共助会の使命とその射程(注一)田中 邦夫

1 キリスト教と人間文化

共助会というと、決まって「主にある友情」「キリストのほか自由独立」の2つが取り上げられる。しかし、これらはこの会のモットーであって決して使命ではない。共助会の使命は、山本茂男や清水2郎が言及している「キリスト教の文化に対する使命」(山本:6頁)であり、「文化対キリスト教の問題」(清水:501頁)である。「涛声に和して」における森明自身の表現では「文化意識対キリスト教意識の関係交渉の問題」(27頁)である。私は、このことの理解が共助会の中で10分徹底していなかったのではないかと思っている。たとえば清水は、この問題を「森先生の畢生の課題」と評しているけれども、この捉え方はややミスリーディングである。なぜなら、それはただ単に森明の畢生の課題であっただけでなく、この世におけるキリスト教信仰の全歴史は、その成立以来「キリスト教と文化の問題」だったからである。まさにそれゆえに、森明はそれを畢生の課題としたのである。この点を後戻りできない形で徹底的に理解し自覚することが、今後の共助会の死命を決すると私は思っている。

この点を深く自覚し、生涯一貫してこの問題を追求したのが原田季夫であり、著書『文化と福音』(1960)である。そこでは「福音と文化」の問題は「人生の最も重要な基本的課題」であり、また「福音と文化の関係論こそは人類歴史に残された最大の課題であると言っても決して過言ではない」とさえ述べられている。また自著に関して「神の賜う福音と人間の価値追求の業たる文化とがどの点で接触し、いかように背反するかという『福音と文化』の中心問題を解く鍵だけは手に収め得たと思われる」と述べ、さらに「爾後20数年の私の信仰生活は……『理性と信仰』の分野に新しき開拓をなさんとして……この意味において『創造と堕落』の叙述を受けて『福音と文化』の問題に進み『共同体の倫理と終末の神の国』の論述をもって結ばれる本稿は、貧しきものながら私のライフワークである」と評している。最後の引用は、それを言い換えると、「福音と文化」の問題はキリスト者にとって神の国の到来まで続く巨大な射程をもつ課題なのだ、という意味になるのである。

このような高い視点から見るならば、『森明著作集』冒頭「森明先生小伝」で山本茂男が述べている以下の驚くべき言葉も、納得できるようになる。「神が先生をとらえて祖国日本の救いのために創め給いし聖業の1つは共助会の運動である」「共助会創立の動機はたしかに、先生においては神の命じ給える聖なる使命の確信となった」「キリスト教の文化に対する使命もやがて負うべき大いなる任務であると覚悟せねばならぬ」(6―7頁)などである。

上記「信仰と理性」「信と知」などと「キリスト教と文化」「福音と文化」という捉え方の違いについて1言触れておきたい。キリスト教思想史や西洋哲学史などにおいては、たとえば教父たちやアンセルムス、トマス、カントなどは「信仰と理性」「恩寵と自然」「信と知」といった形でこの問題を取り上げたが、19世紀のいつ頃からか「キリスト教と文化」という形で論じられることが多くなる。これは、植民地についての知見の増大とともに西欧の視野が拡大し、世界像の違いを西欧的〈理性〉のレベルだけではもはや捉えることができず、もっと広い〈文化〉のレベルにまで降りたって考察せざるをえなくなったためと思われる。たとえば、過去・現在・未来の時間の区別を知らず、ただ〈ある〉と〈ない〉の区別しか持たない(つまり〈もはやない〉と〈いまだない〉との区別を持たない)種族が発見されて、宣教師を疲労困憊させるといった事態などが起こったのである(カッシーラーによる)。この、理性概念から文化概念へ、という基礎概念の移行を最も深く自覚的哲学的に掘り下げたのがカッシーラーの主著『シンボル形式の哲学』(1923)である。「現代の日本の思想界の傾向であるとともに、じつは世界の傾向である文化意識対キリスト教意識の関係交渉の問題」という森明の定式も、この事態を反映するものと思われる。

ところが、このような根源的重要性を持つにもかかわらず、この問題はなぜかきわめて忘れられやすい、という基本的性格を持っている。たとえば隅谷三喜男は「日本の教会においては、信仰と理性とは必ずしも統一せられていない。今日、信仰の生活と、学問゠理性の世界とは、全然別個の2つの世界を構成していると言えないであろうか。しかし、現実の信仰と理性とは、その内奥において相互に規定し合っていると、筆者は考える」と述べている(『近代日本の形成とキリスト教』1950)。またブルンナーは「私はもう長年の間、キリスト教的な文明基礎論を企てることなどは、とくにプロテスタント教会の状況と責任とを考慮に入れる場合、もう手遅れだと確信していました。本当に、そのようなことは、もうとっくになされていなくてはならなかったのです。実際には逃げてしまっていたとしても、それは回避さるべき事柄ではなかったのです。私は、もう遅すぎるとさえ感じたことがありました」とギフォード講演『キリスト教と文明』(1948)で述懐している。

