「井深梶之助日記」 の翻刻(ほんこく)から考えること 小暮 修也
1 井深梶之助とは
井深梶之助(1854 – 1940)は、明治学院創立者の一人で初代総理(現学院長)のJ・C・ヘボンより引き継ぎ、第2代総理として明治学院の礎を築いた人である。在任期間は30年に及んだ。井深は会津藩の出身で、戊辰戦争において、新政府軍から攻撃を受けた際には会津若松城に籠り、藩主松平容かたもり保の小姓として付き従った。籠城戦では、8歳年上の山本(後の新島)八重と共に戦った。当時、井深は15歳で、一つ年を重ねていれば、白虎隊の一員として自刃していたかもしれない。 洋学を志した井深は横浜においてS・R・ブラウン宣教師の指導で聖書を読み、キリスト教書『天てんどう道溯そ 原げん』・『真しん理り易い ち 知 』により啓発を受け、ブラウンに信仰告白をして洗礼を受けることを相談した。この時はまだ「切支丹禁制の高札」が掲げられ逮捕される危険もあったが、それを覚悟して1873(明治6)年1月、ブラウンより洗礼を授かった。同年2月にようやく「切支丹禁制の高札」が撤去された。1877(明治 10 )年に築地に東京一致神学校が開校されると一期生として入学し、卒業後、東京麹町教会牧師として赴任、その後、母校に招かれ東京一致神学校助教授、教授に就任した。
2 井深梶之助日記の発掘と翻刻
このような井深梶之助が1886(明治 19 )年から1938(昭和 13 )年までの 52 年間に、45 冊(明治期 20 冊、大正期 13 冊、昭和 期 12 冊)の日記を残していることはあまり知られていない。明治 学院大学の地下書庫に保管されていた井深梶之助日記(以下「井 深日記」と略す)には、当時のキリスト教界だけでなく、政治家 や実業・教育界等の著名人との交流も見られ、円満な人柄で学 生と接し、また堪能な英語力で国際会議でも活躍した様子がう かがえる。これらの日記を明治学院歴史資料館と明治学院大学 キリスト教研究所の研究者がチームを組んで翻刻作業(くずし字 を活字に直すこと)を行っている。これについては成果をまとめ、 今後公開する予定であるが、ここでは井深日記の中から今まで あまり知られていない内容を少し紹介したい。1896(明治 29 )年 12 月 21 日欄に「来会者植村、横田、松村、世良田、山崎、小方、綱嶋、髙田、平岩、留岡氏等十六人晩餐 饗応ノ後、感化学校設立ノ件ニ付相談アリ。三好氏及ビ留岡氏 ノ発起スル所種々ノ質問答弁アリテ、遂ニ一同賛成ヲ表シテ散 会ス」と記してある。これは、「少年更生の父」と言われた留岡 幸助が1899(明治 32 )年、巣鴨に「家庭学校」を設立するが、 その三年ほど前に話し合っているという貴重な資料である。そ の後、巣鴨が都会的になったので、1914(大正3)年、北海 道の遠えんがる軽から白滝の山林を開墾し、「北海道家庭学校」を開く。 この留岡幸助とも交流があったことを示している。 また、1911(明治 44 )年7月 13 日欄に「鵠くげぬま沼ニ於ケル基督 教女子青年会夏期修養会ニ赴ク。(中略)入浴後生徒一同ト共ニ 夕飯ヲ喫ス。食卓ニ広岡夫人ナル人アリ。中々女豪傑ナリ、洋 装の老夫人ナリ」と記されている。これは広岡浅子(NHK朝の 連続ドラマ「あさが来た」のヒロイン)のことに違いない。この時、 広岡浅子は 61 歳で、この冬のクリスマスに日本基督教団大阪教 会で洗礼を受けている。 さらに、1918(大正7)年 10 月 28 日欄には「授業如例。生 徒中ニ感冒ニカカルモノ多シ、其数百以上ナリ」、同年 10 月 30 日 欄には「授業如例。教員生徒中病人多シ、中学部ハ午前中ニテ 休業ス」とスペイン風邪と思われることも記されている。
3 文部省訓令第十二号の発令と抵抗
