礼拝〜「旧約聖書の基礎知識」 第1回 小友 聡
10回にわたって聖書研究を担当することになりました。皆さんにどう聖書の言葉を届けるかを考え、最近出版された拙著『聖書のことば辞典』(教文館、2025年)で扱わなかった旧約用語を、この雑誌で解説させていただくことにしました。これは旧約聖書をよく理解するための手引きで、皆さんの学びの助けになれば、幸いです。第1回は「礼拝」です。
礼拝とは
「礼拝」は聖書において基本的な概念です。旧約聖書では「礼拝する」には「仕える」「ひれ伏す」という基本的意味があります。旧約聖書において、礼拝の特質として幾つかの点を指摘することができます。箇条書きですが、挙げてみます。(1)ヤハウェ(主)が礼拝されること、(2)エルサレム神殿が唯一の礼拝場所とされること、(3)罪の贖(あがな)いとしての犠牲奉献が祭儀の中心であること、(4)農耕祭儀(除酵祭、七週祭、仮庵祭など)が定期的に行なわれること(5)祭司およびレビ人を構成員とする祭司制度があること、(6)安息日が厳守されること、などが重要です。しかし、キリスト教信仰において私たちが最も重要と考えるのは、旧約聖書の礼拝がヤハウェとイスラエル共同体との「契約」を成立させる決定的に重要な形(あり方)だということです。しかも、それは、共同体全員が「出エジプト」という救済の歴史的出来事を絶えず想起し、それを現在化するという仕方で執行されます。ここに、旧約聖書における礼拝の神学特質があります。
このことは、出エジプト記12 章が明らかにします。皆さんがよく知っているエジプト脱出の奇跡的場面です。そこでは、エジプト脱出という歴史的出来事が叙述される中に、突然、過越祭の祭儀的記述が入り込み(1―27節)、礼拝と歴史が渾然一体となります。きっと皆さんは「あれっ」と思うはずです。出エジプトという過去の救済の出来事が過越祭という礼拝において融合する(現在化する)のです(24― 27 節)。しかも、ここで注目されるのは、「壮年男子だけでおよそ六十万人」という驚くべき記述!(37節)。どういうことなのか。これは、イスラエル共同体の全員がこの救済の出来事に参加している、という事実を物語ります(47節)。言い換えると、イスラエルの共同体は礼拝において、かつて起こったヤハウェの救済の大いなる出来事を、常に、今、ここで体験するのです。その際に贖いのしるしとして動物を屠(ほふ)り、犠牲にささげることは過越の重要な要素となります(21節)。このような礼拝形態は、イスラエルの共同体がヤハウェとの交わりの回復を確認するものであって、契約更新祭と言えるでしょう。これが「過越祭」であり、旧約聖書の礼拝の本質を語っています。これは新約聖書の礼拝観の神学的基盤となりました。
旧約聖書における礼拝の歴史的変遷
旧約聖書から、新約聖書の時代に至る礼拝の歴史を辿ってみたいと思います。
(1) 王国成立以前
王国成立以前には、礼拝は各地の聖所において祭儀として行なわれていました。族長時代については、信憑性が問題となりますが、氏族ごとに聖所において礼拝が行われました(創12:5など)。「アブラハムの神」、「イサクの神」、「ヤコブの神」という神名は、それぞれの部族神の名称であった可能性があります(出3: 6、15)。聖所の祭壇には石像や記念碑が置かれ(創28:18)、カナン宗教の祭儀と何らかの関係があったようです。
カナン定着時代には、ベテル、ベエルシェバ、シケム、ギルガルなど地方聖所において祭儀が執行されました。イスラエル十二部族連合(アンフィクチオニー)なるものが存在したことは証明できませんが、そのような部族の連合体の中心聖所としてシケムがあり、そこで礼拝祭儀が行なわれました。これは古代の犠牲祭儀や農耕祭儀の形態と結びついていたと思われます。
しかし、この祭儀は伝承によれば契約更新祭であって、ヤハウェに対する民の信仰告白が礼拝の度ごとに表明されました。まず、ヤハウェの法(十戒や契約の書など)が朗読され、それに対する民の厳粛な恭順表明、契約の締結という礼拝順序であったようです。この内容は、シナイ契約(出エジプト記19― 24 章)やシケム契約(ヨシュア記24章)からある程度推測することができます。
(2)王国時代
王国時代の礼拝において重要なことは、紀元前10世紀にソロモンによってエルサレム神殿(第一神殿)が建設されたことです。いわば国家聖所としてエルサレム神殿は極めて重要な意義を有しました。神殿の至聖所には、二つのケルビムの翼の下に神の箱が安置されました(列上8:6―7)。それはヤハウェの王座であり、神臨在のしるしでした。神殿で執行される祭儀は犠牲祭儀(列上8:62―66)ですが、除酵祭・七週祭・仮庵祭(取り入れの祭)といった年毎の農耕的祝祭もまた制度化し(出34:18―24)、ツァドクの家系を中心とする祭司制度も整いました(列上4:4、8:4)。