しかしながら、これらのことはすべて森明が生前すでに予想し警告していたことだったのである。「涛声に和して」には、先の引用に続けて「これらの問題〔文化意識対キリスト教意識との関係交渉の問題〕が実は非常に重要であるにもかかわらず、両者がともにきわめて無関心に過ぐるか、キリスト教の真理性は1種の独創的立場を有するがために人間的努力をもってよくこれと交渉しうるものではないというがごとき、1種の超然主義から来る楽観的態度などから生ずる両者の懸隔が、両者の本有する真理性の光輝を減退もしくは滅却せしめるであろうということ、ことに実際問題としては、私たちの伝道方面においてこの態度あるがための損失について」(28頁)触れたいと述べられている。さらに「真理認識の理論的自覚は、ひとりそれが伝道の上に要求せらるるのみならず、実にまた私たちみずからの確信を基礎づける、正当なる信仰の重要な要素となるであろう。しかるに私たちの先輩は、あまねくキリスト教意識をもって、これと交渉すべからざるものと断言するか、少なくとも、無用の労作視しつつあるかのごとき感を私には与えつつある。これ、私にとって首肯し難き点である」と厳しく警告し、伝道のためのみならず「みずからの確信を基礎づける重要な要素」としても、またキリスト者自身の「全的生命活動」のためにも、信仰の真理の理論的自覚、学問的理解の必要性を力説していたのである。

「キリスト教と文化の関係交渉の問題」のこのいわば〈根本問題の忘却〉というべき事態は、『90年史』にもその跡を止めている。たとえば戦後試みられた「キリスト教共助会パンフレット」の発刊の辞に、「大切な時に際会している我々は……福音と文化との接触によって提起された諸問題に対して、深い理解をもちたいと思う」(109頁)と述べられ、また創立30周年(1949年)に際会して、森有正が「近代文化とキリスト教との根本的な関係を明らかに知らなくてはならない」というブルンナーの言葉に言及したり、松村克己が「キリスト教対文化の責任」を訴えたりしているが、やがてその問題意識は不明確になり、不明確になったというそのこと自体が「ロゴス化」の必要性という問題として浮上することになるのである。この問題は、私がはじめて参加した箱根強羅の修養会で、とくに分科会で、石居英一郎先生とかなり長く議論したので記憶によく残っている。先生の主張は、要するに共助会の〈使命〉のロゴス化ということであった。このロゴス化ないし対自化の要請は『90年史』(120、155頁)その他でもあちこちに噴出している。その後私は、この問題が共助会にとって死活的に重要であるとますます認めるようになった。なぜならそれは、この問題とつねに同時に取り上げられる〈教会と共助会との関係〉という問題と深く連動するからである(120頁)。つまり、共助会の存在理由は、教会と共助会の区別とその相互関係という問題、その理論的明確化という問題と深く連動しているのである。この問題こそ、現在共助会が抱える根本問題であると、私は思っている。森明はこの点をどのように考えていたであろうか。

森明自身の共助会への唯一の言及が見える「涛声に和して」には、共助会の開始時期について「あたかも中渋谷に伝道を開始した頃から、2人3人集まって持ち」(22頁)とある。これはかなり重要な発言である。そこには2つのことが含まれている。第1に、かれの意識の中では、教会と共助会の開始はほぼ同時であり、共助会以前の「夏期講話会」「教友会」も共助会と本質的に同じものと考えられていた、ということ。第2に、ひとは同じ主旨の会を同じ場所で2つ同時に立ち上げることはないから、彼においては教会と共助会は最初から明確に区別されていた、ということである。教友会その他では1体何がなされていたのであろうか。著作集の解説によれば、著書『宗教に関する科学および哲学』について「この述作の最初の原稿は、1916年秋、中渋谷教会の教友会で、病苦と戦いつつ連続講演された『宗教哲学』である。失意病臥の垂死の青年馬場久四郎氏を中心に病中の石田・久松両氏と坂庭少年、時に片岡老人を交えた全くこの世的には、はえない小グループのため刻苦勉励した生命論・哲学思想史の刷見であった」(503頁)とある(私はときどきこの初代の共助会員たちと同席している情景を夢想することがある)。また「教友会は特殊事情の友に捧げられたが、教会全体がまた同じ研究前進の交わりへ押し進められており、そこに教友会が自然に拡大充実して伝道講習会(大正8年)となった」、さらに「この会でも同じ論述が続けられ」「元来は、伝道方法の講習会ではなかった」「大正8年に発会し同10年に規約を定めて実際活動にはいったキリスト教学生共助会も、主旨は同一精神によるもので」「初期の大学・旧制高校の伝道講演にも、同じ勉学研究の結果が語られ、『学問と宗教』『神の認識』『神の本質』などの形をとった」とあり、それらの結実が、あの高度な内容をもつ『宗教に関する科学および哲学』なのである(504頁)。

