「コロサイの信徒への手紙」を読む(五) 闇の力の支配から御子の支配へ 下村 喜八

コロサイの信徒への手紙 第1章13節―14節 第2章11節―23節

1 パウロの真正の手紙との相違点と補足説明

既に述べたように、コロサイ書はパウロが書いた手紙ではなく、パウロの死後、パウロの弟子たちによって書かれたとする説が近年では一般的になっている。その理由の一つとして、コロサイ書には、パウロの特徴的な神学概念が欠けていることが挙げられる。「義」「信仰によって義とされる」「自由」「律法」といった重要な概念である。

パウロの神学において「義」あるいは「信仰義認」は最も重要な概念である。ところが「コロサイ書」では「義」という言葉は一度も出てこない。したがって「コロサイ書」では、「義」あるいは「信仰義認」という概念を用いないで、別の言葉で同じことを表現していることになる。すなわち「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」(一21―22)と語る。

信仰によって義とされるということは、何度も耳にしてきたせいであろうか、抵抗感や違和感なく受け入れることができるように思われる。しかしそれは「義」という意味を十分に理解できていないからかも知れない。おそらくそうであろう。しかしその問題はさておき、キリストの十字架の贖いによって聖なる者、完全な者、きずのないもの、神性(神の本質)をもって満たされた者とされるとは到底信じられないような感が深い。しかし十字架の贖いとは、まさにそのことなのである。それを「コロサイ書」は、「造り主(キリスト)の姿に倣う新しい人を身に着ける」(三10 )と表現している。私たちは、この罪の身に、さながらキリストという着ぐるみを着て神の前に立つことが許されるのである。

また「信仰」「不信仰」「信じる」という言葉は、新共同訳聖書に基づいて数えると、ロマ書では少なくとも52回、ガラテヤ書では少なくとも25回用いられている。それに比してコロサイ書ではわずか5回であり、しかもそれらから信仰という言葉の意味を十分に推し量ることは困難である。したがって、「コロサイ書」では「信仰」という私たちにとって最も重要な概念をも別の言葉で表現していることになる。信仰を表す別の表現は、複数あるように思われる。たとえば、「コロサイ書」では信仰とは

キリストを知ることである。それは「コロサイの信徒への手紙を読む(三)」の「神をますます深く知る」の項で述べたような意味でキリストを知ることである。すなわちキリストを人格的な交わりの中で知ること、「キリストを愛し、キリストに愛される」(奥田成孝)という関係の中でキリストを知ることである。あるいはまた信仰とは、古い人を脱ぎ捨てて新しい人を着る、すなわちキリストを着ることと表現しているようにも思われる。

十字架の贖いによって私たちはキリストと共に死ぬ。すなわち古い人をその行いと共に脱ぎ捨てるのである。そしてキリストの姿に倣う新しい人を身に着ける。脱ぎ捨てた古い衣服は、私たちに代わってキリストが身にまとってくださる。キリストは私たちの罪と弱さ、苦悩と病のすべてをご自身の身に負ってくださった。それが贖いである。そしてキリストは、私たちにキリストという衣服を着せてくださった。私たちの衣服とキリストの衣服が交換されたわけである。しかし私たちは本来、その罪のために死刑を宣告され、十字架に付けられるべきものであり、キリストは私たちの代わりに私たちが受けるべき刑罰を受けてくださったことを決して忘れてはならない。キリスト教の歴史のなかで信仰義認は、単なる知的な承認・納得になったり、ドグマになったり、お題目になったりしたことは周知の通りである。そして信仰が浅薄なものに、恵みとしての義が安価に手に入るものになってしまった。それはいつでも私において、私たちにおいて起こり得ることである。コロサイ書には、そのような誤りを防ぐ重要な役割があるように思われる。

さらに「コロサイ書」には「自由」という言葉は一度も使用されていない。それでいてキリスト者の自由が多面的に、豊かに、そして明晰に語られている。読めば読むほど、実にこの書は不思議な書簡に思えてくる。

