寄稿

私の歩んできた道 ― 神様がくださった出会いの恵み 中滝 志保子

高校2年生で主イエス様に出会い、大学1年生の夏に洗礼を受けました。たくさんの方々と出会わせていただき、神様の恵みをいただいてきました。その歩みの一部をお話しさせていただきます。

1 大学生時代

⑴ 「埼玉大学聖書研究会」と「武蔵野聖書学舎」

私は18 歳で、埼玉大学教育学部に入学しました。すぐ「聖書研究会」に所属しました。学生だけで毎日集い、毎週「聖書研究の会」を行ない、伝道集会も行なっていました。メンバーどうしで、年齢がちがっても学部が違っても、みんな平等で互いに祈り合う愛に溢れた場所でした。私が体調を崩した時は、免許取り立ての先輩が運転して病院へ連れていってくれました。下宿を引っ越さなければいけない時には、別の先輩がアパート探しまでしてくれました。淡々と、必要な手助けをしてくれた聖書研究会の先輩の姿は、私の生き方の大きな道標になりました。

聖書研究会の先輩、桑原清四郎さんが始めた「武蔵野聖書学舎」は、新採用で赴任した小学校のクラスの子どもたちに、放課後学校外で勉強を教える私塾から始まったものです。聖書研究会でも何人かがお手伝いに行きました。ある日、桑原さんは、担任する高学年の子どもたちが書いた、原稿用紙の束を風呂敷に抱えて聖書研究会に顔を出してくれました。子どもたちは、それぞれ一人400字詰め原稿用紙100枚もの作文を書くのだと、子どもの可能性を熱く語る姿に圧倒されました。

⑵ 子どもたちと学んだ日々~学習支援有償ボランティア

ところで、私は「武蔵野聖書学舎」のお手伝いはせず、先輩から紹介された有償ボランテイアをしていました。廊下が傾いている古びたアパートの一室で、10人ほどの小学生を友達と2人で教えました。勉強がかなり苦手な子もいて毎回が苦戦でしたが、笑顔で迎えてくれる子どもたちのおかげで、楽しい時間を過ごしました。子どもたちから喜びをたくさんもらいました。子どもたちから、共に学ぶ喜びをもらいました。大学4年生になる頃、学年が一番上のA子さんは、高校受験を迎えました。毎日、私の住むアパートに来て勉強に励み、無事に志望校に合格しました。ある日A子さんの家へ伺いました。明るい光が溢れる小さな部屋でお母さんが待っていてくれました。お母さんはいつも使っている自分の湯飲みにお茶を入れ、「私は土の器です。神様がこの器の中に入っていてくださる……。」とゆっくりと話してくれました。私はしばらく言葉が出ませんでした。何回も聞いた第2コリントの「わたしたちは、この宝を土の器の中に入れています。」という聖書の言葉が、静かに肉体をまとって迫ってくるようでした。私は、今までに何度もこのお母さんとの出会いを思い出し、支えられてきました。

2 「教育を考える会」での出会いに支えられて

⑴ 清水二郎先生(1902年~1995年 享年92歳)

大学を卒業して、新潟県の小学校の教員になりました。しばらくは順調に見えましたが、30代が近づき、私は仕事の壁にぶつかっていました。担任したB君は、授業に集中できずに、すぐにかっとなり、物を投げてしまうこともありました。私は、どうしたら良いのかと悩み続け教員を辞めようかとさえ思っていました。悩む私のたった一つの支えは、「もし主イエス様がこの教室に来られたら、間違いなくこの子の所へ行かれるだろう」ということだけでした。

その頃、「聖書研究会」の先輩、桑原さんや角田さんから「教育を考える会」への参加のお誘いをいただき、参加するようになりました。私は、講師の清水二郎先生のお話を聞くのが大好きになりました。先生の驚くような経歴などもうかがっていましたが、私にとっては、「キリストの薫り」とは、このようなものかと感じさせてくださる方でした。お話はけっして簡単なものではありませんでしたが、情熱と暖かさ溢れる先生のお話を聞いていると、心の緊張が解けて行くような気がしました。

あるとき、私は、先生と食事の席が正面になりB君についての悩みを聞いていただきました。先生はメモをとりながら真剣に聞いてくださり、そして、たった一言「尊いおつとめ、ありがとうございます」と頭を下げられました。私は、驚きました。神様が「あなたは、そのままでいいのだよ。」と語ってくださったような気がしました。