以上から明らかなことは、夏期講話会、教友会、伝道講習会、共助会と名称は変化しながらも、それらに一貫しているのは、キリスト教信仰に関わる一切についての学問的理性的自覚の必要性という意識である。この世で戦うキリスト者にとってそれらは絶対に不可欠だ、という意識であったと私は思う。そのことが最も明瞭に表れているのは、伝道講習会の主旨においてである。「従来キリスト者の生活は、洗礼を1期として停滞しがちである。その知識的方面の教養きわめて不備であり、礼拝・祈祷会のみにては到底これを補い組織的知識を与えることは不可能である。この困難を幾分にても解決し、かつ信仰者は専門たると否とを問わず、皆、伝道者たるべき献身的精神の領域に達すべきものであることを慮り、ここに本会を組織する」とある。つまり、キリスト者として練達の域に達するためには、教養と組織的知識が必要であり、それは礼拝と祈祷会だけでは足りない、それゆえその他に、相互に学び合う場と組織が必要だ、ということである。言い換えれば、共助会は、教会を支えるために教会の傍らにありつつ、信仰的自覚をさらに深め、信仰的洞察力を一層強化し、「教会が常に時代の現象を察知し、これに対する方針を建て、よくこれを指導し得んために」(472頁)、普遍的教養と組織的知識を互いに学び合い教え合う場また組織として意図された、と思うのである。そしてその場合、その会の中心主題は「キリスト教と文化との関係交渉の問題」となるだろう、ということである。この驚くべき使命の重さこそ、山本茂男の「キリスト教の文化に対する使命もやがて負うべき大いなる任務であると覚悟せねばならぬ」という発言の「やがて負うべき大いなる任務」の意味であり、「覚悟せねばならぬ」の意味であり、また「やがて」とは、教会形成が先行しなければならないからなのである。

ここでわれわれは、森明の共助会構想の全体的意味を理解するために、視野を拡大して、以下のような世界的・世界史的情況の中にそれを位置づける必要がある。じつは、自発的に集まって学び合う精神と組織の必要性という意識は、日本をふくめ当時の世界全体に一般的な現象だったからである。

まず西欧では、この時期の政治社会思想として今日まで何らかの形で残っているのは、有名な「国家多元論」ないし「多元的国家論」である。森明もこれについて何度か言及している(例:276頁)。藤原保信の名著『20世紀の政治理論』では、20世紀最初の政治理論としてバーカー、ラスキ、コールの3つの

国家多元論が紹介されている。この理論の背景は、産業革命以降、農村から都市の工場地帯へ巨大な人口移動がおこり、そこに「巨大社会」(ウォーレス)が出現したことにある。この事態に対する社会的政治的対抗運動として、市民の主体性を守るために構想されたのがこの政治理論なのである。代表的な団体としては、教会、教会内外にまたがる組織、労働組合などが考えられていた。またこの理論には、以上の実践的理由とは別に、もう1つ歴史的根拠があって、それは西洋中・近世の政治史研究にもとづくものである(実際はこちらが先行)。中世社会は、社会自体が多元的に構成されていて、近代国家のように唯一の絶対的な国家権力によって集権化されていなかったのである。

国家多元論者によって強調されたのは次の2つの契機である。自発的団体であることと教養と学習との重視、つまり、社会における自発性とそれを担保する知識教養の決定的重要性という論点である。ラスキは市民の自主的な自己教育を重視し、読書クラブ運動を展開した。またラスキが深い影響を受けた前世紀フランスの社会学者トクヴィルは、「民主主義が有効に機能するかどうかは市民の教養の程度に依存する」と将来の民主主義の根本問題を指摘した(『アメリカの民主主義』)。マルクスも「アソシエイトされた知性」ということを言っている(近年注目されている語句:『資本論』第3巻)。また自発的団体の結成に対して神学者としていわば〈社会神学的〉関心を寄せていたトレルチは、近代の社会情勢の底流に「より深い根源性とより緊密な共同性とを求める」感情が働いており、「人格的連携」によって「(各人の)個性的綜合に含まれている普遍妥当性が共通精神に高められていく」「人格的協同と人格的愛」の「連帯組織」の形成(教会の外に、教会と並んで)への趨勢を見ている(『歴史主義とその克服』)。またトレルチの講義に接し深い感銘を受けた社会学者K・マンハイムは、この関連で有名な「浮遊する〔存在被拘束的でない〕知識人」論を展開した。また第2次大戦後、のちのバチカン公会議に絶大な影響を与えたテイヤール・ド・シャルダンは「平信徒の研究集団」の必要性を訴えた。これは従来のカトリックの発想からは考えられないことである。また現代では、フランスの社会学者ブルデューが「集合的知識人」という形で民主主義を守るしか方法はない、と強調している。このように、これらさまざまな潮流の底流にあるのは、人々が社会の巨大化・複雑化と国家権力の強大化に対抗して、人間の主体性を守るために自発的団体を結成し、各人の多様な経験と洞察を結集して社会の根本問題を洞察し、「より深い根源性とより緊密な共同性と」(トレルチ)を求めて、真の生き方を確立しようとする動きなのである(とくに森明とトレルチとの信仰の視点からする洞察の一致は顕著である)。

