その日の苦労は、その日だけで十分である。 飯島 信

【二〇二三年度 基督教共助会総会 開会説教】

マタイによる福音書 第6章33~34節

共助会創立104年目を迎えました。104年、長い歳月です。1919年の創設以来、日本の歴史のただ中を歩んで来ました。私もまた1971年、23歳で共助会と出会ってから、半世紀の歳月が経ちます。

私たちは今、誰もが予想すらしなかった混迷と混乱の裡にある国内外の情勢に直面しています。しかし、このような時だからこそ、私たちの立つべき拠り所をキリスト教信仰にしっかりと見出す時が来ているように思います。

問われていることは二つです。明日への希望をどこに見出すのか、そして、隣り人を愛するとはどのようなことかです。

明日への希望をどこに見出すのか、このことはイエス様が教えられた第一の戒めとも深く関わるように思います。神を愛するとはどのようなことかです。また、隣り人を愛するとは、第一の戒めに続く第二の戒めです。この二つの戒めとの関わりの中で、問われていることを考えてみたいと思います。

初めに、希望をどこに見出すのかについてです。

このところ、私の心に留とどまり続けているボンヘッファーの言葉があります。それは、彼がヒトラーに抵抗してゲシュタポ(秘密警察)に捕らえられた獄中から、親友のベートゲに宛てた手紙の中の言葉です。彼は次のように記しています。「神が成就し給うのは、僕たちのあらゆる希望ではなく、神ご自身のあらゆる約束である。すなわち、神は、地上の主であられ、その教会を保たれ、僕たちに常に新しい信仰を送り給い、僕たちの耐えられる限度を越えた重荷を負わせ給わず、僕たちを神の臨在と助けとを喜ぶ者とならしめ、僕たちの祈りを聞き、僕たちを最善にして真っ直ぐな道によって御自身へと導き給うのである。神はこのようなことを確かになし給うことによって、僕たちを通してご自身を讃美せしめ給う。」

私は、冒頭の言葉「神が成就し給うのは、僕たちのあらゆる希望ではなく、神ご自身のあらゆる約束である」に、引き付けられています。私の日々の祈りを根底から問うものであったからです。

私は祈ります。自分の望みをです。具体的には、家族一人ひとりの健康や仕事のことから始まり、私に連なる親族や友たちのこと、教員時代に教えた卒業生のこと、教会のこと、関わっている運動体のことなど、その全てにおいて神様の守りと導きを祈ります。それが私の望みであるからです。そして、その望みが叶えられることを祈り求めています。

しかし、ボンヘッファーは、神が成し遂げられるのは、私たちの希望ではないと言うのです。それは、神様の私たちに対する約束であると言うのです。

獄中にて、いつ己の命が断ち切られるか分からない絶望と不安のただ中にあるボンヘッファーにとって、最大の望みは、ヒトラーの独裁が終わり、自分に自由が与えられることであることは想像に難くありません。しかし、彼は、そのような希望の成就に己の信仰を懸けるのではなく、自分に対する神様の約束に懸けるのです。

死を前にしたボンヘッファーが己を懸けた神様の約束とは一体何であったのか。

それが、次の言葉でした。即ち、

「神は、地上の主であられ、その教会を保たれ、僕たちに常に新しい信仰を送り給い、僕たちの耐えられる限度を越えた重荷を負わせ給わず、僕たちを神の臨在と助けとを喜ぶ者とならしめ、僕たちの祈りを聞き、僕たちを最善にして真っ直ぐな道によって御自身へと導き給うのである。」

いつ挫けてもおかしくはない信仰と不信仰との絶えざる鬩せめぎあいの中で、「神は(私たちに)常に新しい信仰を送り給い」、「耐えられる限度を越えた重荷を負わせ給わず」、「神の臨在と助けとを喜ぶ者とならしめ」てくださると言うのです。

そして、神様が私たちに成し遂げられるのは、私たちを「最善にして真っ直ぐな道によって」神様御自身へと導かれる約束であると言うのです。私たち一人ひとりの願いに先立って、私たちを御自身へ導かれることを約束されている。私たちが、私たちに用意されている最善にして真っすぐな道を見出し、その道を歩む時、神様は私たちのその歩みによって御自身を讃美されるというのです。まさにそのことが、神様に栄光を帰することであると、私はボンヘッファーのこの言葉から教えられたように思います。

お読みした聖書の御言葉、「その日の苦労は、その日だけで十分である」とは、神様が私たちに備えてくださっている最善の道を歩む時、神様は御自身へと導いてくださる、その約束を信じて生きることです。今日という日を、神様の約束を信じて精一杯に生きる、それで良いのです。その歩みを全うすることによって、神様は私たちを御自身へと導いてくださるからです。明日はまた、備えられた最善の道を探し求めて歩めば、それで良いのです。

私は、ボンヘッファーの言葉から、希望について以上のことを教えられたように思います。

私たちにとって、希望とは、神様の約束を信じて生きること

です。今日を、そして明日をです。約束を信じて生きる、そのこと自体が希望なのです。

次に、隣り人を愛することについて考えます。

この夏の共助会夏期信仰修養会で、私たちは預言者エレミヤを取り上げます。なぜ同時代に生きたイザヤではないのか、なぜエゼキエルでも、ミカでもなく、エレミヤなのかです。

4年前、一人の若い友の呼びかけによって、毎週2回、朝6時20分から、イザヤ書を読み、祈る集いがオンラインによって行われました。その後、さらに別の若い友によって引き継がれ、今も週1回、エレミヤ書を読み、祈る集いが続いています。

