聖書研究

雅歌の解釈をめぐって(第二回)小友聡

雅歌をどう解釈するかをめぐって考察をします。今回は第2回です。いきなり雅歌のテキスト解釈を始めるのではなく、雅歌がこれまでどう解釈されてきたかについて、もう少しじっくり考えてみたいと思います。そこで、20世紀最大の神学者カール・バルトの雅歌解釈、そしてバルト以降の神学者としてゴルヴィツァーの解釈を取り上げます。いずれもスイス/ドイツの組織神学者です。この二人は雅歌注解などで扱われることはほとんどありませんが、私たちにはとても馴染み深い神学者であり、またその独特な雅歌解釈は私たちを魅了するので、ここで紹介したいと思います。

1 カール・バルトの雅歌解釈

カール・バルトの雅歌解釈は、『教会教義学』の創造論(10章「造られたもの」第45節第3項、原著1948年)の中で扱われています。バルトが雅歌に言及する前に、まず取り上げるのが創世記です。人間性について最も重要な記述は創世記2: 18―25の人間の創造です。いわゆるヤーヴィストの創造物語ですが、バルトはこれを「人間性についての約聖書の大憲章(マグナカルタ)」と呼びます。つまり、神が男のところに女を連れて来られ、二人を引き合わせられた。これは人間の創造の完成だとされます。ここに男と女について決定的な創造論的記述があるというのです。

これと並んで、旧約正典には、もう一つの人間性についての重要なテキストがある。それは雅歌だと言います。雅歌は、人間性についての第2の大憲章だとバルトは見るのです。

「……創世記2章はそれほど完全に孤立しているわけではない。人は、旧約聖書の正典のほかの、顕著な場所に「雅歌(歌の中の歌)」があるということを考える時、あのような仕方で具体的な形態を与えられた人間性の、第二の大憲章について語ることができるであろう。人は雅歌が正典に含まれていなければよかったであろうにと望むべきではない。また人は、あたかも雅歌が正典の中に含まれていないかのように振舞うべきではない。雅歌は……正真正銘の、全くそのままの意味でそう呼ばれるべき恋愛の歌……である。」(菅円吉/吉永正義訳『教会教義学 創造論Ⅱ/2(中)』、208―209頁)

バルトは、教会では雅歌を正典として読むことが敬遠され、正典にふさわしくないと理解されていることを十分に承知しています。けれども、雅歌を聖典として読むべきだとバルトは言うのです。その場合に、雅歌それ自体を「恋愛の歌」だと呼んでいます。これは20世紀聖書学の知見であり、バルトもそれを是認するのです。ここがまず面白いところです。組織神学者バルトは雅歌の解釈を始めるにあたり、まず聖書学の最新の知見に従って、雅歌を恋愛歌だとみなすのです。

けれども、ここからの展開がまた面白い。バルトは聖書学の最新の知見に従い、雅歌を文学的に読み解くか、というとそうではありません。バルトは雅歌を神学的に評価するのです。先ほどの創世記2章と同一線上に考えます。つまり、創造の対極にある終末において、雅歌を捉えるのです。それは、人間論的な男と女の記述ではなく、終わりの時の新しい創造です。言い換えると、男と女のちぎりの原型、すなわちヤーヴェとイスラエルの間の契約が最後に再び回復される目標が雅歌によって描かれているのです。このように、バルトは雅歌を終末論的に解釈し、創世記の人間創造と対極にある終末時の楽園の表象として雅歌を見ます。雅歌を終末論的に解釈するのです。そこから、旧約における神とイスラエルの契約という理念の最終的な目標として雅歌を位置づける。これがバルトの雅歌解釈のポイントです。なるほどと思わせられます。