また日本でも、第1次世界大戦後、雨後の竹の子のように自発的団体の結成が相次いだ。しかし日本の場合、その動きはかなり激烈で混乱を極めた。それは、あの「未知の世界」として森明が予感していた事態が、まったく予想できないまま現実のものとして出現し「『大洪水』(徳富蘇峰)を思わせる不安な流動」(橋川文三)の中に人々を投げ込んだからである。多くの青年が何の思想的準備もなく「未熟なままに世界の前に」(橋川)投げ出され、パニックに陥ったかのように右往左往したのである。たとえば橋川は、ある人物について、彼の根本にあったのは「第1次大戦とソビエト革命の影響下に日本に展開した新しい思想と感情の巨大な波を正しく認識することが自分には不可能だという感情ではなかったか」と述べている。そればかりではない。批評家中村光夫は名著『日本の近代小説』(1954)の中で次のように述べている。第1次世界大戦やロシア革命についての日本の文学者の関心は「意外に希薄で」、それは漱石とて例外ではなかったという。欧州大戦についての漱石の発言(1916。同年没す)に関して「当時の日本が少なくとも『精神』の分野では、世界の動きからいかに孤立していたか」、また「日本がこれほど呑気な離れ島であり得た」ことに驚きを表明している。大戦中も日本人のほとんどは「呑気に構えて」いたのである。それだけに、大戦と革命の最初の衝撃波が「戦争の結果として各国におこった思いがけない『信仰の革命』として、『倫理観念の一変』として……新思想の形でわが国の岸辺を洗ったとき、それに対する用意が、当時の文学者にはまったく欠けていた」という。中村は、この大戦と革命後の衝撃の日本人にとっての意味を「世界に共通する『現代』にひきこまれて行く過程」として捉え、その「あがき」は、日本人の精神生活の動揺と混乱として現在(1954)まで続いているという。また、この頃赴任したフランス大使P・クローデルの本国への報告(1922)には次のようにある。「今日、日本にやってきた人間がひどく驚くことは……国全体を動かしている主要なメカニズムがどこで機能しているのか、……日本を導いている中心人物がどこにいるのか、そしてなにを考えているのか……さっぱり何も見えてこないことです」。森明の「千古未曾有の機会」というリフレインは文字通り事実だったのである。それとともに、大戦直前上海で「未知の世界」の到来を「よく感じえた」彼の洞察力は、ひとり例外的な高さにあったのではないかと想像される。

このように、これら一切の根底にあるのは、日本人に「思想的準備」がまったく出来ていなかったという事態である。それは、あの「未知の世界」の巨大で奇怪な姿を解釈理解できるような社会科学的素養や社会思想が、ほとんどの日本人には欠けていたからである。幕末維新では、日本の思想的伝統から何かを持ち出して「西洋の衝撃」に耐えることがまだ可能であった。しかし、世界大戦とロシア革命後の日本は、気づいたときには「世界に共通する『現代』にひきこまれて行く過程」に激しく巻き込まれ、いまや自国の問題を規律しつつ世界の問題にも〈自らの思想によって創造的に対処する〉という課題に直面してしまっていたのである。それは当時の右翼の重鎮満川亀太郎が老荘会の発足(1918)に際して、現下の新たな思想問題は日本人にとって「3000年来始めての大経験である」と述べた通りであった。「未知の世界」は、思想問題としては明治維新よりもはるかに困難な内面的創造的課題として迫ったのである。しかし〈思想〉とは1体何であろうか。〈思想〉とは、多くの〈経験〉が堆積し、それらが言葉によって明確化されたもの、〈定義〉されたものである。また〈歴史〉とは、ある一定の社会集団の経験の明確化として〈社会的経験の定義〉である。そして重要なことは、その〈歴史〉は人々に〈社会的感覚〉や〈社会的知恵〉を授けるということである。それらを広義の〈社会思想〉と呼ぶならば、上記「思想的準備」の不足ということの根底には、〈社会思想〉の不足ないし未成熟という事態が伏在していたことになる。国家多元論者の中で、とくにこの〈社会思想〉の重要性を力説するのはバーカーである。「歴史における長い社会思想の歩み」が「共通の確信」を生み出し、そこに含まれる「正義の観念」が憲法その他の法律を生む、というのである(この順序が大事)。またのちに、A・ヤコブレフはソ連邦の崩壊の根本原因に関連してこの点を指摘することになる(『マルクス主義の崩壊』1992)。社会観念と人格観念と神の観念とは連動しているからである(別稿)。森明著作集の「資料5」に見える「近世における社会思想の変遷とキリスト教の交渉」(476頁)に見える「社会思想」に関する森明の講演予定も、このような文脈から意図されたものと考えられる。

