「コロサイの信徒への手紙」を読む(三)キリストを着る 下村 喜八

コロサイの信徒への手紙 第1章21節―22節、第3章12節―14節

1.聖なる者、完全な者

「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました(一21―22)

「『コロサイの信徒への手紙』を読む(一)」において、「コロサイ書」では「義」あるいは「信仰によって義とされる」というパウロに特徴的な神学概念は用いられていないことについて触れた。この個所はその代表的なものと言える。

ここで用いられている「聖なる」「きずのない」「とがめるところのない」という三つの形容詞は、旧約聖書において神に犠牲として捧げられる動物の吟味条件であった。神に捧げられる聖なるものは、無傷で欠点のないもの、すなわち完全なものでに気づく。十字架の贖罪による和解の目的は、人間をして、ご自身の前に文字通り聖なる者、完全な者、傷のない者として立たせ、交わりを回復することにあると言える。

そればかりではない。2章9節および10節には、「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿っており、あなたがたは、キリストにおいて満たされているのです」とある。「キリストにおいて満たされている」とは、何によって満たされているのであろうか。原文に欠けている部分を補い、「キリストにおいて、その神性によって満たされているのです」と理解するのが妥当であろう。したがって、パウロが「ロマ書」や「ガラテヤ書」で、信仰によって義とされると語っていることがらは、「コロサイ書」では聖なる者、完全な者、神性に満たされた者とされるということと同じである。

このように、私たちは十字架の贖いによって聖なる者、完全な者とされている。しかしその実質を備えているわけではない。「すでに」と「いまだ」の中間にいる。この「すでに」と「いまだ」の間に私たちの生活があり、私たちの実存の問題性のすべてがこの狭間であらわになる。キリストを仰ぎ見て感謝と喜びに満たされる。しかしまた罪に苦しみ、破れに苦しむ。福音を証したいと願っているが、むしろ人の躓きになっている。

コロサイの教会には、自分たちはすでに完全な者になっていると信じ、またそのように喧伝すると共に、「すべてのことが許されている」と自由奔放で自堕落な生活を送っていた人たちもいたと伝えられている。しかし「コロサイ書」でいう完全な者なければならなかった。そのような奉納物のもつ物質的・外見的な意味が、ここでは精神的・倫理的な意味に転用されていることになる。神はイエス・キリストという姿をとってこの世にくだり、十字架につけられた。「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです」(一14)。この贖いによって、聖なる者、傷のない者、すなわち完全な者として神のみ前に立てるようにしてくださった。イエス・キリストは山上の説教のなかで、「あなたがたは天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタ五48)と語られ、またレビ記に「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」(レビ一一45)と記されているが、その二つの言葉がイエス・キリストにおいて、私たちの身に実現されたことになる。「完全な者」という表現は、コロサイ書では二箇所に出てくる。「すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています」(一28)。「彼(エパフラス)は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています」(四12)。

ところで、私は今まで、「聖」は「区別」や「分離」を表す語であると考えていた。したがって新約聖書に出てくる「聖なる者」とは、単に世俗の人々と区別してキリストに属する者を意味する、すなわち一般にキリスト者のことを表していると。しかし今回コロサイ書を虚心に読むと、「聖なる者」は倫理的・人格的に「完全な者」とほとんど同じ意味で用いられていること「コロサイの信徒への手紙」を読む(三) キリストを着るは、「そのようにみなされた完全な者」であり、その実質を備えるべく、主の愛と信頼に応えて「主に従って歩む者」(一10)のことであろう。

2.新しい人

「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(三9―10)ルターは人間のことを、「おのが内へと屈曲した心、したがって究極には自己自身を愛し、神と隣人を愛さない心」と定義している。そのような、生まれながらの人間のことを、ここでは「古い人」と呼んでいる。それに対し「新しい人」とは、キリス

