「コロサイの信徒への手紙」を読む(二)神を知るということ 下村 喜八

コロサイの信徒への手紙 第1章9節―14節

1.霊による知恵と理解

「どうか、〝霊〟によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように」(一9―10)

神の御心を悟り、知るのは「霊」によるとある。言外に、人間の生まれながらの知性では知ることができないという含みがあると思われる。神はその御心をイエス・キリストを通して示された。「御子は、見えない神の姿」(一15)であり、「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っています」(二9)。しかし当時の人々には、そのイエス・キリストが救い主であることは理解できなかった。

「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(Ⅰコリ一23―25)

ユダヤ人は目に見える「しるし」によって神の力、神の働きを認めた。彼らはメシアを待望していたが、それはダビデのように偉大な王として異教徒を征服し、解放と繁栄をもたらすメシアであった。犯罪者の死を遂げたメシアなぞというものは、つまずきそのものであり、神の観念を冒ぼうとく瀆するものであったと思われる。またユダヤ人は律法を守った人間が正しい人間、それを破った人間は正しくない人間と考え、良い行いによって神の救いを獲得しようとした。それゆえ、罪人を義(正しい)とする福音は到底受け入れることはできなかった。またギリシア人は「知恵」を探すとあるが、ついでギリシア人と異邦人とは併記されていることから、理性あるいは知性によって真理を獲得しようとする人間一般をギリシア人に代表させていると解釈できる。人間は知性によって神の本質を究めようとする。できれば自分も神のようになろうと欲する。そのような精神的営為を、ブルンナーは人間の「永遠にして完全な神に向かう登攀」(『われは生ける神を信ず』)と呼んでいる。しかしイエス・キリストはそれとは逆方向の道をたどられた。神の子が人間と同じ姿になり、十字架にかかり、神に遺棄され、黄よみ 泉に下る。それは人間の知性には愚かにしか見えない。

上記の9節と10節では、「知恵と理解によって」「悟り」「ますます深く知る」とあり、「知る」ことがキーワードになっている(知ることを表す語彙それぞれの含意の相違に関してはここでは問題にしない)。そして知る対象は「神の御心」「神」である。この箇所

を、「知る」ということに注目して読むと、知ることが、追いかけ合いをして、だんだん深まってゆくと言っているように思われる。

2.二つの知り方

知るということは、人間の大事な能力である。今、知り方を二つに分けて考えてみたいと思う。その一つは、対象から距離をとって知る方法である。困難な状況のなかに立たされれば立たされるほど、置かれている状況と自分から距離をとって冷静に、客観的に見ることが大事である。心理学者ヴィクトール・フランクル(Viktor Emil Frankl, 1905 – 1997)は、ユダヤ人強制収容所に入れられた体験をもとに、極限状況のなかで生き延びえた人たちに共通して認められる精神的資質として「自己離脱性」をあげている。ここでいう自己離脱性とは、自分から少し離れて自分を見ることのできる能力のことである。したがって、対象から距離をとって知る能力は、人間に与えられた、決しておろそかにできない貴重な能力であると言える。それは自然科学を生み出してきた能力であるとともに、私たちが対象を言葉によって表現するときには必ずこの能力が働き、その際、必然的に対象との距離が生まれる。この能力はプラスとマイナスの両面をもつため、そのことを絶えず意識しながら生活することが重要であると私は考えている。たとえば聖書の信仰は、イエス・キリストへの信頼であり、人格的な関係のなかにあって生きることであるが、それを言葉で表現した教理や信条は、いずれも人格的な関係そのものではない。したがって教理や信条をそのとおりであると知的に納得しても、そこにはキリストへの信頼のなかに息づく愛と生命が抜け落ちていることになる。「教条的な信仰は愛において貧しい」と言われるゆえんである。しかし私たちにとって「人格的関係そのもの」と「その言葉による認識」との違いに気づくこと、それを絶えず自覚することは決して容易ではない。私自身、その過ちを何度も犯してきたように思う。またキリスト教2000年の歴史のなかで、多くの誤解と不幸と悲劇を生んできた元凶もそこにあると言える。