ここで思い出されるのは「涛声に和して」における吉野作造と森明の対話(23頁:1922)である。「大体において大いに恵まれた国であると思っている」と吉野が言うのに対して、森明は「しかし、大兄の言われる通り不思議にも進歩し来たった国であるが、私にはいかに考えても『歴史』が不足であると思われる」と述べる。すると「同氏〔吉野〕も『その点である』とやや沈痛に応ぜられた」という段落である。森明は「すべての真理の理想も生命ある価値となすためには、経験、歴史によってのみ初めて真の意義を生ずるのである」と続けている。経験と歴史、これらこそは最も直接的に社会的感覚と社会的知恵を授けるものである。これら直接的に働く感覚゠知恵の重さによってのみ自己を支えうる人間と社会。その後の日本の歴史は、ほぼこの会話をめぐって、それを確証するかのように展開した、ということができる。そして、もしそうであるとするなら、日本社会は全体としては〈世界とともに歩みうる社会思想の社会的形成〉において敗北した、という他はないのである。

森明が伝道者として立ち、共助会を創設した当時の日本と世界の精神状況はおよそ以上のようなものであった。当時設立された諸団体がほとんどすべて消滅した中、共助会が100年の長きにわたって存続していることの意義を思うとともに、その歩みの根底にある森明の召命の雄大なヴィジョンと、それを支えている信仰の純粋な高さを思わざるをえない。

2 信仰と言語(注2)

しかし、先に述べたのように、根本問題は「キリスト教と文化との関係交渉の問題」であった。なぜそれが信仰にとって根本的に重要で、それゆえ共助会の中心主題でなければならないのか、またそれほど重要であるにもかかわらず、なぜ忘れられやすいのか、という問題であった。この〈根本問題の忘却〉という事態こそ、もっとも根本的な問題なのである。

この事態を、森明はキリスト教と文化の「両者の懸隔」と述べていた。また隅谷三喜男は、信仰と理性とが「(日本においては)全然別個の2つの世界を構成していないか」と問うていた。そこには2つの問題が含まれている。1つは、文化や理性ぬきの信仰というものは考えられるのか、という問いであり、もう1つは、それでもなぜ「全然別個」なものとして考えられがちなのか、という問いである。これらを厳密に検討するためには、そもそも文化とは何かという点から始めなければならない。しかし、学問的な文化の定義は学者たちにまかせ、ここではごく常識的なモデルで考えたいと思う。何か買い物をしに外出する。近くの人に会ったので挨拶する。スーパーで近所の農家がつくった見事な大根があったので、敬意を表して何にする当てもなく、とにかく買う。レジで代金を払い、大根を受け取る。スーパーの2階に上がって、小さな本屋で気になっていた新書を1冊買う。ブラブラして帰る。

このような日常的な社会関係の理解において大切なことは、〈直接的なもの〉は何もないという点である。近所の人との挨拶も言葉の交換であり、スーパーでの店員とのやりとりもお金と大根との交換であり、それは本屋でも変わらない。またお金も、かつての労働の対価としての年金である。それらの関係は、言葉やお金や大根や本や労働によって〈媒介された関係〉なのである。そして言葉もお金も大根も本も労働も〈文化〉である。大根は、〈栽培〉されたものとして語源的な意味で文化である。労働も、契約されたものとして文化である。そうすると、日常的な社会関係は〈文化によって媒介された間接的関係〉だということになる。この関係を破ると、たとえば代金を払わないと、〈直接的な力〉であるお巡りさんの出番となる(無論それも文化である)。この図式は、文化のいわば常識的水準を定義するものであるから、「世界内存在」(ハイデガー)とか「我と汝」(ブーバー、ブルンナー)などのように高尚ではないが、社会が持つある種シビアで強制的な側面に触れている点で、また学問的には通常分離される諸要素(例:言葉と経済)が混在している点で、逆に役に立つと思っている。