2 キリスト者の自由

2章11―12節「あなたがたはキリストおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです」

ここで、割礼と洗礼と復活に言及されている。割礼はユダヤ民族の宗教的儀式で、男子の性器の包皮を切り取ることである。それは肉体の一部を取り除くことであるが、この「コロサイ書」で言及されている「肉」は、フィジカルなものではなく、新約聖書で肉と霊を対立的に用いる意味での肉である。つまり、生まれながらの人間のあり方、神に敵対して非道徳的に生きる人間のあり方のことを言い表している。ちなみに、ここには見事な言葉の転用がみられる。前者は律法による割礼、後者はキリストによる割礼と呼ぶことができる。十字架の贖いによって、私たちはキリストと共に死ぬ、すなわち古い人をその行いと共に脱ぎ捨てるのである。罪しかなしえない、いわば罪の奴隷状態から私たちは解放され、自由の身とされる。また「洗礼によって、キリストと共に葬られ」とある。原始キリスト教会では、洗礼を受けるとき、古い着衣を脱いで水に入った。全身を水に浸し、水からあがると新しい清潔な白い衣服を着せられたそうである。それは一つの罪と滅びの古い生命が死に、もう一つの新しい生命、キリストの復活と共に甦った生命、すなわちキリストの愛の内にある自由な生命が誕生したことを象徴的に表している。罪と死からの自由であり、同時にキリストの愛に生かされる自由である。自由には常に二つの方向がある。あるものから自由にされて、別のものへと向かう。キリスト者の生命は、罪から自由にされてキリストへと、キリストと共なる生へと向かう。 

2章13―23節「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。(……)」

「規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書」をめぐっては二つの解釈がある。「規則」はユダヤ教の律法の規定であり、「証書」は律法に違反した罪状書きであるとする解釈と、「証書」は借用書であり、「規則」は借金をするさいの諸規定・条件であるとする解釈とである。「証書」の原語は自分で署名をした文書のことであるという理由から、証書とは借用書と考え

るのが妥当と思われる。もちろんその借用書は罪状書きの比喩である。人間の罪は積み重なって神に対する莫大な借財となった。それをイエス・キリストは自分自身の命を身代金として十字架にかけることによって抹消してくださったのである。私たちはここで、家来の莫大な借金を帳消しにした憐れみ深い君主

と、莫大な借金を帳消しにしてもらったにもかかわらず、わずかな借金を返すことのできない仲間を牢に閉じ込める家来についてのイエスのたとえ話を思い浮かべる(マタ一八21― 35)。このたとえ話の含意として、「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」(三13)という「コロサイ書」のメッセージを読み取ることができる。

3 闇の力の支配から御子の支配へ

「もろもろの支配と権威の武装を解除し」の「支配と権威」は天使の名前であるとする解釈もある。しかし、「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(一13―14)、「それ(人間のあみだした哲学)は、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」(二8)、あるいは、「あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もない」(二20)等をも勘案すると、武装解除された「もろもろの支配と権威」は、次の諸力のすべてを包含するものと拡大解釈しても許されるであろう。①第一に闇の力の本源的なものとして挙げなければならないものは、私たちの人格の中核を蝕んでいる罪である。私たちの罪はキリストの十字架の贖いによって抹消されたことは既に述べた。②次いで宇宙に存在する物質の力である。当時の人々は星々や四大元素等が人間の運命に影響を及ぼす力を持つと信じていた。③さらには悪霊とサタンである。当時、病気や不幸は悪霊やサタンによって惹き起こされると考えられていた。上記すべての力をイエス・キリストは征服・武装解除し、それらの虜になっていた人間を救い出された。そして救出された人間は、罪の力および迷信的な力や悪魔的な力の所有からキリストの所有に移るが、移された者は単に所有が変化しただけでなく、勝利と解放と自由を経験する。このようにキリストの所有なった者は、罪をはじめ闇の力のいかなるものにも従属しない。

原始キリスト教会の宣教は、各地方のディアスポラ・ユダヤ人を足掛かりに進められていったと言われている。したがってコロサイの教会には異教から改宗した者とユダヤ教から改宗した者の両方がいたと考えられる。食べ物や飲み物に関する規定、祭りや新月や安息日、さらには割礼の儀式、汚れに関する戒律等を守る必要を説く者がいた。天使礼拝を行う者、禁欲的苦行によって救いを得ようとする者もいた。さらにグノーシス主義者のように思弁的な創作神話によって「異なる福音」を説く者もいた。彼らもキリストの救い自体を否定したわけではないが、キリストの救いだけでは十分でなく、救いを補足し確実なものにするために上記の事柄を取り入れようとしたものと考えられる。それらに対して「コロサイ書」の筆者は強い口調で否と明言する。キリストの十字架のほかには救いは存在しないし、かつキリストの救いは完全なものであり、救いのために他のいかなるものも必要としない。私たちにとってキリストがすべてであり(三11)、キリストは私たちの命(三4)そのものであると説いた。「あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、『手をつけるな。味わうな。触れるな』などという戒律に縛られているのですか。これらはみな、使えばなくなってしまうもの、人の規則や教えによるものです。これらは独り善がりの礼拝、偽りの謙遜、体の苦行を伴っていて、知恵のあることのように見えますが、実は何の価値もなく、肉の欲望を満足させるだけなのです」(二20―23)。彼らの教えはすべて、「肉の欲望」から出たもので、それを満足させるものに過ぎないという深い洞察に私たちは驚かされる。戒律や規則や慣習に従った単なる正しい行いは、神と人の前に自己の正しさを誇示するもので、「神と隣人を愛せよ」という本来の神の要求を満足させるものではない。それは謙遜を欠き、虚栄と驕慢と狭量を生み出す。