しかし教義や信条が重要ではないとは決して言えない。「わたしが、あなたがたとラオディキアにいる人々のために、また、わたしとまだ直接顔を合わせたことのないすべての人のために、どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい。それは、この人々が心を励まされ、愛によって結び合わされ、理解力を豊かに与えられ、神の秘められた計画であるキリストを悟るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。わたしがこう言うのは、あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするためです」(二1―4)。ちなみにラオディキアは、コロサイの近くにあった町である。この文章から、二つの町の教会に「異なる福音」あるいは「異なる信仰」を説く人たちがいたことが推測できる。筆者は、「あなたがたが巧みな議論にだまされないようにするため」に「どれほど労苦して闘っているか、分かってほしい」と述べている。また別の箇所では、「むなしいだましごとによって人のとりこにされないように気をつけなさい」(二8)と諭している。教会を作りあげていった使徒たちは、教会の外なる不信仰と闘うと同時に教会内の「異なる福音」と闘わなければならなかった。そして「異なる福音」を説く人たちも、自分たちこそ真のキリスト者であると主張して譲らなかった。そのなかの最も大きな勢力はグノーシス主義者であったと言われている。救いについての彼らの教説はイエス・キリストという歴史的啓示に基づくものではなく、人間の思考力と想像力から作り上げたものであった。いわば創作神話であった。それゆえ「むなしいだましごと」(二8)と表現されている。また律法や戒律、あるいは儀式の厳守を救いの条件とするユダヤ教的な信者もいたと推測できる(二16)。さらに、キリストの救いと並んで、星々の秩序と運行、四大元素(土、水、空気、火)が人間の運命や自然界におよぼす力、あるいはそれらを支配する天使たちの力を信仰する人たちもいた。2章8節および20節の「世を支配する霊」はそのような力を指している。それらの「異なる福音」との厳しい闘い、論争のなかからキリストのみが救い主であり人格的真理であるとする信条あるいは教義が明確化されていったと考えられる。したがってそれらは信仰が間違った方向に向かわないために極めて重要であると言える。『共助』(21年2号)に書かせていただいたように、私はいくつかの教会でつまずきを経験してきたために信条あるいは教義の重要さを承知しているつもりであるが、それらはあくまでも信仰を入れる容器あるいは防御柵であって決して生きた信仰そのものではない。信仰とはキリストとの愛の内にある交わりであり、命であり、力であり、新しい創造である。そのことを伝えるためにコロサイ書は心を尽くし、知恵を尽くして説き明かしている。「あなたがたの内におられるキリスト」(一27)、「わたしの内に力強く働くキリストの力」(一29)、「あなたがたの命であるキリスト」(三4)、「あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです」(二10)等にその一端が表れている。

ユダヤ人哲学者マルティン・ブーバー(Martin Buber, 1878 -1965)によると、対象から距離をとっての知り方は、「我とそれ」という関係における知り方である。ちなみに「それ」は三人称を表していて、「それ」のなかには人間も含まれる。これは、すでに述べたように、私たちの誰もが日常的に行っている知り方である。「我とそれ」との関係においては、「我」も「それ」も変化することはない。このような知り方を日本語で「○○について知る」と表現することができる。

もう一つは、出会う対象に対して心を開いて関わり合い、その関係のなかで相互を知る知り方である。この知り方は「○○を知る」と表現することができる。コロサイ書で述べられている神(キリスト)を知る知り方はこれであり、ブーバーのいう「我と汝」という関係による知り方である。この関係のなかでは相手も変化し、自分も変化する。ごく単純化してお話ししたい。彼の『我と汝』という本のなかに、「悪人に出会えば悪人になり、善人に出会えば善人になる」「悪人もまた、善人に出会えば、心を開く」という言葉が出てくる。私たちは、いやな人間に出会えば自分のいやな面が引き出されてくる。そして、関係は、持続すればますます悪くなってゆく。反対に、好ましい人に出会えば自分のなかに好ましい面が引き出されてくる。9節、10節に書かれている知り方は、後者の知り方である。知ることによって、変化し、成長し、実を結ぶという運動のなかに引き入れられる。「〝霊〟によって神の御心を十分に悟れば」、私たちは変えられる。キリストの十字架による罪の赦しを知れば、このような罪と破れをもつ人間を、これほどまでに愛してくださる方に応えて、その方に喜ばれるように生きたい、その方に従って歩みたいと思うはずである。それは自然な心の動きである。

