森 明のまなざし ― 「ただ赦されたいのです」安積力也

マタイによる福音書22章34― 40節

「お前にとっての森 明」を語れ。 飯島信委員長からそう問われたのが、今年の四月半ば。もう九〇年近く前に三六歳の若さで死んだ一人の病弱の牧師。いったい、私に語れる森 明があるのか。森 明についてなら、多少は話せるかもしれない。が、何かについての「説明の言語」は、共助の友たちの心の奥には届かない。実存の底に刻印されて、今もなお内奥から血が吹き出るように私を突き動かすものとして、私の心のどこかに「森 明」は生きて存在するのか……。一いち縷る でもあれば、それを私は、特にこの分断と絶望の時代をこれから生きねばならない共助の若い友たちに、「一点の希望」として語ってみたい。そう思って自らをギリギリ探った。そして結局、何をどこまで語れるか、まったく見通せないまま、ぶっつけ本番の主題講演に臨んだ。

問題提起①「行きついたもの」は無いのか?

大学時代(国際基督教大学・ICU)、疲弊の底で大学図書館にこもった時、うつろなまなざしで見た文学の書棚で、一つの詩に出会った。

ある日/するすると/どこまでも延びた線路の傍で/おもうた―

行きついたものは/無いのか?

空も/じぶんには/どうしても/「無限」を/おもわせぬ

それは/なにかしらいい加減の/深さしか/示してくれぬ

何か無いか?/どこかに/無いか?

行きついたもの/が??

八木重吉詩集『花と空と祈り』彌生書房、新装版29頁)

まるで私自身の魂の呻きそのもの、己が人生を賭して確かめたい根源的な問いそのものだ、と思った。

問題提起② ある高一生の洞察

それまで無遅刻無欠席を貫いてきた一人の高校一年生が、ある日突然、無断欠席した。担任が電話しても訪ねて行っても、頑として出てこない。そして一か月後、いつもと変わらぬ面立ちでまた出校し、そのまま皆勤を貫いた。

時々私のところにやってきて、鋭い問いをぶつけてくる子。心の中に自立性の高い世界を持つ面白い子だな。まぁ何かやってるんだろうと思って、私は心配しなかった。学校に戻って一週間後、またふらっとやって来た。「私、何で一か月も無断欠席したか、先生、その理由、知りたいでしょ?」「おお、知りたい!」「先生なら、本当のことを話します」。そう言って話してくれたことがある。

高一になって、自分の将来を考えた。自分には親が絶対反対することがわかっている進路希望がある。もう本気でその準備と勉強を始めたい。そのために、学校の先生一人でもいいから味方につけておきたい。そう思って、クラス担任の先生に話しに行った。そして、誰にも語ったことのない、心の内奥に秘めたある切実な願いと、それを実現するためにどんなに耐えがたい悩みを抱いているかを語った。

じっと聴いてくれた担任の先生。でもそのあと、その教師から返ってきた一言で、彼女の心は、ガラガラと血が流れるように崩れてしまった。そのまま何も言わずに学校を休んだ。何故こんな、あってはならないことが起こってしまったのか? この悲痛な心の現実を自分の力で吟味したい。そしてもう一度自分で心を整理し直すまでは、絶対あの学校には戻らない! そう決意し、一か月かけてそれをやり切って、また平然と学校に戻ってきたのだ。

そう語った後、彼女が私に言った言葉。

「先生、人間って、自分を知る深さまでしか、人を理解できないんですね」。

人間というものは、ほかならない「自分自身」をどの位の深さまで知ってるか、その深さ・浅さまでしか、他者を理解できないのだ。この先生は、私が私を見ている深さまでは、ご自身を見ておられないんだな。だからあんな、誰でも知っているような常識的な答えを返してきたんだ、と判った。そうこの高校生は言うのである。

教師よりも生徒の方が、親よりも子の方が、よっぽど先を行っている場合がある。いや、その方が多いのかもしれない。幾つになっても我々大人に問われるのは、己の自己吟味の「深度」、自分を知る「深さ・浅さ」である。

【四つの「まなざし」】

「過去の経験は、決して0 0 0 、現在を慰めてくれない。……人は過去を想像して0 0 0 0 現在の自己を慰めるが、実体は虚無であり、持続している過去のみが現在である。」(森 有正『バビロンの流れのほとりにて』筑摩書房、1968年版353頁)