1873(明治6)年の「切支丹禁制高札」撤去以降、欧化主 義の中で、キリスト教会は発展し、キリスト教学校が各地に設 立された。しかし、1889(明治 22 )年、大日本帝国憲法が発 布され、翌年、教育勅語が発布されると国家主義が急速に台頭 した。1891(明治 24 )年に内村鑑三不敬事件が起こるとキリ スト教界に対する批判が激しくなり、自由な雰囲気とキリスト 教精神を基調とするキリスト教学校も学生数が減少した。 1899(明治 32 )年7月を期して改正条約が施行されること になり、この結果、外国人居留地は廃止され、外国人に居住・ 旅行の自由、営業の自由が認められることとなった。いわゆる 「内地雑居」により、政府指導者らは外国人宣教師の活動が活発 化し、日本が思想的に欧米に従属させられることを憂慮した。 そこで、政府・文部省の指導者はキリスト教学校に対して制 限を加えることを準備した。しかし、私立学校令として、学校 管理者からの外国人締め出し、宗教行事禁止の条項を条約改正 時に制定することは国際的に大きな問題となることが懸念され た。そのため、1899年8月3日、排他性を緩和した私立学 校令の公布と共に一段低い文部省訓令第十二号(以下「訓令十二 号」と略す)の発令により所期の目的を達成しようとした。その 内容は次の通りである。 「一般ノ教育ヲシテ宗教外ニ特立セシムルノ件 一般ノ教育ヲシテ宗教ノ外ニ特立セシムルハ学政上最モ 必要トス依テ官立公立学校及学科課程ニ関シ法令ノ規定ア ル学校ニ於テハ課程外タリトモ宗教上ノ教育ヲ施シ又ハ宗 教上ノ儀式ヲ行フコトヲ許ササルへシ 明治三十二年八月三日 文部大臣 樺山資紀」 この訓令十二号によって官公私立の別なく、全ての学校にお いて宗教教育や宗教行事が禁止され、実施した学校は上級学校 への進学資格及び徴兵猶予の特典の喪失を余儀なくされるもの であった。この訓令十二号によって全国のキリスト教学校はそ の存立の精神を危うくすることになった。
そこで1899年8月 16 日、青山学院、麻布英和学校(東洋英和学校)、同志社、名古屋英和学校、明治学院および立教中学 校から代表者が集まり、「六基督教学校内外代表者会議」が開か れた。ここでは訓令十二号の憲法違反を指摘し、キリスト教教 育の堅持を記した開書(共同声明)を作成して各キリスト教学校 代表者ならびに役員に送付した。 翌8月 17 日、夏期休暇中であったが、明治学院緊急理事会が 開かれた。そこでは、創立以来の原則に従い、聖書教授礼拝執 行を堅持するため、中学校の特権を放棄することも辞さない こと、尋常中学部を普通学部の名称に変更しても中学校と同等の 学課課程を実施すること等を決議した。井深は青山学 院長らキリスト教学校代表者と共に政府高官・文部省幹部と交 渉し、訓令の撤回や中学校と同等レベルの学校の特権確保を訴 えた。宣教師のW・インブリー(明治学院教授)やD・C・グリー ン(同志社教授)は大隈重信(前首相)、伊藤博文(元首相)、山県 有朋(現職首相)と面談し、外国人の立場から信教の自由問題が 外交上の国際問題になっていることを認識させた。 井深の1899年10月21日の日記には「午前十時、本多庸一 氏同道、総理大臣ニ面会シテ、訓令事件ニ付陳情ス。大臣ハ極 メテ丁寧ニ我等ノ陳情ヲ聴取リタレドモ、訓令ハ元来、文部ノ 責任ナルガ故ニ、宜シク当局者ニ謀ルベシトノ返答ニシテ要領 ヲ得ズ。」と山県首相へ陳情したことが記されている。 訓令十二号の撤回には至らなかったが、様々な働きかけに よって、1900(明治33 )年には同志社普通学校、明治学院普 通学部が徴兵猶予を獲得、その後、高等学校進学の権利を回復、 専門学校入学者無試験検定校に指定、高等学校無試験入学検定 校などを得て、中学校令による中学と同等の資格を得た。こう した措置は他のキリスト教学校にも適用され、訓令十二号は実 質的意義を失うこととなった。
4 キリスト教学校の結束と挫折
