説教

主の復活の証人 角田秀明

コリントの信徒への手紙 一 15章1~6節

使徒言行録11章26節に次のように書かれています。

「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」

イエス・キリストのことを救い主と信じ、キリストの名によって共に集い、イエス・キリストの名によって祈っていたので、人々からキリストを信じる集団=キリスト者と呼ばれるようになったのです。では、それ以前には何と呼ばれていたのでしょうか?使徒言行録を読むとペトロや弟子たちは自らを「主の復活の証人」「主イエス・キリストが復活されたことを証言する者」と呼んでいました。裁判では「証人」が証言するとき、自分の見たことや聞いたことの真実のみを語ることを誓約させられます。

「宣誓 良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓います。 氏名」

教会のシンボルというと十字架があげられます。その十字架はイエス・キリストの死刑の道具でしたが、この十字架には以下に記す深い意味があります。

1 イエス様の十字架の死は、私たちの罪の身代わりであったということです。

今読んでいただいた15章3節にこうあります。「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと」また、ペトロの手紙一2章24節はこう言っています。「(イエスは)十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷、によって、あなたがたはいやされました。」

聖書の述べる罪とは、神を侮り、神に背を向けて自分勝手に生きること、神からの離反を意味します。ルカによる福音書15章に有名な放蕩息子のお話がありますが、弟は父親から自分の財産をもらい受け、父に背を向けて自分勝手な生き方をしました。聖書の罪とは個々の法律違反や犯罪を羅列するものではなく、その根本に神との関りの破綻があります。また、罪はいつも(誰かに)対する罪として、関係性の内にとらえられる概念であります。ゴルゴタの十字架の上に示された神の愛は、わたしたちがしばしば思っているような、美しく情緒的で甘く優しいそれとは違います。イエス・キリストの十字架に表された神の愛は、私たち人間の、どうすることもできない罪と死、滅びのすべてを一身に負って代わりに死んでくださった、そういう愛なのです。命を差し出すほどに愛する愛でありました。

2 キリストは死んで3日目に復活しました。

聖書の中で使徒パウロは、福音(救いの良い知らせ)の根本を次のように要約しています。

15章2節:「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。」

3~4節:「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてある通り、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと……」3つのポイントが大切だと言っています。

「聖書に書いてあるとおり」(特にイザヤ書53章4、5節参照)、「死んだこと」「葬られたこと」(過去形が使われており、史実として1回限りの出来事)そして、「復活した」(受動態「復活させられた」完了形が使われていて英語同様今もその状態が継続している)。

聖書の福音は、イエス・キリストの復活にかかっていると言っても過言ではありません。

使徒パウロは15章17節に「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、罪の中にあることになります。」と言い切っています。

弟子たちもイエス様が復活して彼らに現れてくださった事実を、良心に従って述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを誓っていました。

もし、イエス様が死んだままであったなら、私たちがイエス様の十字架の贖いの死によって本当に救われているのかどうか分かりません。それでイエス様は、復活によって、弟子たちに現れ

てくださり、私たちのための救いが成し遂げられたことを明らかにされたのです。「罪の支払う報酬は死である」とありますが、イエス様はこの罪と死に打ち勝つことによって、私たちに罪の赦しと永遠の命を与えてくださったのです。私たちがイエス・キリストを信じて、神の愛と恵みを受け、喜びと平安をもってこの世を生きることができるのは、じつに、イエス様の十字架と復活という歴史の事実によってなのです。

使徒パウロがこの「コリントの信徒への手紙一」を書いたのは、55年ごろです。パウロはこの手紙の中で、はっきりと、「キリストは、…聖書に書いてあるとおり、三日目に復活したこと」と言っています。この手紙は、十字架から25年経っていますが、それは、イエス様の十字架上のあのむごたらしい死を目撃した人たちがまだ生きていた時でした。

イエス・キリストが復活されたという事実は、彼の十字架上での死と並んで、最初から、教会が信者に伝えてきたことであり、信仰の土台であり、原点と言えます。教会が最初から「復活の信仰」を持っていたことは否定できない事実です。では、その「復活の信仰」はどこから来たのでしょうか。「復活の事実」からとしか説明のしようがありません。使徒たちは復活をひとつの教義として伝えたのではありません。「キリストは復活した」という事実を宣べ伝え、その事実が持つ意味を解き明かしたのです。私たちの信仰は、「キリストが復活した」という確かな史実に基づいているのです。

3 復活の証人Part 1――ペトロ

イエス・キリストの弟子たちは、師であり救い主であるイエス様が十字架にかけられようとしたとき、全員が逃げてしまいました。その同じ弟子たちが、復活されたイエス様にお会いした後には、脅されようが危険な目に遭おうが関係なく「わたしたちは、(自分の)見たこと、また聞いたことを、話さないではいられないのです」(使徒4:20)、と言い切りました。少し前までは臆病だった弟子たちが、こうまで変わってしまったというのは、イエス様の復活が本当であったという確かな証拠ではないでしょうか。

復活したキリストに出会った人々も、聖書の記録と共に、復活を証ししました。

パウロはその復活の証人のひとりに「ケファ」の名を上げています(5節)。「ケファ」というのは「ペトロ」のことです。ペトロは十二使徒の中で第一人者とみなされた人でした。イエス様は捕らえられる直前の12弟子との過ぎ越しの食事の時に弟子たちに予告しました。「あなたがたは皆私につまずく」と。その時、ペトロは「たとえ、皆がつまずいても、わたしはつまずきません。たとえ、ご一緒に死ななければならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」と断言しました。ところが、ペトロはイエス様が大祭司によって裁かれたとき、自分がイエスの弟子であることを知られるのを恐れ、「私はイエスなどという人は知らない」と言って鶏が鳴く前に3回もイエス様を否んでしまいました。イエス様を否認した後、ペトロは自分の弱さを思い知らされ号泣しました。その後もペトロは自分の裏切り行為に自らを責め続け、遠いところに逃避することばかりを考えていました。

