雅歌の解釈をめぐって(第五回)小友 聡

雅歌の解釈をめぐって考察をしてきました。いくつかの解釈を紹介しましたが、私自身の解釈についてそろそろきちんと書かなければなりません。連載の第一回目に多少、書きました。それは、雅歌が旧約の知恵文学であって、知恵の「謎解き」を企てている書ではないかということです。雅歌という文書がそれ自体として比喩的解釈の機能を内蔵していると見る私の仮説です。この仮説を今回、もう少し丁寧に述べたいと思います。

1 「謎解き」ということ

「謎解き」とは、知恵文学に固有なものとして内在する解釈の方法です。箴言1章1―6節にこう書かれています。

「イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言。
これは知恵と諭しを知り
分別ある言葉を見極めるため。
見識ある諭しと
正義と公正と公平を受け入れるため。
思慮なき者に熟慮を
若者に知識と慎みを与えるため。
知恵ある人は聞いて判断力を増し
分別ある人は導きを得る。
箴言と風刺を
知恵ある言葉と惑わす言葉を見極めるため。」(聖書協会共同訳)

この箴言冒頭では知恵の定義が語られ、おしまいの6節で、「分別ある人」が見極めるべきことが4つあると言われています。「箴言」「風刺」「知恵ある言葉」「惑わす言葉」の4つです。「箴言」(マーシャール)は格言のこと、「風刺」(メリツァー)は「寓話」や「譬え話」を意味し、「知恵ある言葉」(ディブレー・ハカーミーム)は賢者たちが語った言葉のことで、「金言」と言えるでしょうか。そして、最後の「惑わす言葉」(ヒードーターム=ヒーダーの複数形)は、「謎」あるいは「暗示的な言葉」を意味します。箴言という格言集(メシャリーム)はこれらのことをすべて含んでいるということです。

この6節に出て来る4つの語はそれぞれに意味が重なり合い、融合しています。ヘブライ語のニュアンスはギリシア語に訳されると、微妙なずれが生じます。たとえば、「風刺」(メリツー)は基本的には「寓話」「譬え話」を意味しますが、ギリシア語70人訳聖書では、パラボレー(譬え)がマーシャール(箴言)の訳語となります。面白いことに、知恵文学では、譬え話を解釈し理解することも知者が果たすべき重要な解釈の方法です。新約聖書の譬え話と比較して考えてみましょう。皆さんがよく知っているマルコ福音書4章の「種蒔きの譬え」に注目します。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。」(3―4節)

これは譬えの導入部分です。種蒔く人の姿が描写され、最初に蒔かれた一粒の種の顛末が記されます。この譬えは、しかし解き明かされる必要があります。主イエスはこれを次のように解き明かしました。

「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。」(14―15節)

これは譬えの「謎解き」であり、これによって、先の譬えの謎が解けます。つまり、3―4節の譬え話は「謎かけ」なのです。この譬え話を字義通りに読んでも意味を読み取ることはできません。「譬え話」は字義通りには、ただ単に種蒔く人の逸話に過ぎないのです。しかし、この譬え話には隠された意味が含まれています。謎解きがされて初めて「譬え話」は譬え話として意味を持ちます。この「謎かけ」と「謎解き」の両方がマルコ福音書の譬え話に記されているのです。この「譬え話」では、「種」は「神の言葉」、「鳥」は「サタン」のメタファーとしての両義性を有しています。「種」はシニフィアン(指示するもの)であり、「神の言葉」はシニフィエ(指示されたもの)です。重要なことは、このマルコ福音書の「譬え話」にはそれ自体として謎解きのベクトルが織り込まれているということです。譬え話の真の意味は解き明かされなければなりません。この「譬え話」の解き明かしのメカニズムは、旧約の知恵文学に由来します。福音書は旧約の知恵伝承を的確に継承しているのです。