トの贖いによって新たにされ、キリストの愛に生かされる人間のことである。この新しい人間は、彼をいわば再創造したキリストの姿にかたどって造り直されることになる。

先に引用した新共同訳では、古い人を脱ぎ捨て新しい人を着ることは、キリスト者に求められる要請あるいは命令であるように読み取れる。聖書協会共同訳においても「新しい人を着なさい 」と訳されている。しかし、この箇所を、命令形ではなく完了形に訳している翻訳も多い。口語訳では「新しい人を着たのである」とある。また黒崎幸吉訳、前田護郎訳、ルター訳はじめ三種類のドイツ語訳および二種類の英語訳においても完了形になっている。どちらにも読むことができるのであれば、コロサイ書の叙述の流れからすれば、完了形と解する方が妥当だと思われる。また「造り主」は、神あるいはキリストのどちらともとれるが、神の具象的な姿としてのキリストと解するほうがよいであろう。「真の知識に達する」と訳されているくだりに関しては、「真の」という形容詞は原文にはなく単に「知識に達する」である。そして「コロサイ書」では、「知識」あるいは「知る」ことの眼目はキリストを人格的な交わりのうちに知ることである。「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」(二3)とある通りである。また3章9節の部分を、黒崎、前田、ルター訳を参照しながら、解釈を加えて意訳すると次のようになる。「あなたがたは古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を身につけました。新しい人はその造り主にかたどって日々新たにされています。彼を知るようになるためです」。もう一つ注目すべき点は、「新たにされる」と受身形になっている点である。「すでに」と「いまだ」の間にあって、キリストの姿に倣って、新しい人の実質を備えてゆく営みは、人間の倫理的な能力と努力によるものではなく、あくまでも神の恵みと霊の働きによるものと考えられる。

パウロの真正な手紙では、罪の内に生きる古き生命を「肉」と呼び、キリストの愛に生かされる新しい生命を「霊」と呼んでいる。「コロサイ書」では前者は「肉の体」(二11 )と言い換えられている。それは、罪の中に死んでいた人間(二13 )、不従順な者(三6)である。それに対して「新しい人」とは、御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ている人間(一14)、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させらた人間(二12)である。その人は、キリストにおいて満たされており(二10)、キリストに結ばれ、キリストに根を下ろして、造りあげられてゆく(二6―7)。キリストと同じ姿へと。その完成は将来キリストと顔と顔を合わせて出会う時に成就する。したがって「新しい人」とは、日々新しくされてゆく現在進行形の人間である。「新しい人」の新しい生命は、キリストの生命、キリストの愛の内にある生命であり、私たちは、このような「罪人であり罪人に過ぎない人間」のなかに、かすかではあってもそれが息づき始めていることを知っている。

少し「コロサイ書」を離れ、パウロの真正の手紙から「古い人」「新しい人」について考えておきたい。「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立しあっているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」(ガラ五16―18)。霊と肉は対立しあっている。私たちが神の無条件な愛に出会うとき、そこにキリストの霊が働き、私たちがしたいと思っている悪いこと(肉の業)が自然と出来なくなる。ここの消息は「ロマ書」7章に書かれているパウロの歎きと正反対である。そこでは「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。(……)わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」(ロマ七18―24)とある。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいる罪を行ってしまうということである。

しかし「ガラテヤ書」のこの箇所では、罪の業が自然とできなくなるというのである。私たちにもそのような不思議な経験をする可能性が開かれている。それは自分の意志に逆らって無理やり行うとか、努力精進を重ねて行うというのではない。キリストの愛に捉えられると、キリストが私を通して霊の業を行ってくださる。そのような事態をパウロは「生きているのは、もはやわたしではない。キリストがわがうちに生きておられるのである」(ガラ二20)と語る。これがキリスト者のあるべき真の姿であろう。それを「コロサイ書」は、「あなたがたの内におられるキリスト」(一27)、「あなたの命であるキリスト」(三4)と表現する。キリストがわが内におられ、われはキリスト内にいる。「彼はわれなり、われは彼なり」(内村鑑三)。

3.キリストを着る

「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍びあい、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛はすべてを完成させるきずなです」(三12―14)。

3章9節の「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て」から14節の「愛はすべてを完成させるきずなです」までは衣服の隠喩が用い「コロサイの信徒への手紙」を読む(三) キリストを着るられている。古い人が着ていたものは「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲」(三5)さらに「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉」(三8)である。それに対し新しい人が着るべき衣服は「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」、そして「互いに忍び合い、赦し合う」ことである。