若き日からずっと「持続している過去」というものが、私にあるのか。心の暗闇にむかってそう問うてみたら、思いがけず、異様な光を放つ「まなざし」が四つ、過去の記憶の暗闇から浮かんできた。すべて、大学(ICU)時代に出会ったまなざしである。

(1)神田盾夫(1897~1986)

大学受験に失敗し、一年間の浪人生活を無為に過ごし、暗い心でくぐったICUの門。新入生歓迎の全学オープンハウスが開かれた四月のある日、私は気が進まぬまま、キャンパス内に点在する教授宅の一つに向かった。この時私は、神田盾夫なる教授が何者なのか、噂以上はなにも知らなかった。 ― のちに私は、この先生が内村鑑三晩年の最後の直弟子であり、初代人文科学科長としてICU草創期のリベラルアーツ教育の中核を担う聖書学と西洋古典学の碩学であると知ったのだが ― 先生は、愛用のパイプをゆっくりくゆらせながら、参加した新入生一人ひとりに、入学して今思っていることを話すように促された。多くが肯定的な思いを語る中、私は、いらだちを込めてこう言い放ってしまった。

「なぜ、神など信じる人がいるのか、私には分からない。私は自分の理性が納得する事実以外は信じません!」

その時先生は、しばらく、じっと私を見つめられた。そして低い声で静かにこう言われた。

「愚か者……」

肺腑を射抜くような鋭い眼光なのに、そのまなざしには、なぜか、涙がにじんでいた。

不思議なことにこの時、私の心は傷つかなかった。むしろ、それまで感じたことのない、何とも言えない嬉しさを覚えていた。こんな私とまともに向き合ってくれる大人に、初めて出会えた実感。私の問題性の根源を真正面から問うてくれる大人に、初めて出会えた喜び。

この出来事が基点となって、私はICUで、私にとって真に「自分を生きること」と「仕事すること」が一つとなる道を、本気で探ることになる。八年間かかった。本当に苦しかった。そして、日本海の辺鄙な海辺に出来た小さなキリスト教高校の教師になる道を、やっと見出した。その報告をしに、久しぶりに神田先生のお宅に伺った。周囲からは、私の将来を心配して「なんでそんなところに?」と言われたが、神田先生は即座に「それはいい! 地方に行くことはいいことだよ」と言われた。そしてまたあの〝涙がにじむまなざし〟でじっと私を見つめて、こう言われた。

「お天てんとう道様は見ているからね」

それはその後、学校の人知れぬ教場の片隅でうずくまり、閉塞感とむなしさに呻くしかなくなった私を、くさび打ち、耐えぬき、待ちぬかせる、力となった。

(2)川田 殖(1931生・今年91歳)

あれは確か「全共闘運動」の前哨戦でキャンパスの中が騒然とし始めた1967年頃のことだった。学生が本館をバリケード封鎖し休講状態が頻発する中、どう動くべきか、自らの在り方を定めきれずに悶々とキャンパスを歩いていたら、遠くから大声で川田 殖先生に呼び止められた。 ― 川田先生はICU一期生で神田先生の下で学び、さらに京都大学で西洋古典学を修めた後1964年から人文科学科の招聘に服してICUに戻られていた ―

「安積君、一緒にプラトンの読書会をしませんか」

当時、社会科学的関心しかもっていなかった私は、内心、思った。

「こんな時に、何で読書会なんだ、それもプラトンだなんて」。

立ち話だったが、私はいらだちを込めて先生にこう返した。

「今は行動すべき時です。なのに、なぜか体が動かないんです」。

先生は、私の顔をのぞきこむようにして、こう仰った。

「安積君、真理に従おうとする人間はね、力の行使に対しては無力なんです。」

瞬時に、私は言い返した。

「無力でいいんですか!」

先生は、目の玉をカッとむき出すように見開いて、鼻の先がぶつかりそうになるほど顔を近づけ、こう言われた。

「いいんです。無力でいいんです。」

川田先生をして「無力でいいんです」と言わしめる「真理の力」とは、いったい何なのか。国家権力が持つ暴力的な支配力であれ、民衆が持つ破壊的な行動力であれ、この世のあらゆる「物理力(power)」に「対峙」できる力、それも「無力のまま」対峙できる力。それはいったい、如何なる「力」と「世界」なのか。

詩編46編11節の言葉が、抗いがたく内奥から突き上げてくるのを覚えた。

「力を捨てよ。知れ、私は神」。

全てが漠として見えてこないいらだちの中だったが、この巨大な「問い」だけは、川田先生のあの〝カッと見開いたまなざし〟と共に、消えぬ刻印となって、私の心底に刻まれた。