箴言では、このような「譬え話」がマーシャール「格言」あるいはメリツァー「風刺」に含まれるのです。そしてまた、この譬え話の意味を解き明かすことが知者の使命だとされるのです。そこで、「格言」「風刺」と並んで、もう一つの知恵的要素であるヒードーターム「惑わす言葉」(あるいは謎かけ)について考えてみましょう。第1回でも紹介しましたが、箴言の「謎かけ」を紹介します。「わたしにとって、驚くべきことが三つ、知りえぬことが四つ。天にある鷲の道、岩の上の蛇の道、大海の中の船の道、男がおとめに向かう道」(箴言30:18―19、新共同訳)

この箴言の格言には「謎かけ」が読み取れます。ヘブライ語の「デレク」(道)が謎かけとして機能します。デレクは字義通りには「道」であって、鷲が空を飛ぶ経路、蛇が這う道筋、大海を渡る航路は、それぞれ追跡不能な驚くべき「道」です。けれども、デレクには比喩的には「態度」や「支配」という意味もあります。四番目の「男がおとめに向かう道」の「道」は「歩行経路」だけではなく、「(結婚への)態度」や「(おとめの)領」をも暗示します。そこに、驚くべきこと、すなわち男女の愛は謎めいていて、とうてい知り得ないという謎かけの「落ち」があるのです。ウイットに富んだなぞなぞです。知者は愛の秘義性に関心があります。この箴言の格言では、デレク「道」はいわば暗号的言語であって、知者である箴言の著者は同時的解釈の仕掛けをし、この四つの例を並べて解いて見せるのです。箴言冒頭で、知者がマーシャールやメリツァーのみならず、ヒードータームを理解する、ということはこういうことなのです。これを単なる言葉遊びや駄洒落にすぎないと過小評価することはできません。このような暗号的言語を用いたなぞなぞは箴言のいたるところに見られます。要するに、箴言を典型とする知恵文学は、字義通りの読みのほかに、二義的、多義的な意味を含んだ文学形態だということです。知恵文学には、字義通りの読みとその解釈の機能が内蔵されているのです。

2 雅歌の「謎解き」を理解するために

雅歌には知恵文学に固有の「謎解き」が機能しています。雅歌の冒頭に「ソロモンの雅歌」という表題がありますが、これは後代の編集者による付加だと読み飛ばすべきではありません「ロモン」が知恵の権化であり、箴言の冒頭にも「ソロモンの箴言」という表題がついているのですから、当然のことながら、「ソロモンの雅歌」もソロモンの権威において記述されている知恵文学だと見るべきではないでしょうか。今日、雅歌を知恵文学に帰属すると考える学者はほんのわずかです。雅歌には「知恵」(ホクマー)という語が一度も出て来ないからです。神の名も一度も出て来ません。そこで、雅歌は単なる恋愛文学と見なされるわけです。けれども、それは短絡的です。雅歌は知恵文学であり、イスラエルの知恵に固有な思考によって記述されていると考えるべきではないでしょうか。このことについてもう少し、説明をしておきたいと思います。注目したいのは士師記14章にあるサムソンの物語です。ここに、イスラエルの知恵的謎解きの興味深い実例があります。雅歌の「謎解き」を理解する上で、参考になる記述ですので、紹介いたします。士師記は知恵文学ではありませんが、イスラエルの知恵的伝承が顔をのぞかせます。雅歌解釈の前にもう少しお付き合いください。

士師記14章の物語は、サムソンが妻を迎える宴会で「謎」をかけ、サムソン自身が愛する女にそそのかされて、とうとうその謎かけの答えを明かしてしまう逸話です。ここに典型的な「謎かけ」と「謎解き」があります。

「食べる者から食べ物が出た。強い者から甘い物が出た。」(14節)

「蜜より甘いものは何か。ライオンより強いものは何か。」(18節)

この物語には、怪力サムソンが宴会に出かける途中、自らが素手で引き裂いた若いライオン(アリー)の死骸に蜜蜂が巣を作っていたため、サムソンはその蜜をなめたという経緯が記されています。サムソンは婚宴を催し、客人たちに言いました。「あなたたちに謎(ヒーダー)をかけたい。」客人たちは次のように答えます。「謎をかけてもらおう。聞こうではないか。」そこで、サムソンは14

