寄稿

戦後80年 私と『あの日』 内田 文二

私は1929年4月生れですので、1945年8月15日は16歳、旧制中学の4年生でした。

ところで、1941年12月8日、日本軍の米ハワイ真珠湾攻撃によって、大平洋戦争が始まり、私は小学校の6年生でした。

翌年1942年4月に東京の芝中学に入学。1年生、2年生までは通常の授業を受けておりました。ただ、学生服は国防色で、足には陸軍軍人と同じゲートルを巻いての通学で、時間割には「教練」の時間があって、行軍で歩き続けたり、特別の時間には、訓練場となっていた富士の裾野まで行って、夜間の匍匐(ほふく)前進の訓練までやりました。

戦況は、1942年6月のミッドウェー海戦、8月のガダルカナルの戦い、1943年5月のアッツ島での玉砕と、日本軍の敗戦が続いていきました。

中学3年生になった時には、学徒動員ということで、私たち3年生は京浜工業地帯の軍需工場へ派遣されるようになり、授業は全く受けられませんでした。

1945年2月、硫黄島が占拠されてからは重爆撃機B―29による空爆が始まり、3月10日には東京大空襲がありました。最近の戦争では民間人が巻きこまれて犠牲になると国際法違反などと言われますが、この日は一夜に10万人の民間人が犠牲となり命を落としました。私の級友でいつも成績トップだった丸山君もその一人となって、3月11日にはいつもの工場へ顔を見せることはありませんでした。

京浜工業地帯の軍需工場となると、日中に戦闘機による急降下、機銃掃射(きじゅうそうしゃ)もあり、防空壕に避難しておりましたが、ごく近くに掃射されたこともありました。

食糧事情も最悪で、おかずは梅干しだけの「日の丸弁当」だったり、夕食に食べられるものはさつま芋のつるのみ、というような時期もありました。

8月6日、9日には広島と長崎に原爆投下。続いて8月15日、見渡す限り焼け野原となった京浜工業地帯の工場の焼け跡地に集められ、1台のラジオを囲んで「玉音放送」を聞き、日本が負けて戦争が終わったことを知らされました。

まもなくこの日を最後に解散となり、帰途につきましたが、帰って行く中学生を、涙ながらに立ち続け、最後まで見送っておられた工作課長の姿が忘れられません。

家に帰って落ち着き、改めて戦争が終わったことを実感しました。一方では大変前向きな気持ちになり、当面は高校受験に向かって集中するようになりました。(旧制中学は5年で卒業ですが、高校受験は4年でも可能でした)10月には全焼した芝中学の焼け跡整理のため学生が集められましたが、作業中にもあちこちで高校受験の話題が絶えなかったようです。芝中は全焼でしたが、麻布中学から教室の借用が可能となり、授業が再開されるようになりました。

私と同じ自由が丘から通学の同級生を訪ねた時、帰りがけに彼のお姉さんに呼び止められ部屋へ戻ると、一時間程、聖書について一所懸命に話してくれました。私はキリスト教に強い関心を持ち、受験勉強で忙しい中を何度も話を聞きに行きました。

早稲田大学高等學院に入学が決まってからは、近くの自由が丘教会に毎週通う様になり、その年のクリスマスには受洗へと進みました。牧師は共助会の秋元徹先生でした。早稲田大学では共助会の本間誠先生が教鞭を執っておられたこともあって、早大學生基督教共助会の集会があって、参加しているうちに全体集会にも参加するようになり、大學三年生の時には夏期信仰修養会の場で共助会入会へと進みました。

あれから70年。本年は96歳となりましたが、生涯会員と云える程に励ましを受けながらの今日この頃です。(日本基督教団 自由が丘教会員)