キリストと共に死んだ人間は、世を支配する諸霊とは何の関係もないと筆者は言う。キリストを信頼し、キリストに依り頼む人間は、キリスト以外のいかなるものをも必要としないし、いかなる力からも、いかなる人からも自由である。「キリスト者はすべての者の上に立つ自由な主人であって、誰にも服しない」(『キリスト者の自由』)というルターの言葉に加筆して、私たちは、「キリスト者はすべての力、すべての人、すべての事物の上に立つ自由な主人であって、キリスト以外のいかなるものにも服しない」と書き換えることも許されるであろう。

このように私たちは闇の力が支配する領域からキリストが支配する国へと移されている。しかし闇の力との戦いが終わっているわけではない。戦いの終わりは、キリストが再びこられる時まで待たなければならない。しかし私たちだけに、それと戦う力が与えられているということだけは確かである。近代の科学は私たちをさまざまな迷信から解放してくれた。しかし闇の力を見くびることはできない。それは私たち自身の内にあり、この世を支配している力である。イエス・キリストを十字架につけたのも、闇の力であることを忘れてはならないと思う。さらに、エーミル・ブルンナー(1889-1966)は、悪の力は恐るべく現実的で、不気味に巨大であるゆえに、あらゆる啓蒙、あらゆる学問と教育にもかかわらず人類を覆う闇は何ら変化していない。むしろ文明の進歩と共に悪もまた進歩し、強大になってゆくと語っている(拙訳『フラウミュンスター説教集Ⅱ』)。

彼と同様二つの世界大戦とナチスの支配を経験したラインホルト・シュナイダー(1903-1958)も同じような観点に立って歴史を見ている。今再び、過去の悲惨な歴史を忘れたかのように、この世の闇の権力は恐ろしい不気味な動きを見せている。そのような中でシュナイダーの言葉と思想は残念なことに現実性をもってくる。彼は次のように語る。この世は罪に対しては罪によって応えることしか知らない。悪行は報復を呼び起こし、その報復の仕打ちがさらに別の報復を呼び起こす。ここに宿命とも呼びうる恐ろしい「罪の循環」が生じ、不信と猜疑と恐れが増幅される。「すべての人が不信感をもち、邪推し、恐れを抱いていて、ほとんどすべての出来事、防衛措置をも含めてあらゆる措置が、この不信を増加し、正当化しているように思われる」。そのような発言から読み取れることは、人間の罪性の由来を表しているはずの原罪の根は、さながら時間が逆転した形で次第に太くなり、凝り固まりながら未来へと延びてゆく観である。そしてその果てに世界の終わりが来る。この罪の連鎖が打ち破られないかぎり平和は訪れない。しかし誰によって打ち破られるのであろうか。それは、十字架にかかって己が身を犠牲とし、神と人、人と人との和解をもたらしたイエス・キリストによってである。さらに、それは贖いを自分の身に引き受ける人間、キリストにならって自らの命を贖いとして捧げる人間によってである。シュナイダーは贖いが唯一の平和の力と考えた。この平和の力にぶつかるとこの世は武装解除される。彼は言う、「キリストが世界にぶつかって破滅したように見えるとき、実は世界がキリストにぶつかって破滅しているのである」。「報復ではなく贖いが変革をもたらす。そうなればひょっとして、平和の力によって平和のために贖いを自分の身に担う人々によって歴史が導かれるようになるかも知れない。それは内からの、回心の力による導きであろう。この力を見くびらないようにしよう。この力は報復からその正当性を奪う。この力を前にして報復がもはやいたたまれなくなる時代が到来しなければならない。それは新しい時代となるであろう。報復ではなく贖いが平和の基礎となるであろう」。そのようにしてキリストの支配する神の国は訪れるであろう。        

(日本基督教団 御所教会会員)