節にある「謎かけ」をしたのです。これについて、鍵となるのはおそらくアリー「ライオン」というヘブライ語です。アリーという語はウガリト語では「蜜」を意味し、アラビア語起源を有すると言われます。物語の著者はこの語の両義性を知っており、これにひっかけて「食べる者(=ライオン)から食べ物(=蜜)が出た。強いものから甘いものが出た」という謎かけをしたのです。言語的知性に訴える知恵のなぞなぞです。客人たちは七日目になっても謎が解けないため、女を脅します。サムソンは女に泣きつかれて、万事休す。この謎かけは、ついに18節で「蜜より甘いものは何か。ライオンより強いものは何か」によって解かれてしまいました。この物語では、サムソンの直接体験から謎解きができるように面白く書かれています。けれども、先ほど紹介した箴言の謎かけでデレク「道」がそうであったように、アリーという暗号的言語の両義性が謎解きを促しているのです。ここでのサムソンの「なぞなぞ」はイスラエルの伝統的な知恵の逸話です。箴言1章6節で、知恵の本質としてのヒーダー「謎」の実例がここに見出されます。

このサムソンの逸話にはもう一つ興味深いことがあります。それは、士師記14章でこの逸話が婚宴の文脈にあるということです。サムソンはティムナの女を花嫁に迎えるために「婚宴」に出向く途中、「ぶどう畑」で「ライオン」にまつわる「謎解き」の出来事に遭遇するのです。しかも、サムソンは愛するティムナの女にすっかり心を奪われ、この女に謎解きをしつこく迫られて、とうとう彼女に屈し、自ら謎を解いてしまいます。サムソンがぶどう園と婚宴という場において、愛する娘との愛に酔いしれる中で、知恵の謎かけと謎解きが行われるのです。これは実に示唆的です。

そこで、雅歌5章1節に注目します。

「私の妹、花嫁よ
自分の園に私は来ました。
私は私の没薬と香料を集め
蜜の滴る私の蜂の巣を食べ
私のぶどう酒とミルクを飲みました。
友人たちよ、食べなさい。
恋人たちよ、飲んで酔いなさい。」

この雅歌の一節は、花婿(若者)が愛する花嫁(恋人)に語り掛ける愛の言葉です。「自分の園」はぶどう園をほのめかします。

甘い「蜜の滴る蜂の巣」を食べ、酔いしれる男女のロマンティシズムが表現されています。このような場面は雅歌において終始一貫しています。さらに注目すべきことに、ここで「私は私の没薬と香料を集め」という表現のヘブライ語動詞「私は集め」(アーリーティ)は、ヘブライ語のアリー「ライオン」を含む字体で記されています。これは偶然ではなく、意図的な言語的技巧と言わざるを得ません。考えてみると、この雅歌の一節は、その情景において、士師記14章のサムソンの逸話とそっくりではないでしょうか。ちなみに、悪さをする動物としてジャッカル(狐)が登場するのは旧約では雅歌(2:15)とサムソン物語(15:4)だけです。雅歌の著者はサムソン物語を知り、この物語を

巧みに利用して表現していると考えざるを得ません。おそらく雅歌の著者は、サムソン物語に引き寄せて愛の歌を表現しているのです。雅歌はイスラエル知恵文学の伝統を継承し、謎解きの文書として書かれているのではないか。これが私の仮説なのです。もし、そうであれば、雅歌はどのように読み取れるでしょうか。その謎解きをさらに進めてゆきたいと思います。

3 雅歌は知恵文学である

雅歌が「謎解き」の書だということを述べました。恋愛歌集である雅歌を旧約聖書においてどう位置付けるかで誰もが苦労します。組織神学者カール・バルトもそうです。彼は雅歌を創世記の創造論と対極にある終末論において、雅歌を読み直すという試みをしました。また、フィリス・トリブルは創造物語との接続において雅歌の意味を説明しようとしました。雅歌を旧約書の中に位置づけるためにさまざまな試みがされますが、雅歌が「ソロモンの雅歌」と呼ばれる以上、知恵文学の伝統の中で説明できると私は考えます。雅歌はいわば謎解きを求める壮大な「譬え話」として書かれているのではないでしょうか。この理解の仕方が、教会に雅歌を取り戻すための手がかりになると思うのです。(東京神学大学教授・日本基督教団 中村町教会牧師)