日々を生きる 吉田昌市

今年は内村鑑三の『続一日一生』をほぼ毎朝読んでいる。「続」ではない方を読む年もある。心惹かれた所には線を引く習慣なので、その時々でどんなことを考え、どんな気持ちで暮らしていたのかを、場合によっては思い出すこともできる。例えば次のような箇所、「キリスト教は情性を過敏ならしむるがゆえに、悲哀を感ぜしむる、また従って強し。されども真理は過敏の情性を練り、無限の苦痛の中より無限の勇気を生むものなり。」(『続一日一生』6月28日)

これに心を惹かれたのは、別の記録によると、2014年6月のこと。勤めの最後の時期にも、軽いうつのような状態になるなどしたが、この頃はそんな状態からは脱していたが、今から考えると、また別の困難が待ち受けているといった、そんな時のことである。

キリスト教の真理が悲哀を増大させる、これはよく分かる気がする。悲哀が増すことは苦しいことであるけれども、それを通して我々を練り、または浄め、悲哀に耐え、悲哀を超えて進む勇気を与えてくれる、というのである。

「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」(ヨハネ伝21・18)私は若いときから、この記事を含むヨハネ伝21章の雰囲気が好きである。イエスの死後、ペテロを含む弟子たちが、もう一度立ち上がって次に進んで行く、その少し前の、なにほどか空虚な心持ちが伝わってくるようである。ペテロは漁に行こうとする、イエスと出会う前の仕事に戻ろうとするのである。

私自身にも、自分の「行きたくないところへ連れて行かれる」という思いがなくはない。定年退職後、京都暮らしを始めた頃に読んだ詩の一節を引く。人を愛するなんてことも何時(いつ)のまにやら/覚えてしまって/臆病風はどうやら そのあたりからも/吹いてくるらしい/通らなければならないトンネルならば/さまざまな恐れを十分に味わいつくして行こうこれは、茨木のり子の「通らなければ」(1969年)という詩の一節(『茨木のり子詩集』岩波文庫 2014年3月、298―299頁)。人を愛するがゆえに、人はいろいろなことを恐れなければならなくなる、その恐れを「十分に味わいつくして行」ける勇気を、私も与えられたいと切に思う。

定年退職後の私は、世の中の動きにもとても敏感になった、あるいはそれがとても気になるようになった。先日の総選挙でも、コロナに対してあれだけ何もしなかった政党がなぜ信任されるのか、私には不思議でならず、この事実をどう理解すればよいのかと、いわば戸惑ったままである。もっとも、この国のこうした傾向は、今度の選挙に始まったことではない。先に引いた茨木のり子の詩には、次のようなのもあった。この国では つつましく せいいっぱいに/生きてる人々に 心のはずみを与えない/みずからに発破をかけ たまさかゆらぐそれすらも/自滅させ 他滅させ 脅迫するものが在る(「大国屋洋服店」より、同148頁)

ここに書き抜いたのは、1971年刊の『人名詩集』に収められた詩の一節だから、戦後もこんなに早くに、彼女にこうした感慨を抱かせるものがこの社会にあったことに、これを読んだ時はあらためて驚く思いであった。

そしてこれも、私を恐れさせるものの一つである。人を愛し、世のことを憂い、その中に残していかざるを得ない家族を案じ、こうして私は日々を生きている。自分の「行きたいところへ行っ」たはずが、「行きたくないところへ連れて行かれ」ていることは否定できない、そして私は、それはそれでよいと、仕方ないというよりは、むしろそれでよいと考えている。もう一度立ち上がって次に進むこと、先程の詩の言葉を借りると「さまざまな恐れを十分に味わいつくして」生きていくこと、私はそのようにしたいと思っている。

しかし、内村を読んで気づかされるのは、これに尽きない。「寂寥は、人を離れ独り神を求むることなり。……この時、われに国家あるなし。社会あるなし。友人あるなし。家族あるなし。……われと天然と神とあるのみ……。」(11月2日)独り神の前に立たされる、そのような場所を自分の心の中に持っていなければならないと思う。

また内村は言う、「平静数月にわたりて奇跡はやみ歌は絶ゆ。われは思う、われは神なくしてよく存在するを得るなりと。」(5月15日)これを読んだ時には、内村のような人にも、このようなことがあるのか、と思った。もちろん、これで終わらずに「しかるに……雷らいてい霆のわが心思を打つありて、わが眼は覚め……」と続くのだが、私などがこの繰り返しであることは言うまでもない。

最後に、内村は私たちの苦痛や悲哀、恐れなどについて、どう言っているだろうか。2月14日の項では、それは「実はどうでもよいことであります」と言い切っている、大切なのは、神の聖意がなることであると。いかにも内村らしいと思われるが、また別の所(2月18日)では「必ず神より解答を賜わる時あるべしと信じて、……静かに待望せよ」とも述べている。どちらも彼の本心なのであろう、神への信頼・信仰という点が一貫している。神を信じるとは「この世の中は……決して悪魔が支配する世の中にあらずして神が支配する世の中であるということを信ずること」であるとし、その考えを「生涯に実行」することを、内村は私たちに求めている(3月12日)。(2021年11月17日 記)

(前徳島大学教授)