ところが、それからわずか50日後、ペンテコステの日に、聖霊を受けたペトロは11人の弟子たちとともに、エルサレムの真ん中で、エルサレムに住む全ての人々に声を張り上げて語りました。「(イエスを)あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」(使徒2:23〜24)。このペトロの変化はどこから来たのでしょうか。

イエス様が葬られた墓はエルサレムの近郊にありました。イエス様の遺体が収められたあと、墓の入り口は大きな岩で塞がれ、厳重に封印され、ローマ兵がそれを守りました。しかし、イエス様の復活とともに、封印は破られ、岩は転がり、ローマ兵は逃げ去りました。イエス様が死に勝利したのです。それ以来、イエス様の墓は空っぽです。もし、ユダヤの指導者が、使徒たちにキリストの復活を宣べ伝えるのをやめさせたいのなら、イエス様の墓を示せばそれで足りたのです。しかし、ユダヤの指導者たちにはそれができませんでした。イエス様の墓が空っぽだったからです。イエス様の復活は反対者たちでさえ、否定することができませんでした。

それで、ユダヤの指導者たちは、使徒たちを黙らせるために権威をふるいました。ペトロが、神殿で、生まれつき足の不自由な人を癒やし、「神はイエスを死者の中から復活させてくださいました」(使徒3: 15)。と説教していると、祭司たち、宮の守衛長、サドカイ人たちがやってきてペトロを捕まえ、指導者たちの前に引き出しました。しかし、ペトロはひるむことなく言いました。

「民の議員、また長老の方々、 今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」(使徒4:8〜10)。

この言葉に、ペトロの説教のすべての意味が込められています。

4 復活の証人Part 2― パウロ

パウロは他の復活の証人の名前をいくつかあげてから、最後に自分もそのひとりであると言いました。パウロはペトロと同世代の人でしたが、ペトロとは全く別の道を歩んできた人でした。パウロは今日のトルコのタルスス、日本語の聖書で「タルソス」と呼ばれる町で、裕福な家庭に生まれ、生まれながらローマの市民権を持っていました。しかし、ユダヤ人としての誇りを持っていたパウロは、ギリシャの学問を修めるだけではあきたらず、エルサレムに行き、当時ユダヤで最高の教師といわれたガマリエルの門下生となりました。パウロは、イエス様のことは聞いていたかもしれませんが、興味を持つことはありませんでした。ペトロがイエス様に従い、イエス様から学んでいた3年間、パウロはユダヤ教の長老でありサンヘドリンの指導者であった律法学者ガマリエルのもとで、脇目もふらず、ユダヤ教の律法と伝統を学んでいたのです。エルサレムで教会が始まったとき、パウロはユダヤ教パリサイ派の指導者のひとりとなり、教会迫害の先頭に立っていました。

パウロは、遠くダマスコの教会までも迫害の手を伸ばしました。ところが、パウロはダマスコに入る前に、復活したイエス・キリストに出会ったのです。それは、他の使徒たちがイエス様に出会ってからずいぶん後のことでしたので、きょうの箇所では、「そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました」(8節)と、パウロは言っています。「イエスはキリストではない」、「イエスは復活しなかった」と信じてきたパウロでしたから、生きておられるイエスに出会った衝撃はどんなに大きなものだったでしょうか。その時から、パウロは自分の信念や理論ではなく、イエスの復活という事実に立ってものを考えはじめました。博学な彼は、今までの聖書の知識を総動員して考えたに違いありません。そしてついにパウロは「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、3日目によみがえられたこと」を確信するようになったのです。それから後のパウロがどんなに命がけでイエス・キリストを宣べ伝えたかは、聖書が記している通りです。

パウロは、キリストの十字架と復活によって、迫害者から宣教者へと変えられた彼自身を復活の証拠として差し出しながら、人々にイエス・キリストを伝えたのです。パウロは「神の恵みによって今のわたしがあるのです。」と告白しています。キリストは、死によって私たちを罪から解放し、その復活によって私たちに新しいいのちを与えてくださいました。復活は、神のいのちの勝利なのです。

キリストの復活は、私たちにとって何を意味しているでしょうか。聖書によれば次の3つの意味が示されています。

(1)私たちを束縛する「罪」や「死」の力は打ち破られ、私たちは本当の意味で自由な人生を与えられました。

(2)私たち自身の罪・落ち度は全てイエス様がその死によって処分され、救いの道が完成されました。

(3)私たちに永遠の命(私たちを本当の意味で人間として生き生きと生かす命)が与えられ、神の子の資格が保証されました。

ヨハネによる福音書1章12節に次のようにあります。「イエスを受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供となる資格を与えた。」

キリストは、罪によって、死に定められていた私たち一人ひとりのために、死んで復活され、私たちの救いとなられました。これによって、私たちは義とされ、神の恵みの中に生きる神の子とされました。イエス様は私たちに向かって、次のように約束されました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネ11章25、26節)そのイエスに深く信頼し、神の恵みを頂いて、許されるならば私たちも主イエス様の復活の証人として立ち上がらせていただこうではありませんか。

(日本バプテスト連盟 浦和キリスト教会員)