訓令十二号に対するキリスト教学校の抵抗運動は基督教々育 同盟会(現キリスト教学校教育同盟)として結実した。即ち、 1909(明治 42 )年の開教五十年記念会において基督教々育同 盟会規約草案が提示され、翌1910(明治 43 )年4月6日、基 り んおびていして きょうときょういくどうめい 同盟会総会が同志社神学館において開催された。創立 総会には 10 校の代表者が集まり、会長に井深梶之助、副会長に 原田助を選出した。同盟会規約第2条の目的に「其ノ進歩発達 ヲ計リ必要ナル場合ニハ共同ノ行動ヲ執ルニアリ」と定め、訓 令十二号に匹敵する問題への対処を決議した。 だが、こうして結束を示したキリスト教学校も、アジア太平 洋戦争前夜および戦時下において、御真しんえいほうたい影奉戴、皇居遥ようはい拝、日 の丸掲揚、神社集団参拝等、キリスト教信仰の根幹に触れる問題にも関わらず、結束して抵抗を示すことはできなかった。
5 「井深日記」の翻刻から気づいたこと
「井深日記」の翻刻から気づいたことを取り上げてみたい。
一つ目は、多彩な人物との交流がうかがえる。旧幕臣でキリスト者となった本多庸一(第2代青山学院長)、植村正久(神学者、 牧師)、江原素六(麻布中学校校長、衆議院議員)、押川方まさよし義(東北 学院・宮城学院創立者)等と親しく接した。キリスト教理解者で 実業家の渋沢栄一には、1920(大正9)年に日本で開かれた 日曜学校世界大会の講演と共に金銭的援助も依頼し、渋沢はこ れに応えている。また、新政府軍側で会津若松城攻防戦におい て井深と敵味方に分かれて戦った旧土佐藩出身の片岡健吉(衆 議院議長)、旧大村藩の熊野雄七(横浜共立学園初代幹事)とも恩 讐を超えて交流した。特に、熊野は横浜共立学園を離れた後、明 治学院幹事として井深を長年にわたり支え続けた。さらに、日 記には、著名な日本人キリスト者や宣教師についても記されて いるが、その言動について冷静に批評している。
二つ目に、全国各地に伝道旅行に赴いたことがわかる日記で ある。関東に留まらず、北海道、東北、北陸、関西、山陽、四 国、九州にまで足を延ばし、伝道会を開いた。井深個人ではな く複数の伝道者を組織し開催した。聴衆は数人から数十人、時 には200人、300人集まるなどキリスト教への関心がうか がえる。各地に赴く際に、品川からの汽車に乗り、乗り継ぎを 経て人力車で現地に向かう様子も記されていて興味深い。
三つ目に、学生を一人の人格者として接した。井深は男子学 生を呼ぶ場合にも、AとかA君と呼ばず、いつもAさんと呼ん でいた。「相手の青年を一人の人格と認め、どこまでもその人格 と個性を尊重するゆき方である」(桑田秀延「井深梶之助」『日本キ リスト教教育史 ─ 人物篇』所収、創文社)という。そして、時折、 学生たちを構内にあった井深邸に招き、寿司などを振舞った。こ の伝統は都留仙次第6代学院長にも受け継がれ、都留は中国、台 湾、朝鮮半島からの留学生を自宅に招いてご馳走した。
四つ目に、家族についても詳述されている。先妻・勢喜子の 病死への哀しみ、後妻・花の大病と治療、子どもたちの病気へ の心配も記され、家庭人井深の一面も垣間見える。
五つ目は、国際会議への出席である。1905(明治38)年、フランスのパリで開かれた万国基督教青年会同盟創立 50 年記念 大会で日本基督教青年会を代表して演説、1910(明治43)年、 イギリスのエディンバラで開かれた世界宣教会議の第3分科会 「国民生活のキリスト教化と関連する教育」では、日本における キリスト教大学の必要性を力説した。また、日本で開かれた各 種の大会では演説者の通訳としての務めを果たした。
最後に、明治学院大学地下書庫には、井深が各伝道会で話し た説教の原稿類が多数残されており、井深が人々に伝えたかっ たことが詳しく理解できると思われるので、この翻刻も待たれ るところである。
(明治学院歴史資料館協力研究員)