李 仁夏 先生のお働き 石田真一郎

1.はじめに:夏期信仰修養会(後半)で、李仁夏(インハ)先生のお働きを発題することを求められました。私は李 仁夏先生にお目にかかったことがないので、李 仁夏先生が歩みを振り返って書かれた『歴史の狭間を生きる』(日本キリスト教団出版局、2006年)に全面的に基づいて、発題致します。私の東京神学大学時代の父親のような年齢の同級生だった本間 浅治郎先生(共助会員)が「、李仁夏先生は立派な方ですよ」とおっしゃっていたことを思い出します。

2.李仁夏先生は、1925年6月15日に、朝鮮半島の慶尚北道漆谷郡仁同(現在亀尾市に編入)に誕生されました。日本に来られ、京都の私立東寺中学校2年次に編入されます。その後、和田 正先生とのよき出会いがありました。英語を教わり、聖書に出会ったのです。和田先生は戦争末期に、中国人一人のためになら死ねると、中国人への福音伝道のために家族と共に熱河に行かれました。熱河宣教は、国策によらない日本人の純粋な宣教活動だったと評価されています。私も1993年に尾崎風伍先生に勧められて『熱河宣教の記録』を読み、熱心に祈って伝道なさった方々の情熱に感銘を受けました。

3.1943年イースターに、日本基督教団 西田町教会で受洗されます。当時礼拝に特高刑事がおり、礼拝前に「起立、回れ右」と号令して宮城遥拝が行われていました。アメリカ留学経験のある中西貞雄牧師は、最敬礼の代わりに黙祷を呼び掛けました。精一杯の抵抗です。旧約の預言者が告発するのは、イスラエルの民が神を捨てたのではなく、神を礼拝しながら同時にバアル(偶像)に膝を屈したことだと李先生は言われます。皇民化教育を受けた李先生は、富国強兵(李先生の言葉では集団的エゴイズム)から脱却できずにおられました。朝鮮人クリスチャンが約50名も神社参拝を拒否して獄死した事実が李先生に悔い改めを促し、侵略戦争に加担したご自分はひびの入った「土の器」で、使い物にならないと思ったが、聖書はキリストの十字架と復活によって、罪人(つみびと)の罪を赦し、復活にあずかれる希望の光を示してくれました。聖書を学び直そうと決意され、日本の神学校に行くことにされ、それが「在日」として生きる岐路になったのです。

4.1946年、日本基督教神学専門学校(現東京神学大学)に入学するため、東京へ行かれます。李先生は、1951年8 月に酒井幸子さんと結婚されます。国籍の違う夫婦です。クリスチャンでなかった韓国の父上は反対でしたが、その後結婚を許してくださり、クリスチャンになられました。父上はある牧師からルツ記を知らされたのです。イスラエル人でないルツが姑ナオミと行動を共にし、ボアズと再婚し祝福を受けた物語です。「行き過ぎた民族主義をたしなめ、神の愛の普遍性を証言するルツ記が聖書に収められていることを相関的にとらえることこそ、最もふさわしい聖書の読み方」(同書70頁)だと李先生は言われます。生活の座から聖書を読むのです。イスラエルとパレスチナもそうあってほしいと、李先生は言われます。母上も1960年代の後半クリスチャンになられたようです。万事が益とされました。

5.1952年3月に神学校を卒業。在日大韓基督教会の関東地方会が伝道師として招聘し、調布市の多摩川開拓伝道所に派遣されます。高校生、女性、オモニたちが10名ほど礼拝に出席、2年後から受洗者も与えられました。1954年に、50坪の土地に牧師館兼礼拝堂の建物を建設されます。全国の在日大韓基督教会の教会とカナダ長老教会ミッションの支援がありました。日本一小さな10坪礼拝堂とおっしゃいます。朝鮮戦争で難民となって流入した若者などであふれていました。二人目のお子さんの誕生の時、病院に46、000円請求されたが、とても出せない天文学的な金額でした。しかし支払済みと言われて驚かれます。朴炯圭(パクヒョンギュ)牧師が支払ってくださっていたのです。聖書註解者バークレーによると、「聖書に登場する天使は、万策尽きた時に現れる助け手」です。 

