寄稿

戦後80年 笑みなき赤子   安積 力也

「私たちの存在の一部は、ごく幼いころに棄てられた。完全にみとめられたという気持ちを一度も味わっていない部分である。そこには不安がぎっしりつまっている。」〔ヘンリ・ナウエン『心の奥の愛の声』〕

私は一九四四年(昭和一九年)の四月生まれ。ぎりぎりの戦中派だが、戦争の記憶はない。でも私は知っている。赤ん坊であった私の心底には、おぞましい「戦争の音」が消えがたく刻印されていることを。B29の轟音んとシュルシュルと鳴る焼夷弾(しょういだん)の不気味な落下音。「防空壕の中では、あなたは決して泣かない良い子だった」と母は言う。無力無防備な存在を母の胸の平安に委ねながら、全身を固くして聞いたであろう「異様な戦争の響き」。実際一枚だけ残っている私の生後百日目の写真 ― 米軍による無差別本土空襲が差し迫っていた ― には、眼前に迫る「何か」を、およそ赤子らしからぬ暗いまなざしでじっと見つめる「笑み一つない」赤子が写っている。

父は、戦前の絶対天皇制下の内務官僚だった。戦時中は栃木県知事の要職にあった。私は、「軍都」宇都宮にあったその知事官舎で生まれた。

この出自は、えたいのしれない「負い目」となって青年期の私を苦しめた。大学時代に改めて学んだ日本の近現代史は、他人事ではなかった。特に家永三郎の論考にひかれ、『太平洋戦争』岩波書店刊を精読した。そして密かに自覚した。私は「戦争責任」を帯びた特権階級の家庭に生まれ、守られて、戦後に生をつないだのだ。しかも私は、戦争さなかの「産めよ殖やせよ」の国策によって、敢えてこの世に生を受けた者なのだ。あの戦争が無ければ、生まれてはこなかった存在。言わばあの戦争の「落とし子」なのだ。この自覚は重い「うしろめたさ」を伴って青年期の私の自己否定感覚を先鋭化させ、虚無と絶望の闇に呪縛(じゅばく)させる動因ともなったが、幸いなことに、信仰をもった学問的人格に立ちはだかれるようにして出会い、時代と自分に絶望しても「神には絶望しなくてよい世界」を知る不可避の動因ともなった。「私には〝生涯を捧げて〟果たさなければならないことがあるのではないか……」。出自への「負い目」は、生涯を賭けるに足る使命探求への、抗いがたい「内的促し」へと変貌した。「守る」人生から「捧げる」人生への転換。こうして私は、非戦平和を本気で希求するキリスト教学校で、高校生に歴史を教える教師になっていった。

父は、敗戦後「公職追放」を受け早期に特免されたが、二度と官には戻らなかった。残りの生涯を社会評論と、特に「世界連邦」建設運動に尽力し、最後まで「戦争のない世界」を夢見て死んだ。家庭での父は明るい太陽のようで、幸いなことに私は、両親の愛を一度たりとも疑ったことはない。だが父は私に、あの戦争への苦悩と懺悔を一度も語ってはくれなかった。新潟のさびしい海辺にできた小さなキリスト教高校の教師になることを父に報告したとき、父から返ってきた言葉はこうだった。「田舎侍(いなかざむらい)にはなるな」。無防備だった私は不意打ちを食らったような衝撃を受けたが、静かな決意を込めて、かろうじてこう返した。「田舎侍のどこがわるいのですか。私は、田舎侍に徹して、生きていきます。」

主なる神は、卑小な私の、未熟な、だが純なる覚悟と祈りを憐れんでくださったのだろう。その後、思いがけずに与えられる「召(コーリング」し」は、すべて、この世の権力からは、はるか遠くに腰を据えた、辺境性の高い小さなキリスト教学校からの招きばかりだった。父の死後、書斎を整理していた時、一枚の走り書きメモを見つけた。新潟の学校で血みどろの苦闘を強いられていた私を訪ねてきた晩年の父が、帰る日の早朝、みずからへの覚え書きのように記した短歌数篇。その最後の句に父はこう記していた。「知らざりき われ知らざりき 大いなるミッション担いて わが子 生まれぬ」

今、ずっと心の奥にしまってきた思いをここまで言葉にしてみて、心の内奥(ないおう)で凍りついていた何かが氷解していくのを覚える。不肖の息子も、死ぬ前にやっと、この世の肉の父と「和解」できそう……。心底の暗闇で身を固くしている「笑みなき赤ん坊」にも、笑顔が戻ってきそう……。(2025年11月2日記)

(基督教独立学園高校 元校長)