もう少し、バルトの議論を辿ってみましょう。バルトは契約という概念を旧約の中心と考えています。この契約が旧約では預言という枠組みの中で機能します。創世記2章と雅歌の文脈においても、ヤーヴェとイスラエルという契約が預言として機能しているとバルトは言います。どういうことかと言うと、「預言」が将来の成就に向かう時間的ベクトルを有し、また預言者の預言が契約を婚姻関係に喩たとえていることが背景にあるのだと思います。確かにそうで、ホセア書ではヤーヴェとイスラエルの契約が婚姻関係に喩えられています。このような男女の愛の関係がヤーヴェとイスラエルの契約を指すのだとすれば、創世記2章の創造論は雅歌における終末論的目標の預言だということになります。このような思考の手順で、バルトは雅歌を創世記2章の創造論の終末論的成就であり、ヤーヴェとイスラエルの契約の完成を描いているのだと思われます。要するに、バルトは雅歌を終末論的に解釈するのです。雅歌を「至聖の書」と呼んだのは紀元2世紀のラビ・アキバですが、バルトの終末論的雅歌解釈はそのような雅歌の正典性を追認する解釈だとも言えます。

しかし、このようなバルトの雅歌解釈に対して、問いは残ります。バルトには方法論的な乖かい離り があります。最初に雅歌を聖書学的知見に従って「恋愛の歌」だと説明するのですが、そこからバルトは突然、飛躍して、雅歌の神学的解釈に移行します。雅歌がそれ自体として恋愛の歌であることと、雅歌が終末論的に人間創造の最終目標を表象しているということ。両者の間には大きな飛躍があるように思われます。雅歌がもともとどういう書であったかということと、雅歌が神学的にどう解釈されるかということが方法論的にきちんと架橋されなければなりません。残念ながら、バルトは雅歌テキストをいきなり神学的・終末論的に解釈する、という点で問題があります。バルトには敬意を表しますが、筆者はバルトの線では納得できません。

2 ゴルヴィツァーの雅歌解釈

次に取り上げたいのはゴルヴィツァーです。ゴルヴィツァーは『愛の讃歌 雅歌の世界』という本を書いています。原著は1978年で、もともと1977年にベルリンで開催されたキルヘンタークにおいて、ゴルヴィツァーが講演した原稿がもとになっています。キルヘンタークはドイツで2年に一度開催されるプロテスタント教会の信徒大会で、そこでの諸講演はドイツの第一級の神学者たちによって行われます。このゴルヴィツァーの講演も多くの信徒たちに歓迎され、大きな反響を呼んで、アメリカ、オランダ、イタリア、ノルウェー、フランスで翻訳されました。

これは組織神学者ゴルヴィツァーの現代的な雅歌解釈です。ゴルヴィツァーはまず雅歌の寓ぐう喩ゆ 的解釈と歴史的解釈は両立するのだと言います。寓喩的解釈とはキリスト教会が近代まで解釈してきた雅歌の比喩的解釈です。つまり、キリストと教会の愛の関係において雅歌を解釈するということ。そして、歴史的解釈とは聖書学の歴史的批判的方法にしたがって雅歌を字義通りに解釈することです。

しかし、そこからゴルヴィツァーは現代の教会の問題に切り込みます。1970年代のドイツの若者たちの性倫理についてです。ゴルヴィツァーはラディカルです。今の若者たちは「合法的な性のみが神のみ旨にかなうのであり、違法な性は不道徳である」という古い規範を時代遅れとする。けれども雅歌は若者たちを然りと言う、と書いています。ただし、雅歌には性の秩序があるのであって、それは女性の完全な同等性であり、また感性的愛と人格的愛の統一性であるとゴルヴィツァーは述べます。

神学的に見ると、雅歌の愛はアガペーに集約されないエロースを容認しています。ギリシア語ではアガペーとエロースが区別され、キリスト教ではエロースはアガペーに対して劣ると評価されます。けれども、ヘブライ語では両者は区別されません。被造物である人間はエロースを排除されていないのです。雅歌をそのようにエロースの肯定として読み取るのです。ここに組織神学者ゴルヴィツァーの特徴があります。言われてみればあたりまえのことですが、彼は雅歌を聖書学的に読み、同時に聖書「神学的」に展開するのです。読みようによっては、男女の自由な性関係が肯定されているようです。けれども、「愛が成就するためには、あなたはそれが法制化されるまで待たなければならない。そして何らかの理由でこの法制化が不可能になるようなときには、あなたは断念しなければならない」と言います(77頁)。つまり結婚を前提としない性関係は断念されるべきだということだと思います。このあたりは、かなり性倫理を意識しています。教会に受け入れられるぎりぎりの発言と言えますが、1970年代のドイツの信徒大会で語られた講演として意義があります。