6.1955~57年、カナダのトロント大学院に単身留学。その前に故郷で老境に入った両親と再会。留学で交わりが広がります。黒人のスミス牧師から人種差別への怒りを知り、李先生が生きて来られた民族差別の歴史から共感するところ大でした。祈って1959年に在日大韓基督教会 川崎教会牧師として赴任されます。

7.当時の川崎は公害の最も厳しい環境でした。ご長女が幼稚園に入園するとき、民族差別をもろに受けられました。日本基督教団 桜本教会の関田寛雄牧師に保証人になっていただきました。関田牧師はM・L・キング牧師と文通した経験もあり、民族差別と闘う市民運動にも共に先頭に立たれました。町内会の役員が神社の神輿を担ぐ祭りのための寄付金集めに来られた時、戦時中、朝鮮半島では50名もの牧師や信徒たち教会のリーダーが、神社参拝の強制に抵抗し殉教死したことを思い、李先生はダニエルの信仰に倣い、寄付を拒否されました。すると主日礼拝の最中、教会庭の花壇が踏み荒らされました。村八分です。信仰の正念場でした。在日同胞は日本の伝統社会で二重の意味(在日でありクリスチャン)で「よそ者」でした。

聖書には、「神は、キリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました」(コリント二5・18)、「いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい」(ペトロ一2・11―12)とあります。李先生は、ご自分たちの使命は「和解の福音」に仕えることと自覚されました。

8.川崎教会が和解の福音に仕えるために何ができるかと考え、礼拝堂を地域の子どもたちに開放することと思い至られます。ある牧師に、「子ども一人を預かると、両親、祖父母、兄弟たちを含めて5、6人との関係が豊かに広がる」と聞き、「これだ!」と思われたのです。1969年4月に桜本保育園を開園。国籍、民族、宗教、思想、しょうがいの壁を設けない志です。はじめ日本人の子ども27名、在日同胞の子ども7名。韓国人の園長と保母に戸惑い、退園を申し出る人も出たが、戻って来ました。園児が他の園に入ったが「桜本保育園に帰りたい」と泣き続けたようです。保母たちの注ぐ本物の愛情に、民族や宗教は壁になりませんでした。めざすは共生です。違いをあるがままに受け止め合うことこそが豊かな社会を作ると信じて。神を畏れるからこそ「あなたの隣人を愛せよ」(マタイ19・19)がモットーです。2年目からは、同胞の重度しょうがい児をも引き受け、川崎市公認の統合保育実践園となり、在日同胞の園児の実名にこだわる原則を打ち出します。民族差別を避けて通名で生きることをしない主義です。保育園は新社会福祉法人「青丘社(せいきゅうしゃ)」の下に置かれました。

9.2006年の川崎市は、人口の2%以上の2万8000人が外国籍。桜本保育園は、以前は日本人と在日同胞が半々でしたが、多様な文化的背景をもつ園児が増えました。日本にとってよいことです。李先生がその頃心配されたのは、教育基本法の改悪です。単一民族発想と愛国心が強調されると、排他意識が生まれ、紛争や戦争が起こります。国際結婚「文化の異なる人間同士の愛による出会いに、国が顔を出すべきでない」という言葉はすてきだと李先生は言われます。以前はハーフと言ったが、今はダブル。80年代の指紋押捺拒否運動の中で生まれたキャッチフレーズ「日本人へのラブコール」こそ、和解の福音に仕えるご自分たちの祈りだと言われます。

1984年6月、伊藤三郎・川崎市長が文化交流の市民館「ふれあい館」構想を公約。社会福祉法人青丘社に運営委託。すると一部住民が反対運動を行いました。李先生は非暴力で対応されます。反対ビラには「青丘社に任せたら、『朝鮮人ばっかり』、『かたわばっかり』、『不良ばっかり』になり、普通の日本人は行けない」と3つの心痛む差別用語が書かれていました。新聞記者が、反対運動の非をやんわりたしなめ、市と青丘社が進める共生社会の試みを高く評価すると、反対運動が静まります。

