのものは神によって造られた被造物である。御子は被造物ではないということを表すために「生まれた方です」と表現されていると思われる。ちなみに「フィリピの信徒への手紙」は同じ消息を、神が「自分を無にして、僕しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリ二7‐8)と表現している。

16節「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです」。ここで、キリストは宇宙万物の創造者であると語られている。「王座も主権も、支配も権威も」という箇所を、私は今まで、文字通りこの世の権力や権威を指すと理解していたが、そうではなく、天使の名前だそうである。当時、天使礼拝が盛んであったため、それを否定して、御子が礼拝の対象であることを示そうとしていると考えられる。これら四つが天使の名前であるとしても、ただ、万物は御子によって造られたとあるゆえ、この箇所を、この世の権力や権威をも含めて理解しても、あながち間違いではないと言えようか。

3 御子において、御子によって、御子のために

16節後半「万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」。

ここで三つの前置詞が使われている。「御子において」の「おいて」と訳されている前置詞の意味をめぐってはさまざまな解釈がある。日本語では「御子において」「御子にあって」「御子の中で」等と訳すことができる。手元にある3種類の英語訳および4種類のドイツ語訳では、すべて「in」となっている。その解釈については後に考える。「御子によって」の「よって」という前置詞の意味についての解釈の幅は狭く、創造の主体、実行者、あるいは神を父と子の二人格として表現する場合は仲介者・参与者となる。「御子のために」は二様に解釈されている。日本語訳では一致して「ために」と訳されており、英語訳においても「ために」に相当する「for」が用いられている。ところがドイツ語訳ではなぜかすべて「彼を目指して」「彼に向かって」と訳され、キリストが創造の目標ないし目的と解されている

神は自分の姿に似せて人間を創造した。それは神の語りかけに応える者として、すなわち神の愛と信頼に対して愛と信頼をもって応える者として造られたことを意味している。神との対話のうちで人間は初めて人格となる。そしてイエス・キリストがこの世に来られたのは、神の愛を証するためである。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハ三16)。愛は人格的な関係のなかで成り立つものであるから次のようにも言い換えることができる。すなわち父なる神と子なるキリストとの、愛と信頼による一つなる交わりを証するためにこられたと。そしてこの愛は、イエス・キリストと弟子たちとの出会い・交渉(寝食を共にし、共に伝道の旅をする生活)の中で、また病める人、貧しい人、罪人と呼ばれていた人たちとの出会い等の中で、そして何よりも十字架の死の中で示された。ここに愛とその交わりがある。この交わりの中に加えられることがキリスト者になることを意味する。そのことのために私たちは創造された。したがって「キリストのために」は、すべての被造物はキリストの愛と信頼に応える存在として、すなわち人格的交わりの相手として造られたという意味であろう。

さらにまた私たちは、時が満ちて、御子と、顔と顔を合わせて出会ったときに、御子と同じ姿に変えられる。その時、欠けのない、完璧な一つなる交わりが生まれる。キリストの愛が支配する交わりである。それゆえ、キリストの姿という意味においても、キリストの支配という意味においても、キリストが創造の最終目的である。したがって、一つの前置詞の上記二様の解釈を総合する形で、私たちは「御子のために」、「御子をめざして」、御子の支配の中に、迎え入れられるために造られ、生かされていると考えたい。

最も解釈が困難なのは「おいて」である。それは創造の原因、あるいは根拠・根源を表しているとする解釈があるが、その場合、創造の原因・根拠とは、キリストの愛意志と解すればよいであろうか。と私には思われる。「我らは神の中に生き、動き、存在する」(使徒一七28)。また、「彼ら(獣、空の鳥、海の魚)はみな知っている。主の御手がすべてを作られたことを。すべての命あるものは、肉なる人の霊も御手の内にあることを」(ヨブ記一二9)。上記の「神の中に」および「御手の内に」を「キリストの中に」および「キリストの御手の内に」と読み替えてみると次のような類推がなりたつ。「御子において」は、万物はキリストの御手の中に、キリストの力の中に、キリストの支配の中に造られ、そして今も、キリストの中に生き、動き、存在している。そのような意味の「おいて」ではないかと思われる。

コロサイ書を読む(二)」において異なる福音を説く人たちについて触れた。彼らの中には、キリストの救いと並んで星々や四大元素や天使たちの力を信仰する人々がいた。天使は神と人間の中間的存在として両者を仲介する働きをすると考えられ、天使礼拝も行われていた。しかしコロサイ書は、それらは異なる信仰であって、天使をはじめ世を支配する諸々の霊力もまた、キリストにおいてキリストによって、キリストのためにキリストを目指して創造されたのであると語っている。