ゴルヴィツァーがこの講演の最後で触れるのは、カール・バルトの雅歌論です。

「したがって、K・バルトが雅歌を―創世記2章の第2の創造記事とならんで―第2の「人間性のマグナ・カルタ」と呼んだことは、正しかった。「わたしたちはそれを正典から追い払おうとしてはならない。したがって、あたかもそれが正典に入っていないかのごとく、ふるまってもならない。またあたかも正典の中にあるものは精神主義的な意味だけをもつかのごとく、それを精神化しようとしてはならない。……ここではもっとも自然な解釈のみが、まさにもっとも深遠な解釈でありうるのである。」(佐々木勝彦訳『愛の讃歌』、85頁)

ゴルヴィツァーが最終的に行き着くのは先ほど紹介したバルトの雅歌解釈だということがわかります。

以上がゴルヴィツァーの雅歌解釈です。現代の若者に向けた講演ですが、雅歌を現代という文脈できちんと理解しようという意図が見られます。愛についてアガペーのみを強調する聖書の読み方に対して、雅歌がエロースの愛を語るのであって、それは教会において正当なのだというゴルヴィツァーの理解がわかります。ゴルヴィツァーについては、いわゆる解放の神学に類似した神学だと評価されることもありますが、ドイツ社会と教会を繋ぐ実践神学的な思考をしています。現代の社会通念とはいささか乖離している発言でしょうか。しかし、今日の教会において、雅歌をこのようにあくまで正典として読もうという挑戦的な姿勢があります。最終的にはバルトの終末論的な雅歌解釈とも繋がるのではないでしょうか。

3 バルトとゴルヴィツァーの共通点

バルトの雅歌解釈とゴルヴィツァーの雅歌解釈を比べて、共通するものがあります。どちらも聖書学者ではなく、組織神学者であり、雅歌を神学的に、今日の教会に引き寄せて解釈します。つまり、雅歌をこれまでただ単に寓喩的に解釈してきた教会の読み方に対して、聖書学の字義通りの解釈を取り入れながら、雅歌と教会をうまく繋げようとする議論です。現代の教会、現代の社会を念頭に置いて、雅歌と教会が乖離しない読み方を提示しようとします。バルトは終末論的に思考しますが、それは教会でしか通用しない神学的論理で、かなり観念的、思弁的です。それに対し、ゴルヴィツァーは性倫理に引き寄せて実践的に解釈しています。それは時代遅れの性倫理と言われるかも知れませんが、ある程度、社会的にも通用しうる提言だと思います。この二人の神学者の共通点として見逃せない特徴は、雅歌を人間論的に、感性的に評価するということです。創造論の文脈の中で、雅歌を解釈するのです。雅歌は人間性の第2のマグナカルタである、というバルトのテーゼは注目に値します。ゴルヴィツァーもこれを基本的に支持します。これまで雅歌を正典の一書として、そのようにしてきちんと評価した神学者はほかにいなかったのではないかと思います。現代の聖書学者が雅歌の正典性をいわば剥ぎ取るような解釈をするのに対して、二人はあくまで雅歌を正典として読み取ろうとします。ちなみに、この両者に共通する思想として、ボンヘッファー晩年の此岸的神学があるように思われます。ボンヘッファーは『獄中書簡』の中で雅歌など旧約の知恵文学を評価しました。特に、雅歌については次のように評価をしています。

「完全な自立性を持ちながらしかも定旋律に関わっているこれら対旋律的な主題の一つが地上の愛であって、聖書にも雅歌がある。そこで語られているような愛よりも熱く、官能的で燃えるような愛は、実は一つもない。キリスト教的なものを、情熱を調節することの中に見ているすべての人々に対立して(そもそも旧約聖書のどこにこのような調節があるだろうか?)聖書の中に雅歌があるということは、本当に良いことだ。」(ベートゲ編、村上伸訳『獄中書簡』、350頁)

 

20世紀の主要な組織神学者たちがこのように雅歌について直接的な議論をしていることは私たちにとって重要な知見ではないでしょうか。雅歌をもう一度教会の講壇に取り戻すために、私も新たな挑戦をしたいと思います。

(東京神学大学教授・中村町教会牧師)