( 3) 森 明( 1 8 8 8 ~1925)

一九六九年という年、 ―

「全共闘」による東大安田講堂武力封鎖を大学当局は機動隊導入によって強制排除(一月)。これを契機に全国の大学に全共闘運動が急拡大し、そして年内に急速に瓦解していった。ICUもその嵐の中にあった― 私は、前途が何も見えないまま大学院の教育学修士課程に進んでいた。この年、共助会は創立50周年を迎え、初めての『森 明著作集』編纂の事業に取り組んでいた。その編集責任の一端を担われた川田先生から、その原稿校正の手伝いをしないかと言われ、「森 明」とはいかなる人物かもわからずに参加した。初めて読んだその冒頭の随筆「涛声に和して」は、自閉とむなしさの底で呻くしかなかった私の疲弊した魂を惹きつけずにおかなかった。不思議な悠久の響きを放射する文。この人はいったい何者なのか。その時初めて見た若き日の森 明の写真 ―

1914年6月、第一次世界大戦勃発の直前、植村正久の上海伝道に同行した時の森 明(26歳)の風貌。このあと森は伝道への献身を決意する ― には、天空から突然稲いなびかり光を食らったようなショックを受け、思わずその〝異様なまなざし〟に目が釘付けになった。何なのだ、この尋常でなく何物かに集中したまなざしは! この青年はいったい「何を」見つめているのか? 何がこの青年をここまで「本気」にさせているのか?

翌1970年の夏、私は、名状しがたい恐れを心底に秘めつつ尚〝このまなざし〟に惹かれて、おずおずと、清里での共助会夏期信仰修養会に初参加することになる。

(4)森 有正(1911~1976)

1969年10月、ICU当局は遂に機動隊を導入し、全共闘の学生によって占拠されていた建物を強制解除した。礼拝堂を含むキャンパス内の教育エリアは、数日のうちに2mを越える鉄製の壁で囲われ、大学当局は授業再開を宣言。さらに、全共闘メンバーのみならず大学当局の在り方に強い異議を持って授業ボイコットしていた多くのICU生に対して、翌70年1月までに「履修再登録」をしない者は自動的に除籍する旨を通告。ICU生の多くは、苦悩の末、屈辱的な思いで履修再登録書にサインして、鉄の塀に守られた学内に戻った。

この問題に「真実に」関わろうとした者は、教師であれ学生であれ、誰もが傷つき果て、それぞれにある後ろめたさを覚えつつ、もはや互いに目を合わすことなく、うなだれてキャンパスを歩いていた。私もその一人だった。

この年、1970年の9月、やっと再開された大学礼拝で、私は、森 有正先生 ― 数年前から時々パリから戻られ、キャンパスに住んで特別講義をしてくださっていた ― による五回にわたる連続講演「アブラハムの生涯」を聴いた。人が真に「自分」(一個の人間)になるための不退転の「出発」の消息。全身を耳にして聴いた。そして思った。「内発性」に賭けよう。どんなに乏しくとも自分の内奧から起こってくる想いに立ってしか、もう「出発」しまい。

この連続講演を聴き終えた後の、ある晩秋の夜だった。ICUのキャンパスはこの季節特有の深い静寂の闇に包まれていた。私は、図書館で閉館ギリギリまで勉強して、三鷹行の最終バスに乗るべく、礼拝堂に面したメインストリートのバス停まで急いだ。当時のバス停小屋には電灯がなく、薄暗い街灯のみがバス停の位置を照らしていた。私は、誰もいない小屋の暗いベンチの端に座って目を閉じ、この日ずっと考えてきたある諦めに似た暗い思いに意識を向けようとした。その時だった、小屋の奥の暗闇に何か異様な気配を感じて、思わず目を向けた。

森 有正先生が一人で座っておられた。黒いコートの襟を深々と立てて、一点の虚空を見つめたまま、微動だもせず、座っておられた。私は一瞬、その異様に光るまなざしを見て、思わず目を伏せた。どこかで見たことのあるまなざし……。そうだ、あの写真に写っていた森 明の〝異様なまなざし〟だ。

私は声をかけられなかった。他者の介入を許さない、こんなに硬質な「孤独」があるのか。このすさまじいまでの孤独からしか、この人の「言葉」も「思想」も生まれてはこないのか……。私はじっと目を伏せたまま、この人格から放射してくるもの全てを、全身で感じ取ろうとするしかなかった。

