寄稿

【シンガポール便り1】シンガポールの地の利と歴史 伊藤世里絵

はじめに

編集委員会からのご依頼で、今回から5回、「シンガポールだより」をお届けすることになりました。

シンガポール在住11 年ですが、まだまだ知らないことだらけです。普段は日本とあまり変わらない生活をしているのが実情ですが、この機会にシンガポールのことを少し紹介させていただければと思います。

シンガポールの地の利

シンガポールは北緯1度、ほぼ赤道直下に位置する島国です。マレー半島の先端とは1キロちょっとの橋でつながっています。四季はなく、年中、夏の気候です。30度~ 32 度。しかし、島ですから、適度な風が吹きますし、街路樹が多く日陰があるので、意外と過ごしやすいです。シンガポールの地の利が、シンガポールの発展を助けてきました。

大航海時代  

15世紀なかばから、17世紀なかばにかけて、ポルトガル、オランダなどが相次いでシンガポールにもやってきます。

帆船が中心の時代には、インド洋から太平洋に抜け、中国や日本、太平洋の各地に行くには、マラッカ海峡を通り、シンガポールで風向きが変わるのを待って、しばらく滞在し、太平洋側に抜けていく。反対に中国、日本や太平洋側の各地域からインド、ヨーロッパに抜けるにも、シンガポールを通らなければなりませんでした。船が大きくなるとシンガポールは給油の場所となりました。まさに交易の要所でした。

このシンガポールの地の利に着目し、発展させていったのが、イギリス人スタンフォード・ラッフルズです。

ラッフルズは、1819年にシンガポールに上陸し、シンガポールを自由交易の港としました。自由貿易の港としたことで、中国をはじめ近隣の国から多くの移民がシンガポールに移住し、シンガポールの人口も大いに増えました。ラッフルズは中華系、マレー系、インド系、ユーラシア系と増えた移民を民族別に居住地域を分けるタウンプランを実行していきました。そこに、第二次世界大戦が勃発し、英国領であったシンガポールに、日本軍が侵略してきます。

日本がパールハーバーを攻撃する1時間前に、日本軍はマレーシアとタイとの国境近く、マレーシアのコタバルからマレー半島に上陸します。

日本の統治と戦前からシンガポールに住んでいた日本人

日本軍がシンガポールを占領した1942年~45年までの虐殺や捕虜虐待については、『共助』2022年第5号に、「シンガポールへ、そしてシンガポールから」という証しの中で紹介させていただきました。

シンガポールの暗黒時代と呼ばれる3年半の日本占領時代は、それまで発展してきたシンガポールの時間を止めるような出来事でした。人々は飢え、日本軍の暴力におびえ、しかし、その中を、人々は耐え忍んで、生き延びました。

忘れられがちなのは、すでに戦前からシンガポールに移住し、商売などをしていた日本人一般市民の存在です。日本軍が進軍して来て間もなく、多くの民間人がインドの収容所に抑留されました。2~4年間、インドに抑留されていたと聞きます。中には、日本軍の通訳などとしてシンガポールに残り、日本軍に徴用された人もいます。商売をやるなど、庶民層の日系人の中には、戦後、シンガポールに残り、シンガポール国籍を取得していった人たちもいます。

戦前の日本人の中には、牧師とその家族もいました。1917年(大正6)年に、梅森豪男牧師が家族と共にシンガポールに渡り、船中でからゆきさんとして売られる女性たちと出会い、シンガポールで廃娼運動に努めたこともシンガポール日本人会の記録に残されています。

シンガポールの独立と建国の父 リー・クアンユー

戦後のシンガポールはイギリスから独立し、マレーシアの一つの州として、戦後の混乱期を迎えます。すでに、シンガポールは、中華系、マレー系、インド系、ユーラシア系と多民族が住む島となっていました。リー・クアンユーは、戦後、ケンブリッジ大学を首席で卒業し、シンガポールに戻り、弁護士出身で政治家になりました。

31歳で、シンガポール自治州の知事に当選しました。1965年、シンガポールは他のマレーシアの諸州と共に、一つの州としてマレーシア連邦に加盟していました。しかし、マレー人優遇政策に反対の立場をとっていたリー・クアンユーが率いるシンガポールは、マレーシア連邦から追い出されるかたちで、1965年8月9日に急遽独立することになりました。シンガポールの独立は、不本意な涙の会見から始まりました。

多民族共生社会と現在の繁栄

シンガポールは建国のときから、一つの民族を優遇するのではなく、多民族共生社会を強く意識して、スタートしました。

多民族共生社会については、別の号で紹介したいと思います。

シンガポールはリー・クアンユーの強いリーダーシップのもと、短期間で国の広さは東京23区とほぼ同じという小国であるにもかかわらず、存在感、経済力のある国として発展してきました。

多民族共生と国の発展は、シンガポールにとって欠かせないものとなっています。

シンガポールの人たちに、多大な苦痛を与え、家族を奪う側にあった日本人の私たちですが、そのような過去の歴史をきちんと知ったうえで、シンガポールの人たちの多くは大の日本好きです。それに一番貢献しているのは、アニメなどの文化です。若い人たちはアニメを通して日本語を学び、日本を好きになった人が多いです。

次回はシンガポール最初の日本人であり、ギュッツラフを助け、聖書翻訳に深くかかわった「音吉」を紹介したいと思います。

(シンガポール国際日本語教会牧師)