「ふれあい館」では、歴史、社会、文化、教育の講座を実施。ハングル講座も盛況。しょうがい児の親に呼びかけて「虹の会」を組織。虹は、ノアの箱舟に由来し、多民族の共生を神様が祝福するシンボルです。

10.1965年6月22日に、日韓基本条約が調印され、日本パクチョン ヒと韓国の間で国交が樹立されました。しかし、朴 正 煕政権が日本に過去の総括をさせないまま、賠償ではなく経済協力の名目で、5億ドルで手を打とうとした屈辱外交に、韓国で激しいデモが起こりました。韓国の教会では、日帝の植民地支配が弾圧として明確に記憶されており、軍事独裁政権への抵抗でもありました。

李先生は5月頃、母校の東京神学大学の桑田秀延学長から、学内で韓国のクリスチャンの叫びの意味を伝えてほしいと依頼されました。テーマは「真の和解をどう実現するか」。韓国のクリスチャンの「反日」の表現は韓日間の和解を拒否するのでなく、日本が軍事力で大韓帝国を侵略し、1894年の東学農民革命軍の鎮圧に始まり、独立を奪い、キリスト教を民族の堡塁として弾圧した事実がある。その植民地支配を清算する歴史認識を共有してこそ、和解が起こる、と語られました。桑田学長は「全く知らなかった。全く無知だった」と告白されたそうです。李先生は、日本の神学教育が、日本とアジアの歴史の現実を外して、西欧の神学を移入していることの限界を強く感じられました。

11.李先生の話を衝撃をもって受けとめた沢 正彦神学生がおられました。日韓の和解の使者となる志を抱かれます。延世大学に留学、金纓(キム ヨン)さんと結婚、日本基督教団 桜本教会に赴任(関田寛雄牧師の後任)。やがて戦後初めての日本人宣教師として家族ぐるみで韓国に派遣され、ソウルの教会の副牧師、2つの神学校で日本の教会史を講じ、韓日和解のために働かれました。

韓国教会の民主化闘争の証人になったため国外追放になり、日本に帰され、惜しくも49歳で天に召されました。

12.李先生は1965年9月、日本基督教団と日本キリスト教協議会を代表する大村勇牧師の随伴者兼通訳としてソウルに行かれます。韓国基督教長老会の議長の招きで、戦後初めて日本の教会の代表が、総会の中で、世界中からのゲストと共に挨拶することになっていました。ところが代議員から異議が続出。それを金浦空港で聞いた大村牧師の微笑を含んだ顔が緊張、李先生も青くなります。しかし無理もない、過去の清算がないまま、韓国民の反対を押し切って韓日条約が締結されたのだから、と思われました。韓国の教会には、1938年秋の総会で、日本基督教会総会議長・富田満牧師の勧告で、「神社は宗教に非ず且基督教の教理に反せざる本義を理解し神社参拝が愛国的国家儀式なることを自覚す。よって茲(ここ)に神社参拝を率先励行し」と、痛恨の決議をして国家権力に屈した恥部がありました。にもかかわらず教会は閉門され、多くの殉教者を出したのです。日本の教会から公式な謝罪もないまま、戦後20年たっていました。

総会は、3時間の激論の末、「日本の教会代表の挨拶を受けるか否か」を採決し、受ける側が1票差で過半数、受けることに決定。大村牧師に、最初の挨拶をハングルで語ることを提案すると喜んで了解されました。「アンニョンハシムニッカ」に始まり、「私がハングルでなく、皆様をかつて支配した言葉でご挨拶することをお許しください」と言ってもらうために速成のハングル特訓を行います。超満員の大会堂は「針のむしろ」でしたが、大村牧師のハングルでの最初の挨拶と、日本語でのお詫びの言葉に、聴衆の顔に驚きとかすかなほほえみが読み取れました。謙虚な大村牧師が「日本の植民地支配が、皆様にいかに大きな困難を強いてきたか」と語り、低く頭を下げて謝罪すると、拍手が鳴り始め、満堂を揺るがす拍手に変わり、全参加者が立ち上がり、大村牧師は史上初めて韓国人からスタンディング・オベイションの名誉を勝ち取られたのです。キリストが約束した聖霊の現存の証しで、李先生はそれを現場で目撃したことを幸いに思われました。