4 キリストによる創造と保持

17節「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」。

前半は15節後半の「すべてのものが造られる前に生まれた方です」と同じように、御子が被造物でないことを再度表現している。神学用語では「先在のキリスト」と呼ばれている。現実の被造物それ自体は人類の罪のため互いに敵対し、憎み合い、殺し合い、うめき苦しんでいる。このような現実のなかで世界は崩壊し、滅亡する可能性をも秘めている。しかし神の忍耐により、キリストの愛によって宇宙は支えられ保持されている。ちなみに次の文章中の「神」を「キリスト」に置きかえるとコロサイ書の言説となる。「すべてのものは、神(キリスト)から出て、神(キリスト)によって保たれ、神(キリスト)に向かっているのです」(ロマ一一36)。コロサイ書の教説は、徹頭徹尾イエス・キリスト中心である。宇宙万物の創造者にして保持者、救済と和解の実現者、将来の希望の内容、そして歴史の最後の到達点であり、「神の秘められた計画」の内実である。

ここで「ヨハネによる福音書」の冒頭部分(一1―4)を思い浮かべたい。この箇所で用いられている「言(ロゴス)」はギリシア思潮における重要な概念で、理性、言語、宇宙万物を生成し支配する法則等の意味をもつ。しかしここではイエス・キリストが人間となった神の「言」であること、すなわち恵みと真理とに満ちた神の啓示者、コロサイ書の表現によれば「見えない神の姿」(一15)であり、その内には「満ちあふれる神性」が宿っている方であることを含意させて、この言葉を用いている。

したがって「言」を御子あるいはイエス・キリストと読みかえると、この箇所の意味が良く分かると同時に、コロサイ書の今取り上げている箇所を理解するための最良の注釈となる。「初めにイエス・キリストがあった。彼は神と共にあった。彼は神であった。このイエス・キリストは、初めに神と共にあった。万物はイエス・キリストによって成った。成ったもので、彼によらずに成ったものは何一つなかった。彼の内に命があった。命は人間を照らす光であった」。

5 第二の創造

15節から17 節の内容はキリストと宇宙万物との関係を表現していて「第一の創造」と呼ぶことができる。「創世記」に記されている意味での創造である。18節から20節の内容は「第二の創造」と呼ぶことができる。

18節の「御子はその体である教会の頭です」という文章に関し、ほとんどの注解は、既存のキリスト讃歌に加筆したものであると見なしている。キリスト讃歌は二連からなり、15節から17節は第一連で、キリストが全被造世界の創造と保持の唯一の仲介者であることを讃美している。18節の「御子は初めの者」から20節までは第二連で、復活し、昇天したキリストが全被造世界に和解と平和をもたらした贖い主であることを讃美している。第一連は宇宙的な規模における第一の創造を、第二連は同じく宇宙的な規模での第二の創造を表現していることになる。そして、その二つの連の間に、たとえば「御子は全宇宙の頭です」という文章が入ればすんなりと収まるはずである。ところが、そうではなく「御子は教会の頭である」という文章になっているため違和感が生まれることになる。さらに18節の「すべてのことにおいて第一の者となられたのです」、および20

節の「その十字架の血によって」も加筆と見なされている。では、加筆をした著者の意図は何なのであろうか。あるいはむしろ私は、筆者をして、そのような加筆をさせたものは何なのであろうかと問いたいと思う。それは、今、ここで現に筆者の存在を満たし、支え、生かし、働かせているキリストの圧倒的な力であろう。筆者は、単に宇宙的な創造論を観照し知的に承認する立場にあきたらず、彼の内なるキリストのリアリティーをここに書き込まずにはいられなかったのである。そのリアリティーとは、現に経験しているキリストの圧倒的な恵みと支配(すべてのことにおいて第一の者)、平和と和解をもたらす原動力(十字架の血によって)、および宇宙的な救済を実現すべく知恵を尽くして福音を宣べ伝えている教会、その頭としてのキリストの導きと力(御子は教会の頭です)である。

キリスト讃歌の18節から20節、および讃歌を前後から挟むような形で書かれている散文(13―14節および21―22節)も、その内容は第二の創造である。第二の創造については前回の「新しい人」および「キリストを着る」の項でかなり詳しく述べているので、今回は概説にとどめておく。

人間は神の姿に似せて、すなわち神の語りかけに応えるものとして創造されたが、罪によって神から離れ、敵対するようになった。そこで神は御子イエス・キリストを人間と同じ肉体においてこの世に送り、その十字架上の死において人間の罪を贖い、御自分と和解させられた。そして私たちを「御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」(一22)。さらに「わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました」(13節)。「闇の力」とはサタンの力、あるいは罪の力、パウロが霊と肉の対立と表現している肉の力のことである。キリストの贖罪愛により、罪しかなしえない人間がキリストの愛に生かされる新しい人間に変えられる。そしてキリストの愛は人間性を根底より新たにするだけでなく、キリストの愛の支配する共同体をも創造する。このキリストを頭とする教会を中心とし、そこを拠りどころとして和解が広がり、ついに万物の和解が実現される。

「栄光の希望」(一27 )である。 

(日本基督教団 御所教会会員)