舟と強い風 永口 裕子

ヨハネ福音書6章15~21節

主の平和がわたしたちと共にありますように。
イエスさまの伝道の旅に欠かせない物―いろいろありますが、舟は飛び切り欠かせないものです。イエスさまから「わたしについて来なさい」と弟子たちが最初に呼ばれた場所は、ガリラヤ湖畔の舟でした。

わたしは病気がちな者で、若い時からよく入院をします。と、自慢のように言うのもおかしいのですが。30年も前の病院の病室は、6人、8人の大部屋が普通でした。確かにプライバシーは守りにくいのですが、患者同士の助け合いが自然に生まれて、入院中にまるで親戚同士のような一体感がうまれたりします。今日の聖書、小見出しに「湖の上を歩く」、また新改訳では「湖上を歩いて弟子たちに近づく」を読みますと、わたしには舟のイメージと病室がかさなります。一万人に近い人々が、イエスさまによって食べて満たされた。手のひらほどのわずかな食べ物を、祈りと裂くことによって群衆を余すところなく満たした、イエスさまの数々の奇跡のなかでも一つのハイライトと呼べる場面に続いて、今日の話が書かれています。沸き立つような群衆から離れて、今日の話は始まります。

 

15節、イエスさまは群衆をさけて一人山に行かれた。そして弟子たちは、大きくはない舟に乗って、ガリラヤ湖を向こう岸へ渡るのです。夕闇の迫る時刻、あたりはすでに暗く、さっきまでの大勢の人々の喜びの声ごえとは対照的に、ガリラヤ湖一面の静けさの中に舟は取り残されたかのようです。—イエスさまと分かれて進む弟子たちの心細さが、「イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。」(17節)と書かれています。

病院の病室、そこは乗り合わせた患者たちの小舟に似ています。さっきまで頼りとしていた家族やご近所さんや会社、学校といった社会関係から切り離されて、狭くてかたいベッドに横たわるしかない時、その不安はいま暗闇に舟をこぐ弟子たちとも似ていないでしょうか。

するとそこへ強い風が吹いて、舟を胴体ごと揺らし、ガリラヤ湖全体が荒れはじめます。舟はもう4、5キロも進んでいて、強風にあおられて沈むかもしれない。舟はまるごと恐怖にあおられている。恐怖に閉じ込められている。助けてください、主よ。主よ、なぜあなたは、今この時におられないのですかとその時、イエスさまは湖の上を歩いて近づいて来られます。

わたしはずっと、この聖書箇所に不思議な断絶を感じてきました。弟子たちの困難と湖上を歩くイエスさま。揺れに揺られる弟子たちと、さもイエスさまだけが悠々と湖上を行くようなちぐはぐさ。なぜもっと早く主は助けてくださらないのか。

そして今回、この断絶をうめるもの、それこそがヨハネからの使信―わたしたちに求められているものだと、この度理解しました。それは、信仰です。祈りです。真っ暗闇に、主のお姿が見えないとき、一番の困難にあってイエスさまを探すときにこそ、信仰が求められるのです。「わたしだ」という主のお言葉、在りてあるもの、主なる神ヤハウェがここにおられます。だから「恐れることはない。」(

20節)弟子たちが、主をみとめた。迎え入れようとした。それは信仰であり、告白です。信仰が求められ、信仰が応えた。そうして舟は岸へ、向こう岸へついたのです。わたしたちの祈りがきかれるように。

(2019年10月16日 日本基督教団 大阪暁明館病院伝道所にて)

〔永口裕子さんは、病気体験から信仰を得た大阪在住の牧師です。現在赴任地を求めて祈っておられます。〕