この〈社会゠文化〉図式で根本的に重要な点は、ヒトがある社会で生きていくためには、まずその社会の文化、とくに言語を幾分なりとも習得し、〈文化による社会的媒介関係〉を受け入れなければならない、という点である。言葉とか挨拶とか買物とか労働とか、その他少々の〈文化〉を学ぶことから始めるしかない。そこには選択の余地はない。それは人間の〈根源的受動性〉とでもいうべきものである。ある社会に生まれた人間は、つねにすでに〈文化内存在〉なのである。ヒトは、まず文化を学ぶことから始めるしかないのである。このことが、森明の2つの主要論文の表題の意味である。「宗教に関する科学および哲学」「文化の常識より見たるキリスト教の真理性」。キリスト教という超越的なものが、科学や哲学や常識から、すなわち人間の側から接近されるのである。わたしは、このことの意味は非常に深いところにあると思っている。

今回の講演では、上述の図式のうち、〈言葉〉の問題と〈お金とモノとのやりとり〉の問題を取り上げたい。このうち〈言葉〉は、人間にとってあまりに身近すぎてその根本にある問題性に気づかない、という性格を持っている。また〈お金とモノとのやりとり〉は、その過程があまりに遠く地球の裏側まで延びていて、その過程で何が起こっているかがわからない、という性格がある(アダム・スミスは顔の見えない取引を警戒した)。まず言語の問題から始めよう(注3)。

文化人類学の本を読んでいると、ときどき面白い事例に出会うことがある。たとえばニューギニアの原住民が、上空を飛んできた飛行機をみて「大きな鉄のトンボ」と呼んだという話がある。またこれはテレビで見たことであるが、江戸時代にゴンザという薩摩のひとで、ロシアに漂流、帰国後、日本初の露日辞典を作った人がいる。その辞典によれば、ロシア語の〈神〉は〈ホトケ〉と訳されているそうである。これらの例で重要なのは、互いに異なる2つの文化が接触したとき、相手の文化の分からない点は《とりあえず自分たちの文化体系の中にある似たものを〈準用〉することによって〈受容〉する》という構造である。この〈文化受容の構造〉が、信仰受容の場合にも繰り返されるのである。有名な例として、中世にゲルマンの地に福音が伝えられたときの人々の反応を見てみよう(深井智朗『プロテスタンティズム』その他)。中世ゲルマンの法意識には「損害と弁済」という考え方があって、他人に損害を与えたときには、それを弁済することが求められていた。福音が伝えられたとき、この考え方が神との関係にも〈準用〉される。つまり、罪を犯すことは神に損害を与えることである。したがって、神にその損害の弁済をしなければならない。告解その他がその弁済になる。そして他人に損害を与えてその弁済ができない場合、代理が許されるように、神に損害を与えた場合にも司祭その他による代理が許される。こうして巨大な贖宥代行業が誕生することになる、というわけである。この例でも重要なことは、中世ゲルマンの人々にとっては神や愛、罪や贖罪といったことを理解するのに、すでにゲルマン文化にある似たような観念から出発するしか方法がなかった、という点である。とくに当時は印刷術もなく、ごく少数の人々しか聖書を読めなかったから、疑問を感じることはきわめて困難だったはずである。そこにはルターへの遠い道のりがあったのである。しかし重要なことは、それでもとにかくルターに到達した、という点である。それはどのような移行だったのだろうか。連続的では決してなかったはずである。

この問題が神学の根本問題として浮上するのは、ブルンナー゠バルト間の有名な「自然神学論争」においてである。ブルンナーは、異文化への宣教が意味を持つためには、異文化との間に何らかの〈とっかかり〉がなければならないと考え、それを「結合点」と呼んだ。バルトはそのようなものは「ナイン」と、ぶっきら棒に断言する。ブルンナーは「純粋に形式的な対話可能性」としての「言語」を結合点と考え、伝道は相手の語彙の中に〈神〉という言葉がなければ成立しない、という。この点をもう少し詳しく考えてみよう。

ルターにおいて何が起こったのであろうか。それは、言葉は同じでも意味が変化したということ、言い換えれば、主語が同じでも述語が根本的に変化したということである。〈定義されるもの〉は同じでも〈定義するもの〉が変化した、ということである。中世ゲルマン文化における贖罪や罪に対応する言葉が〈再定義〉

されたのである。森有正がいう「経験にともなう言葉の再定義」という事態である。かれは「再定義としての人生」ということを言っているが、生きること、すなわち経験が深まると、つねに〈再定義〉が起こるのである。歴史の根底にそれがある。この点を非常に雄大な規模で取り上げているのは、カッシーラー『シンボル形式の哲学』第2巻『言語』である。