私は、この祈りの集いに加わる中で、神の言葉を預かる預言者の苦しみについて考えさせられて来ました。十戒の第二戒である偶像礼拝禁止の戒めを破る民に向かって、悔い改めを迫る預言者の姿には、神の言葉を預かる者であるが故の苦悩が、その全身から迸(ほとばし)り出る感すらあります。イザヤにして然り、エゼキエル、ミカにして然りです。呼びかけても、呼びかけても背信を重ねる民に対し、それでもなお呼びかけ続ける預言者たち。何故そこまで出来るのでしょうか。

エレミヤの言葉です。

「もしわたしが、(民に対し)『主のことは、重ねて言わない。このうえその名によって語ることはしない』と言えば、主の言葉がわたしの心にあって、燃える火のわが骨のうちに閉じ込められているようで、それを押えるのに疲れ果てて、耐えることができません」と。(口語訳、1080頁)語らぬことは、「主の言葉が、燃える火のわが骨のうちに閉じ込められている」ことであり、自分は「それに耐え得ない」と。さらにエレミヤに目を留める時、エレミヤの苦悩は、他の預言者に比して一団と色濃くあるのを覚えます。エレミヤの苦悩の深さは、民のヤハウェに対する背きに起因するだけではありま

せん。確かにエレミヤも、他の預言者と同じに、民らに悔い改めを迫り、審きを予告し、神への立ち帰りを呼びかけます。しかし、エレミヤは、民に迫るだけではないのです。民らの犯す罪に対する審きの預言と共に、民らに課せられる苦しみをも我が内に抱き、その深い苦悩の中から神に問います。

「わたしの生まれた日はのろわれよ。母がわたしを産んだ日は祝福を受けるな」と。

「なにゆえわたしは(母の)胎内を出てきて、悩みと悲しみに会い、恥を受けて一生を過ごすのか」と。

エレミヤは、民の悔い改めを期待し、背かれ、期待し、辱められ、期待し、その命まで狙われます。預言者として神に立てられつつ、あたかも神に翻弄され続けるかのような人生でした。若き日にはヨシヤ王の宗教改革に賛同し、一縷の希望を持ったのも束の間、王は戦死し、改革は途絶えます。晩年においても、北イスラエル滅亡に続く南ユダに迫る危機に際し、王や民たちの誰もが納得することなど有り得ない敵の手に落ちることを神はエレミヤに命じます。しかし、その理由は語られません。

エレミヤは、神の言葉を預かる者として、己に理解出来ずともその命令を伝えなければなりませんでした。神の言葉だからです。人の想いでは到底理解し得ない神の経綸の中で、神に立ち帰ることなく審きによってもたらされる民の悲哀をも自らに背負うのです。

エレミヤは、神を愛しただけでなく、イスラエルの民をも愛しました。

背反を続ける民のただ中にその身を投げ入れ、石板に書かれた律法は虚しく、求められるのは律法を心に刻むことだと訴え、形骸化した神殿礼拝を否定し、審判を基とする旧い契約から、恵みと赦しを基とする新しい契約への転換を指し示すのです。背信の民の負う苦しみをも自らの苦悩としたからこそ、神に示された道でした。

このエレミヤによって、問われていることは何かです。

それは、私たちが、このエレミヤのように祖国イスラエルを、さらにその民を愛し得るかです。このことは、パウロの生涯とも重なります。パウロは、同胞であるユダヤ人が救われるのであれば、自分は神から呪われても良いとまで言いました。それは、私たちに、日本人が、あるいは在日の人々が、救われるなら自分は呪われても良いと言えるかです。

最近、隣り人を愛することについて、二つの考えさせられる出来事がありました。

一つは、親しい友人が語った心の罪の告白でした。内面の罪と呼ぶものです。

後一つは、良く知る友が訴えられている法律上の罪です。

この出来事の中で私の心で起きた事柄は、それぞれを知らされた私の心がとても重いのです。辛いのです。

問題を起こした当事者の気持を考えた時にそうなるだけでなく、そのことを知った周囲の人々の気持を考えても、私自身の気持は重く、辛くなるのです。

この時に思いました。

なぜ、問題を起こした当時者ではないにもかかわらず、この重い、辛い気持を拭い去れないのかと。それは、私は、この友たちを、彼らの周りにいる人々を、かけがえのない者として心に覚えている、大切に思っている、つまり愛しているからだと思います。

今回の身近に起きた二つの出来事を通し、隣人を愛するとは、友の重荷を背負うことだと改めて知らされています。エレミヤに戻るなら、エレミヤの苦悩は、民を愛しているが故の苦悩でし

た。民への神の審きを伝えながら、エレミヤの心は民と共にありました。審きを語り、亡国の民と共に歩む、それ故の苦悩を抱え込むことによってこそ神から示されたもの、それが民に対する新しい契約の約束であったと思います。

改めて、今日の国内外の状況に対する基督教共助会の使命を思います。

為政者や世の人々の動きを、時に耐え難いものとして嘆き、批判しつつも、自らもその現実を造り出し、負っているとの自覚のもとに、この日本を、この社会を、かけがえのないものとして愛し抜くことが出来るかが問われていると思います。愛することは、重荷を負うことです。そして、来るべき神の約束の成る日を信じて生きる、そのような者として私たちは神様に召されていると思うのです。

祈りましょう。  

(日本基督教団 小高伝道所・浪江伝道所牧師)