1995年1月、清水先生は92歳で天に召されました。どうしても清水先生に最後のお別れをしたくて、めったに休まない学校を休み、東京の中渋谷教会と共助会との共催で行なわれた「記念祈祷会」へ参加しました。会堂には人が溢れていました。別室のスピーカーから評論家で牧師の佐古純一郎先生が「清水先生と関わったことのある人はみんな【私を一番愛してくれた人は清水二郎先生です】と言われます。」と、語られるのを聞きました。愛の人、清水二郎先生にお会いできたことは私の宝物です。

⑵ 「教育を考える会」での出会いから

「教育を考える会」では、講師の先生方や参加者の皆さんから沢山のことを学びました。教育関係だけではなく、それぞれの置かれた場所での実践を持ち寄り学び会う場でした。真剣な話が続きましたが、発言に対する批判を聞くことはありませんでした。誰でも分かるようにきちんと説明することを心がける、参加者が安心して話せる場所でした。実践発表者や参加者は心を開き、なかなか聞けないことも話してくださいました。年に一回の参加でしたが、私にとっては、命の糧をいただくような心あたたまる会でした。

・金子健二先生(1948年~2007年 享年58歳)

彫刻家で浦和造形研究所の所長の金子健二先生は、1993年1月号から7年間、共助誌の表紙を飾る4つの作品を制作された方です。その中の一つは、桑原清四郎さんが勤務した学校の校長の殉職を機に造られたものです。

認知症の高齢者のための「アートセラピー(臨床美術)」をはじめられた方でもあります。金子さんは、認知症になっても、お一人一人素晴らしい力をもち「アートセラピー」の中で、エネルギーに溢れる作品を描かれることを生き生きと語ってくださいました。お一人一人の中にある可能性を信じ、全力を尽くす姿に私は感動し、力をいただきました。カウンセラーとして一緒に活動を始めた関根一夫牧師も参加しておられ、お二人から活動開始当時の熱い思いをお聞きすることができました。金子先生は、58歳という若さで天に帰られました。

・有馬式夫牧師(1941年~2016年 享年74歳)

芯の通ったお話をされる情熱の塊のような方でした。

有馬先生が新聖歌の編集作業に当たっておられた頃、「教育を考える会」で、「差別用語をなくすというだけの言葉刈りをしても、差別そのものがなくならなければまた新たな差別用語が生まれる」というようなことを話しておられたことが心に強く残っています。有馬先生は牧会カウンセリングの実践者で、著書のなかで先生が語られる「健康で正しい人ばかりだったら、私なんかとても教会に足を踏み入れられないし、牧師をしてはいられないでしょうね」と言う言葉に、私は深くうなずきました。

さて、私は、「教育を考える会」でお世話になった永瀬正臣先生から、「キリスト者で、管理職になろうとする人は少ない。しかし、管理職になると物の見方が変わる」というアドバイスに背中を押されて、小学校の管理職になりました。女性の管理職は少ない時代でした。苦労もありましたが、たくさんのことを教えていただきました。

管理職時代の思い出の中から、一つお伝えします。

教頭として、2004年10月23日土曜日、夕方5時56分に起きた中越地震を経験しました。震度6強だった山間部の僻地校勤務。崩れた峠の道を車でようやく乗り越え学校へ着くと、既に地域の方が待っていました。真っ暗な学校の体育館に250人ほどを受け入れました。全ての人工の光が消えた真っ暗な夜、宝石をちりばめたように星が輝いていました。毛布が足りずに銀色のシートにくるまって体育館の床で寒い一夜を過ごした次の日の朝、遠くの山に初雪が降っていました。神様の御力の偉大さを感じました。学校のグラウンドには地割れができ、学校の電話も通じない中、たくさんの地域・保護者の皆さん、子どもたちに助けられました。水が出ない学校のトイレを使えるようにと、地域の方や中学生といっしょに小川から水を運んだこともありました。子どもたちの笑顔は避難所の力でした。自分の通う学校以外に避難した子どもたちもおり、在校生の安否を確認するのは大変でした。たくさんの方が情報を寄せてくださり、すべての子どもたちの無事を確認できたときは、心の底から感謝が溢れました。

学校が再開して子どもたちに落ち着きが見えた頃、共助会の角田芳子さんが勤務しておられた聖学院小学校の子どもたちから慰問の手紙が届きました。どの手紙にも、被災した子どもたちを思うあたたかな心が溢れていました。

(日本伝道福音教団 加茂福音キリスト教会会員)