カッシーラーによれば、〈言語〉はつねにそのうちに解明されざる部分(X)を含むものであり、その意味が完全には明らかにならないもの、である。たとえば落体や地球の公転を重力で説明しても、さらにその重力とは何かという問いが出てくる。その意味で〈言語〉やそれが表す〈概念〉は、つねに「(解明すべき)課題を略記するもの」「課題を先取りするもの」にほかならない。言語においては決して究極的なことが言われているのではなく、つねにそれを「論理的問いとして」理解することが必要である。言語においては「概念として何を意味するか」が概略提示されるのであって、それは「考察のための基盤を準備する」ものにほかならない。その意味で、言葉はつねにすでに「問い」なのである。歴史上このことを最も明確に集中的に示したのがソクラテスの「……とは何であるか」の問いであった、とかれはいう。〈言語〉やその〈意味〉、その〈概念〉の、この〈問い的〉性格、〈途上的〉性格が、人間の成長、人類の歴史の進歩、その根底にある人間的自由、を可能にするのである。また信仰の無限の深まりをも可能にするのである。

言語とその概念には〈未知の部分X〉が必ずあるというこの指摘は、罪の概念において最も明瞭に見て取れる。キリスト教の罪について、自己中心性とか、傲慢とか、神への反逆とか、神への憎悪とか、いろいろその定義が出される。しかし、カッシーラー説によれば、最も重要なことは、罪はそれらによっては決して定義され尽くされない、という点にあることになる。つまり罪の罪たる所以は、把握できないという点、底なしに引きずり込むという点にあることになる。したがって、罪悪感や贖罪感の中心は、言葉によっては定義されずに背後に隠れている部

分に対する感覚にあることになる。森明、内村鑑三にそれが感じられる。それはおそらく、人間自身によっては測深できない人間存在の〈深み〉に対する感覚であるに相違ない。

こういうわけで、信仰と文化との「結合点」は、やはりあることになる。しかし、それは決して固定的・確定的なものではなく、そこではつねに〈生きられた転換゠再定義〉が求められている。またそのときその言葉は〈生きられた言葉〉となる。ブルンナーの結合点は、このように途上的・時間的性格をもつものと理解されねばならない。信仰はつねに、文化から福音への問いと冒険との運動なのである。それは方向運動であるから、そのどこでも文化と福音は切り離されえない。聖書の言葉全体が1挙にすべて神の言葉として理解されるということはない。この1節あの数節と、少しずつそれらが神の言葉として感じられるようになるのである。したがってそれは「信仰から信仰へ」と言うこともできるわけである。

しかし、なぜそれは忘れられやすいのであろうか。じつは、そこには言語の基本的な性格が働いていて、それが信仰の日常的理解、いな学問的な信仰理解にも、強烈に作用しているのである。言語は、さまざまな対象を言葉によって表現しようとするとき、その対象を諸契機に分割し、それらを切り離して並べることによってしか、その課題をはたすことができない。つまり、言語は事柄をつねに空間化するのである。たとえばここに1杯の紅茶があるとして、言葉でそれを記述しようとすると、紅茶葉+砂糖+お湯、となる。そしてそれら3つはそれぞれ実体と見なされる。しかし、現実の紅茶は、それらが渾然一体となった全体である。その渾然一体ぶりを表現しようとしても、それはできない。3つの単語(紅茶葉、砂糖、お湯)を一個所に重ねて書くわけにはいかないのである。この例の場合は、それで何ら問題は起きないが、「その内奥において相互に規定し合って」(隅谷)緊密に1つの全体を構成しているような「信仰と文化」の場合には、諸契機を空間化し、それぞれを実体化するこの考え方は、決定的なダメージを信仰と文化の関係に与えることになる。信仰と文化の生きた相互関係全体を、信仰+文化、と予め切断し、それぞれを実体化して「全然別個の2つの世界」(隅谷)と錯覚し、信仰だけに生きることが可能と考えるのである。

この問題は、人類の精神史全体を貫流する巨大な問題である。とくに宗教の場合には事柄の性格上、その根本的な問題性が極端に増幅されて現れる。迫害や異端審問に、必ずこの言語の空間化と実体化という問題がつきまとっている。神学に残存するこのいわば呪術的思考の残基を、20世紀において最も敏感に感じ取り上げたのがD・ボンへッファーである。神学の分野では「(神学的)二領域思考」批判と呼ばれることがある。同様の批判が哲学の領域では、J・デリダの「ロゴス中心主義批判」「脱構築」としてより厳密に展開された。キリスト教史における代表的な二領域思考としては、グノーシス派など数限りなくあるが、ここでは近代における最も代表的な例として、現代に至るまで論争が絶えない有名なルター派の「二王国説」問題に簡単に触れておくことにする。

この説は、神の国とこの世の国、教会と国家、個人的(私的)道徳と市民的(公的)道徳との間に厳密な区別をもうけ、ほとんど完全に分離する考え方である。その結果、公的には国家の命令に従うほかはなく、個人が抱く一切の社会倫理・政治倫理は原理的に否定されることになる。かくて、人格内部に公・私の分裂が起こることになる。バルトやトーマス・マンはこの点で、第2次世界大戦中から戦後にかけてルターを弾劾した。ルターは、この世の論理、国家の論理がほぼ完全に牛耳るような歴史がドイツに現出したことの元凶だというのである。この説をルター本人にどの程度帰すべきかについては議論がある。彼の神学の中で終末論的契機(後述)が10分有効に機能しなかったとも指摘されている。ともかく「領主の宗教が領民の宗教」として強制されたドイツの伝統的な保守的政治体制の根幹にあった考え方であることは間違いない。