3.よい業と神の認識

そこまではよく理解できる。問題は次の文章である。「よい業を行って実を結ぶ」ことが、なぜ「神をますます深く知る」ことになるのであろうか。ここでまたラインホルト・シュナイダー(Reinhold Schneider, 1903 – 1958)の言葉を引用することを許されたい。「われわれは真理を実行することによってのみ、真理を認識するであろう」「われわれがキリストのあとに従う限りにおいてのみ、キリストを見いだすことができる」。ここでいう真理とは端的にイエス・キリストのことである。イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハ一四6)と言われたが、そのキリストの後にしたがい、キリストに倣ならって生きること、それをシュナイダーは真理を実行すると言い、さらには「キリストを行う」とも表現する。そうする限りにおいてキリストを知ることができるというのである。先ほどの、よい業を行って実を結ぶことが、神をますます深く知ることになるという場合と併せ、「キリストに従うこと」あるいは「よい業を行うこと」が神を知る条件になっている点で共通していると言える。私は、これらの言葉の前で考え込んでしまった。私たちは信仰によってのみ義とされる。しかも律法にかなった行いあるいは何らかの功績や資格によってではなく、無条件で義とされる。ところが先ほどのシュナイダーの言葉は、ルターの信仰義認と対比すると、律法主義(行為義認)の響きをもっている。

今から振り返ると、私は長年、信仰義認に重きを置き、そこから自ずとキリストに従う行為が生まれてくると考えていた。ルターもまた「キリスト模倣が神の子を作るのではなく、神の子となることによって模倣者となるのである」と言っている。その通りであると言わざるをえない。しかし、イエス・キリストとの人格的信頼関係としての信仰においては、信仰義認とキリスト模倣は矛盾なく両立し得るのではないであろうか。

「信仰によってのみ義とされる」という命題は「恵みによってのみ義とされる」と言い換えることができる。ところが、ルター以降の正統主義で起こったように、それが原則あるいはお題目のようになってしまうと、罪が安易に取り扱われる可能性がでてくる。そして、実際にこのような事態を生んだ「恵み」をボンヘッファーは「安価な恵み」と名づけた。

4.信仰義認と安価な恵み

安価な恵みは、私たちが御子の生命という高い代価を払って罪を赦され、義とされていることを忘れてしまうことから生じる。それに対して高価な恵みは、御子の高い犠牲に対して、罪赦された側の人間も、それに応えてイエスに従って歩むこと(Nachfolgeナッハフォルゲ)のなかで成り立つ。それをボンヘッファー(DietrichBonhoeffer, 1906 – 1945)は、「恵みが信従(Nachfolge)を含む」と表現する。イエスは天の国を高価な真珠にたとえて、良い真珠を探している商人は、それを得るために持ち物をすべて売り払ってそれを手に入れる(マタ一三46)と語っておられる。高価な恵みには高価な代償が含まれているのである。Nachfolge というドイツ語は「服従」と訳されることが多い。

ところで、「服従」は命令や指示に否応なく従うことで、自由な意志は許容されないニュアンスをもっている。しかしドイツ語の意味は「ある者の後についてゆくこと」である。たとえば、ガリラヤ湖で漁をしていたペトロとアンデレ兄弟にイエスが声をおかけになる場面を思い起こす。「『わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう』と言われた。二人はすぐに網を捨ててしたがった」(マタ四19―20)。「ついてきなさい」「したがった」の両方に用いられているのはNachfolge の動詞形である。さらにNachfolge は「模範として見習うこと」「模倣」等の意味を帯びてくる。したがって、これを「服従」と翻訳すると誤解を生む恐れがある。「随順」や「随従」あるいは「従順」とも訳せるが、「信頼してついてゆく」さらには「主の姿に倣う」という意味を込めて「信従」という言葉を使いたい。

安価な恵みが生じる原因はどこにあるのであろうか。それはブーバーの言葉を借りると、私と恵みとの関係、私とキリストとの関係が「我と汝」の関係ではなく「我とそれ」の関係になっているからである。この場合、信仰によって義とされても、私は少しも変化しない。いや、むしろ以前よりもいいかげんな、厚顔無恥な人間になってしまう可能性がある。ボンヘッファーは「安価な恵みとは罪の義認のことであり、罪人の義認のことではない」(森 平太訳『キリストに従う』)と言う。見事に的を射た言葉である。信仰が人格的信頼関係でなくなると、もはや本当の信仰ではない。人格的信頼関係のなかでは、恵みと信従は、お互いに他を排除し合うことなく、一体のものとして存在することになる。重要な部分と思われるので、もう少しボンヘッファーを引用したい。「信従はキリストに堅く結びつくことである。キリストがおられるゆえに必然的に信従が生じる。キリストに関する理念、教義体系、恵みあるいは罪の赦しに関する普遍的・宗教的認識―そのようなものは信従を必要不可欠なものとはしない。そればかりか、実際には信従を排除し、信従に敵対する。(……)生きたイエス・キリストを欠いたキリスト教は必然的に信従を欠いたキリスト教にとどまり、信従を欠いたキリスト教は、常にイエス・キリストを欠いたキリスト教である」

(同上書拙訳)。           (日本基督教団 御所教会員)