これらの徳目を古代ギリシア以来の西洋の徳目と比較すると興味深いことが見えてくる。紙面の制限上、詳しく述べることはできないが、古代ギリシアでは思慮、勇気、節制、正義が枢要徳と呼ばれた。またストア派ではあらゆる情動を超克した冷徹な無感動と不動心が最高の徳とされた。それらはすべて、能動的に自己を律し、強い意志によって鍛錬された個人の倫理的態度である。キリスト教道徳の要である共苦は悪徳のなかに入れられる。それに対して「コロサイ書」にあげられている徳目(霊の実)はすべて、人と人との間、あるいは社会において人格的関係を築いてゆくものである。

3章14節の後半は、新共同訳では、「愛はすべてを完成させるきずなです」と訳されている。「きずな」は、人と人を結びつける意味で用いられていると思われるが、ここは衣服の隠喩がまだ続いていると考えられるため、「帯」と訳すべきであろう。憐れみの心、慈愛、謙遜等、7つの衣服を身につけたあと、それらすべてを結びつけ完成へと導くものとして、重ね着をした衣服の上に帯を結ぶ。さらに、すべての徳目自体も、愛を欠けば不完全であり、愛に根ざし、愛に発したものであるかぎりにおいて初めて完成されたものとなる。

「コロサイ書」を基にし、それを敷衍する形で書かれたとされる「エフェソ書」では、二人の人がキリストにおいて一人の新しい人に造り上げられる(エフェ二15)というくだりがある。この文章は、私たちが一人では決して「新しい人」には成り得ないこと、私たちはキリストに出会い、そしてキリストの愛という帯によって他と結ばれて初めて新しい人となることを教えている。キリストの贖いは、キリストの愛の内にある新しい人の創造であると同時に、同じ愛の内にある真の共同体(エクレシア、教会、共助会)の創造でもある。その共同体の中に組み入れられて人は真に人となる。キリストを頭とする一つなる共同体が形成されてゆくなかで、私たちの個としての成長も可能となり、またキリストの姿に向かっての個の成長があって、キリストの体としての共同体の形成も可能となると言える。

4.神をますます深く知る

一般的には律法によって罪が明らかになると考えられているが、律法は日本人にはなじみが薄いため、むしろキリストに出会うことによって初めて罪が何であるかを知る場合が多い。イエス・キリストは律法の内容を完全な形で生きられた方であるゆえ、イエスの教えと人格とその生涯に触れることによって、真の意味で罪が明らかにされる。そして罪の自覚が深まると、キリストの愛の深さへの認識も深まる。両者は相互増幅的に深まり、キリストと私とを結ぶ愛と信頼の帯は強靭なものとなってゆく。「神は人の自覚の程度に応じて自らの姿を示し給ふ」(奥田成孝)という言葉の通りである。そのような形で私たちは神をますます深く知ってゆく。「コロサイ書」に戻れば、それはすなわち、「この御子によって、贖い、すなわち神の赦しを得ている」(一14)ことをますます深く知ることである。

以上、神を知ることについて罪というネガティヴな面から考えたが、霊の結ぶ実というポジティヴな面からも見ておきたい。

すでに述べたように、私たちはキリストの愛に捉えられると、あるいは、「キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラ二20)と、キリストが私を通して霊の業を行ってくださる。すると私たちにも隣人を愛する可能性が開かれる。そして、その可能性が増せば増すほど、「キリストがわたしの内に生きておられる」度合いが強まったことの表れ、わが内にキリストのリアリティーが増したことの表れ、神との結びつきが深まったことの表れ、すなわち神をますます深く知ったことの表れと考えることができる。「どうか、〝霊〟によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように」、および「あなたがたは古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、新しい人を身につけました。新しい人はその造り主にかたどって日々新たにされています。彼を知るようになるためです」の「神をますます深く知る」および「彼を知る」は、上述のような意味ではないかと思われる。私たちの人生の目的はキリストを知ることであり、それに尽きる。そのように「コロサイ書」から読み取れる。   

(日本基督教団 御所教会会員)