しかし、エルサレム神殿は唯一の礼拝場所であったわけではありません。地方聖所でも従来の祭儀が行なわれました。それはソロモン自身の宗教的態度が浅薄であったこととも関係します(列上11:4―8)。ソロモンの死後、王国は二つに分裂しました。南王国ではエルサレム神殿が国家聖所として求心力を保持しましたが、北王国ではすでに存在していたベテルとダンの地方聖所が国家聖所化し、エルサレム神殿を相対化する存在となりました(列上12:28―33)。申命記史家はこの北王国の礼拝形態を偶像崇拝とみなし、厳しく断罪しています(列上13:33―34「ヤロブアムの罪」)。記述預言者も北王国の異教的祭儀を徹底的に批判しました(ホセ4:12―14、アモ2:8、5:21―27。なお、イザ1:11―17では南王国の祭儀も批判されます)。王国時代の礼拝において決定的に重要な出来事は、北王国滅亡の後、紀元前622年に南王国のヨシヤ王が宗教改革を断行したことです。彼は異教的習慣がはびこる地方聖所での礼拝を一掃し、エルサレム神殿を唯一の礼拝場所としました(列下23章)。エルサレム神殿はヤハウェが住む唯一の場所となりました。この改革において、祭儀の中心は過越祭となり、出エジプトの出来事と結びつけられたのです(列下23:21―23)。ヨシヤ王の改革は彼の戦死によって挫折しますが、共同体全体がエルサレムの神殿礼拝に徹底的に集中するという決断は、ヤハウェ宗教を決定づける意義を有しました(例えば、使徒2:5以下でディアスポラのユダヤ人がエルサレム神殿に巡礼している)。
幾つかの詩編は、明らかに礼拝式文として用いられ、この第一神殿時代の背景をほのめかします。例えば、典礼歌として知られる24編や81編では、神殿礼拝において祭司と礼拝参列者との交唱形式が見られます。「王の詩編」(2編、18編、20編、21編など)や「巡礼歌(都に上る歌)」(120― 134編)という類型にあてはまる詩編も同様に礼拝式文として使用されたものです。
(3)捕囚期
捕囚期は旧約聖書の礼拝史において、決定的な意味があります。ヤハウェ礼拝の場所消滅という破局的出来事から捕囚期が始まるからです。紀元前587年、バビロニア軍の侵攻によるエルサレム神殿の崩壊は、南王国ユダの滅亡を象徴する出来事であっただけでなく、ヤハウェが住まう場所を失ったことを意味しました。神殿が存在しない以上、祭儀は執行できず、祭司制度も全く機能しません。多くの民はバビロンに捕囚され、ヤハウェ礼拝は不可能となりました(列下25章)。この破局的現実によって祭儀中心の礼拝観は全く実体を失い、著しい精神化を余儀なくされます。この事態を克服するため、生き残った民は二つの神学的解決を企てました。一つは申命記史家の神学であり、もう一つは祭司文書編集者とエゼキエルの神学です。
申命記史家によれば、神殿消滅によってヤハウェ(万軍の主)は住まう場所を失い、天に座しました。それによって申命記史家は、主の御名がエルサレムに留まる、と説明しました。申命記史家は「神の名」の神学によって克服を図ったのです。一連の申命記的歴史書(ヨシュア記、士師記、サムエル記上下、列王記上下)にはその神学的意図がはっきりと見出されます。例えば、ソロモンの祈りにおいて、「あなたの民が神殿に向かって祈り、御名をたたえるときに……あなたは天にいまして耳を傾けてください」と記されます(列上8章35節以下)。ヤハウェは神殿にはおらず天におり、御名をたたえる民の祈りを聞くのです。礼拝において「言葉」が決定的に重要となりました。これは明らかに申命記史家の神学を反映します。この申命記神学は神殿を理念化し、犠牲祭儀によらず、神の名を呼ぶ「祈り」による礼拝を可能とさせました(ダニ6:11)。
祭司文書編集者もこれと類似した神学的解決を試みました。エルサレム神殿の消滅によって祭儀不能となりましたが、祭司文書編集者は「天幕」において神の栄光が民に留まった荒野の放浪時代を理想化し、それによって神殿なしの現実の克服を図りました。実際、祭司文書では「神の栄光」は共同体の危機において現われます(出16:7、10、民14:10、16:19、17:7、20:6)。ヤハウェの現臨する天幕がたえず荒野を移動したように、神の栄光はエルサレムを去ったとしても一時的であって、また再び戻って来るのです。
この「神の栄光」の神学は捕囚期の預言者エゼキエルにも認められます。彼は新しいエルサレム神殿の幻において、イスラエルでの「神の栄光」の回復を見ました(エゼ40―48章)。
これらは神殿礼拝の不可能を解決するための神学上のコペルニクス的転回だったと言えます。このような捕囚期の神学は、「祈り」を重要な要素とする後代のシナゴグ(会堂)礼拝を産み出す思想的基盤となりました。また、哀歌や詩編の「民族の嘆きの歌」なども、この捕囚期を背景にした礼拝の形態をほのめかします(詩44編、74編、79編、80編、137編など)。
(4)捕囚後
バビロン捕囚は紀元前538年、キュロス王の解放による捕囚民の帰還によって終わりました。捕囚後の紀元前515年、エルサレム神殿は再建されました(第二神殿)。七十年の空白期間を経て、ようやく神殿祭儀が復興し、祭司やレビ人から成る祭司制度も復活しました(歴上23―24章)。エズラ記はこの神殿祭儀の再開を印象深く記述します(エズ7:19―22)。紀元前5世紀、神殿を中心にしたユダヤ教団が成立します。祭儀礼拝の規定遵守が厳格に義務づけられました。一方、ディアスポラ(離散)のユダヤ人たちによってシナゴグ礼拝がユダヤ教の新たな礼拝形態として成立しました。そこでは、祭儀なしで律法(トーラー)の朗読が中心となりました。詩編が編纂(へんさん)されたのはこの時期です。ハレルヤ歌集(146― 150編)という頌栄で締め括られる詩編は、それ自体、礼拝での使用を意図しています。捕囚後に記されたヨブ記には、不条理の現実における礼拝者の苦悩と救済を主題とします(ヨブ2:20―21、42:1―6)。このような捕囚後のユダヤ教礼拝のありようが新約時代の礼拝の背景となるのです。
(日本基督教団 妙高高原教会代務者)