気がつくと私は、私の内部に淀よどむ、ある暗い諦めの思いに向かって、叫ぶように言い聞かせていた。

「今の自分に耐えろ!」

「自分の空疎さを、借り物で埋めようとするな!」

「待ち続けるしかないものが、きっと在るのだ。自分から何かを取りに行こうとしてはならない!」

後になって私は、先生の哲学論文(未完)の中に次の一節を見出し、納得した。

「意志は最後に来る。……凡てはあとになって判り、そこに本当の意志が生まれるのである。」(『経験と思想』岩波書店、165頁)

悔しいけれど、「本当のこと」は後にならないと判らないのだ。だから、本当のことを求める人生は、必然的に「冒険」にならざるをえない。

多分私は、今までこの四つのまなざしに見つめられ、くさび打たれて、かろうじて、生きよと命じられた場所から逃げ出すことを免れ、求められるままに、辺境性の高い四つのキリスト教学校の現場を生きることが赦されたのだと思う。

私にとって「教育の現場」とは、常に、accident ― 「起こってくるもの」 ― に不可避的に遭遇する場である。その一つ一つに身を投じることで、私は何度、若き魂の、この四つのまなざしと同質の〝まなざし〟に直面させられ、自らの濁ったまなざしを根底から糺ただされてきたかを想うのである。

【森 明の「行きついた」思い】

配ったレジュメの半分まで語って、時間は尽きた。本論抜きの序論と結論で終わるしかない。

上海伝道に同伴した26歳の青年・森 明のまなざしは、いったい「何を」見つめていたのか。

あの写真(『森 明著作集[第二版]』冒頭に掲載した写真の二枚目)と改めて対峙して、気づいたことがある。右目と左目が明らかに違うのだ。左目はグッと前に出て、外の現実を見据えている。しかし右目は、逆にグッと内に引っ込んで、己の内奥を見ている。左目は日々展開する歴史の現在と来たりつつある未来の現実を、右目は己自身の過去を、否、「持続している過去」としての「己の罪」の現実を、直視している。

今回私は、「青年・森 明」の右のまなざしが持つリアリティに惹きつけられ、そこにわが身を置いて、戯曲「霊魂の曲」を読みかえした。そして、なぜか、それまで見過ごしていた一つの台詞に釘づけにされた。第二幕。死後の世界に降った「霊魂」は、キリスト(声のみで姿は見えない)の前で、生前自らが犯した肉欲の罪や人の愛と信頼を裏切った罪の、恐ろしくも過酷な本

質を、一つ一つ告白的に明らかにしていく。ごまかしを許さない森 明のまなざしが、自らの内に見出さざるを得なかった罪の深淵。このあと、「霊魂」がふと口にした(ように私には思われた)言葉。

「ただ赦されたいのです。」(『森 明著作集[第二版]』452頁6行目)

私はこの台詞を、「赦されたい」という意味だけを取って、そのままスルーしていた。その前に「ただ」が付いていた。この「ただ」が持つ重みに気づかなかった。これは、「赦される」こと以外によっては、もはや死をもってしても解放されることのない苦悩を前にしての、「ただ赦されたい」なのだ。これは、キリストの御前で、己が罪の内実すべてが明らかになっていく中で、森 明の実存の底に最後に残った只一つの「真実な思い」なのだ。この「ただ」は、弁解ひとつない「ただ」。森 明のあの〝まなざし〟が遂に行きついた0 0 0 0 0 「ただ」、なのだ。そう思った時、私の中にあった「森 明」への越えがたい鉄壁がガラガラと音をたてて崩れていくのを覚えた。

「お前の罪のために、お前よりも深く私は苦しみ傷つけられている……お前を愛するから……」(キリストの台詞 『森 明著作集[第二版]』453頁1―2行目)

私も、この信仰の先達・「森 明」と共に、このキリストの御前で「ただ赦されたい」と思う。

最後に、私の拒絶をはねのけてこの課題を課してくれた飯島委員長に感謝する。やっと、私にも「語れる」森 明に出会えました。祈りは一つ。不信と閉塞の時代をこれから生きねばならない若い世代の中から、一人でもいい、『森 明著作集[第二版]』を「眼光紙背に徹する思い」で読もうとする者が出ますように。(元基督教独立学園高校校長)