この考え方の特徴は、神の国とこの世の国とを、彼岸と此岸とに、上と下とに、空間的にまた静的に固定し、まったく分離する考え方であり、名詞的実体的な捉え方である。これに対して、新約聖書が教えるのは「まず神の国と神の義とを〔この世に〕求めよ」であり、この世への「神の国の到来」なのである。神の国は、動的に動詞的にこの世に侵入して来るのであって、あちらとこちらというように、静的・実体的に固定されているのではない。この〈名詞的把握と動詞的把握の違い〉は、キリスト教のいわゆる「教義」のすべてに波及する根本的な重要性を持っている。ブルンナーは名著『出会いとしての真理』において、三位一体その他の「教義」についてギリシア哲学にもとづく実体的名詞的な捉え方を批判し、それを動詞的に考える必要性を力説した。これも同じ観点からである。三位一体とは、動詞的には、父なる神とキリストとの交わりへの「招き」なのである。「これ汝らをも我らの交わりに与らしめんためなり」(Ⅰヨハネ手紙1・3)、また「ある人、盛んなる夕餉を設けて、多くの人を招く」(ルカ14・16)とある通りである。そこに示されているのは〈神の働きかけ〉である。私は、ブルンナーを読む前に、奥田先生から、森明の三位一体論として同主旨のことを聞いたことがある。『「一筋の道」を辿る』を読んで、あらためて森明の洞察の深い素直さを感じる。神が「昨日も今日もまた明日も働きたもう」ということは、神が「絶対的永遠に招きたもう」ということである。信仰とは、教義への信仰や同意といったことではない。少なくともそれが中心ではない。信仰とは、何よりも「神の招き」に応じるという動詞的なこと、応答的なことである。信仰に関することはすべて応答的なことであり、動詞的に解釈されねばならない。そしてこの〈動詞的な捉え方〉の重要性こそ、キリスト教と文化の関係交渉の問題を解明する上で、もっとも重要な鍵なのである。

新約聖書によれば、神の国は、イエス・キリストの受肉と十字架と復活とによって「すでに」到来した。しかしその完全な実現は「いまだ」である。ここでは神の国とこの世とは、空間的にではなく時間的に区別されている。「2王国説」のように、空間的にまた実体的に固定されてはいない。この神の国の「いまやすでに」と「いまだまったくではない」との間の、緊張に満ちた動的な移行の過程が、現在われわれが生きている時期であり、またそれが「キリスト教倫理」と「信仰と文化との関係交渉」の時期なのである。それはまったく動的で実践的な過程である。森明が「今も、なお将来も、人類進化の過程において、私たちはつねに私たちの霊魂の深奥のうちに、改造途上のイエス・キリストを発見することができるであろう」(35頁)と述べた、その「改造途上のキリスト」のときであり、〈キリスト者がキリストと共に働く〉ときである。この移行の段階における人間の生き方について、K・ラーナーは「キリスト者はこの世の生のもろもろの構造のうちに、終末論的な希望を刻印すべき課題」を負っているというバチカン公会議の文章を引用し、それを「キリスト者の文化に対するかかわり方についての重要な言表」と述べている。この「構造」という点は、社会科学と関連する重要な点であるが、今はもう少し大きく捉え、キリスト者の文化創造とは〈この世の生に終末論的な希望を刻印すること〉としておこう。ラーナーの言葉では「信仰と文化との関係交渉」はそういうものになる。それはきわめて実践的なことである。この段階におけるキリスト者の生き方を支えるのは、キリストの再臨、宇宙の完成、神の国のまったき充満への待望である。そこではある循環が成り立っている。つまり「キリスト者は絶対的未来を希望することによって内世界的未来を形成する」とともに、逆に「絶えざる文化創造のより小さな行為において永遠の生のより大きな希望が実現されていく」のである(『自由としての恩寵』1968)。かくして「改造途上のキリスト」と共に働くことは、全時間がその1点に集中的に関わっている事態であることになる。以上のように、信仰における言語の問題の根底には、時間的な事柄を空間的に、実践的な事柄を理論的ないし傍観的に、主体的な事柄を対象的に、捉えようとする人間の根深い傾向性と錯覚とが存在することになる。

(注1)実際の講演内容とは随分違ってしまったが、主旨は変わらない

積もりである。

(注2)「現代における信仰と社会科学」については別稿で取り上げたい。

(注3)〈お金とモノとのやりとり〉の問題は「信仰と社会科学」の稿で

取り上げる