13.日本の教会は、西欧の植民地支配のイデオローグとしてのキリスト教を否定することから始める必要があると、李先生は説かれます。アジアの覇者であろうとした日本の過去と決別しない限り和解も平和もありません。1960年代の日本の教会の罪責告白は、朝鮮半島の南北和解のため祈る韓国の教会に連帯するもので今日的意義を持つと、李先生が言われます。

14.李先生にとって忘れがたい訪問者は、後に西ドイツ大統領になり「荒れ野の40年」の名演説をなさったR・フォン・ヴァイツゼッカー氏。日本では、若者の体制への抗議(反万博運動等)が焦眉の急と述べると、「おぞましいホロコースト以降、ドイツのキリスト者もマイノリティーだ、若者の反体制運動はヨーロッパのどこの国も同じ」と答えられました。ホテルで語り合ったことと、「荒れ野の40年」のトーン(ドイツ人の罪責告白をナチズムの被害者、しかも社会的弱者から語り始め、歴史認識が未来を決めると説く)が重なり合い、感動的だった由です。

15.1960年代には、アメリカのキング牧師らの公民権運動、アフリカの西欧諸国による植民地支配からの解放運動がピークに達しました。それにどう応えるか、世界の教会の課題でした。日本の教会では、教会宣教の考え方にあってはならない二極化、「教会派」と「社会派」の分裂があります。これをどう乗り越えるか、今も日本基督教団の大きな課題。神様に大いに助けていただいて、時間をかけて乗り越えたいものです。

16.「在日」とは、戦前に朝鮮半島から渡来した在日朝鮮人一世から五世までの総称で、日本に永住許可証をもつ方々です。戦後に韓国から渡来した韓国人は、このカテゴリーに入りません。在日の若者の86%が日本人と婚姻するので、「ダブル」と呼ばれる三、四、五世も増えています。歴史の狭間を生き抜く社会的少数者、日本社会の排他的単一民族神話が生み出した周辺化された人々です。日本人はこのことにもっと関心をもつ必要があります。

17.在日の方々が、負の歴史を跳ね返して生きるには、一つの事件をくぐり抜けねばなりませんでした。日立製作所の民族差別事件です。愛知県の高校を卒業した朴鐘碩(パクチョンソク)さんは、日立の子会社への入社試験を受け合格。戸籍謄本の提出を求められました。今は、差別につながるので本籍の記載も求められませんが、当時は当たり前でした。朴さんが「新井と名乗っているが、韓国籍なので戸籍謄本を提出できない」と言うと、「日立は外国籍を採用しない」と入社拒否されました。それまでの人々は泣き寝入りでした。朴さんは1970年12月8日に横浜地裁に提訴します。「日立製作所による解雇処分は、原告が在日朝鮮人であることを理由にした民族差別である故に、無効である」と。1971年4月に「朴君を囲む会」発足(李先生は呼びかけ人共同代表)。1974年6月19日に勝利判決。当時の風潮は「同化か、さもなくば排除」。多くの在日朝鮮人が、日本名を使わざるを得ず、その根は、朝鮮半島での皇民化政策の創氏改名運動でした。李先生によると、偏見と差別は、いつも支配と被支配の関係から生まれ、それが再生産される社会のゆがみがあり、女性差別も同じ力関係で起こります。現代のパワハラ、セクハラの根もここにあると言えます。

18.終わりに: 「囲む会」が主催した1973年9月3日の関東大震災50周年記念集会で李先生は「、朝鮮人虐殺の今日的意味を問う」の題で語られ、日立の民族差別の歴史的な文脈を明らかにされました。来年2023年が関東大震災からちょうど100年で、私たちは朝鮮人虐殺を忘れず、二度と繰り返さない決意をし、日本と朝鮮半島の関係が平和的・友好的になるように祈り、努力しましょう。            

以上。(日本基督教団 東久留米教会 牧師)