天に栄光 地に平和 山本 精一
【閉会祈祷会】
かつて勤務していた大学で、ケニア出身の同僚(平和学ゼミ)から、夏休みに六名の有志学生たちと南アフリカ共和国へのスタィ・ツアーを計画しているが、それに一緒に加わらないかとの熱心な誘いを受けました。2001年の3月のことでした。彼とは、それまでも国内で様々なフィールドワークを共にし、かつまた様々な事を語り合ってもきた、敬愛する友人でありました。この類い稀な機チャンス会に、できることなら、アパルトヘイト廃絶(1994年)以後の南アフリカ社会をこの眼で見てみたい、そして彼地に一人でも二人でも友人を恵与されたいとの願いが強く心のうちに湧き起こってきました。家事と育児から長期にわたって離脱することになるため、果たして行ってもよいものか妻の意向を聞いたところ、どうぞとの寛大な返事を得て、このスタディ・ツアーに参加することができました。長い旅程のなかでの忘れ得ぬ場面(シーン)、出会った人々の瞬間的な表情の陰翳(いんえい)は、心の内に深く刻みこまれています。ここでは、この旅のなかで遭遇した事のなかから、二つの出来事をお話ししたいと思います。
その旅は、今から23年前、2001年の8月24日から9月10日まで、半月以上の期間にわたって、南アフリカの四つの都市(プレトリア、ヨハネスバーク、ダーバン、ケープタウン)、そしてそれぞれの都市の近郊にある黒人居タウンシップ住区を訪ね歩くというものでした。そのなかで、様々な活動をする黒人たちとの出会いと交流の機会が与えられました。彼らが語る言葉を聞きながら、アパルトヘイト体制の差別と抑圧が南アフリカ社会に、そこで生きる人たちにどれほど深く重い傷・トラウマを与えているのか、その事を痛切に感じさせられたことでした。しかし同時に、その苦境のなかで次の時代を望み見て、苦しむ同胞とともに、望みをもって歩みを切り開いていこうとしている人々に心を深く揺り動かされたことでした。
この旅のプログラムを企画段階から全面的にサポートしてくれたのは、四国学院の平和学ゼミの卒業生でした。彼女は卒業と同時に、南アフリカの隣国ジンバブエに渡り、その地の大学に留学し、そしてそこからさらに南アフリカのケープタウン大学に移り、卒業後は現地にそのままとどまり、黒人の社会的地位向上のための様々な取り組みを進めるNGO組織(首都プレトリアに拠点を置いていた)に専従スタッフとして入り、そこで献身的に働いていました。
ちょうどこの旅の期間中、南アフリカの東海岸にある大都市ダーバンで、国連主催の「反人種主義・差別撤廃世界会議」が一週間にわたって開催されることになっていました。その大きな国際会議は、新たな世紀を迎えて、世界各地の人種差別そして植民地主義の今に続く歴史的罪責を明らかにし、その状況を国際的・市民的ネットワークによって変革していくために国連が企画したものでありました。国連は、この国際会議に、国家の代表者たちだけではなく、この問題に取り組んでいる世界中のNGO市民に対して、広く参加を呼びかけていました。先の現地NGOで働く卒業生から後押しされて、その会議の会場に、一日だけではありましたが部分参加する機会を得ることができました。しかしそこで遭遇した出来事は、今もって忘れることのできない衝撃的(ショッキング)なものでありました。
われわれがその会場に着いたとき、そこには百人以上も入る巨大なドームテントが、幾つかの分科会毎に設営されていて、各国からやってきたNGOが、それぞれの国や地域での根深い差別の歴史と現状、そしてそれにどのように立ち向かっているのかという具体的実践を報告し、その後その報告をめぐってフロアの各国からの参加者たちとの間で活発な質疑・共有・交流がなされていました。われわれは「hate in crime(犯罪のなかにある憎悪)」を主題とするテントに向かいました。そこでは先ずインドのダリットの人々が、彼らがインド社会でどれほど不条理な差別のなかに置かれているのか、痛切な報告を行っていました。その後には、日本の二つのグループからの報告がありました。一つは、被差別部落の問題を通して様々なマイノリティーと連帯して反差別の取り組みを広く展開しているグループであり、今一つは日本軍による性奴隷制(「従軍慰安婦」)問題について、2000年に国内外の司法専門家と一般市民たちの大きな協力のもと、日本で実現した「女性国際戦犯法廷」のことを報告するものでした。それはさらに、その出来事を追ったNHKのドキュメンタリー番組が、二人の自民党の若手政治家の恫喝的介入によって、2001年の放映直前にその内容がNHK上層部の指示により深刻な改変を蒙ったことをも伝えていました。
その後に、一人のパレスティナ人女性による、イスラエルのパレスティナ難民に対する国家暴力の実態(土地略奪と人種差別と日常的迫害)を訴える報告がなされました。そのとき、大勢のフロアのなかから一人の高齢の白人男性が発言を求めて立ち上がり、会場全体に向かって、初めは慇いんぎん懃無ぶ 礼れいに、しかしやがて居丈高な口調で、パレスティナ人による自爆テロをなぜ取り上げないのかと彼女を激しく非難し始めました。そのときテント会場は、その発言に抗議するブーイングの嵐に包まれました。するとその人は激高して、語気も荒く大声を張り上げながら、イスラエル国家を代弁する主張をまくしたてました。それにもう一人の白人男性が同調し始めました。騒然とした会場のなかでの彼らの早口の英語は私には聞きとることができなかったので、隣の同僚に聞くと、二人のうち一人はイスラエルから来た者であり、もう一人はアメリカから来た者であって、同僚曰く「聞くに堪えないイスラエルの正当化と、パレスティナ側に全面的に責任転嫁をする発言を延々と行っている」という返答でありました。この時の彼らの傲ごうぜん然たる独善性、そしてそれがパレスティナの女性の発言を一方的に封じようとしていたこと、すなわちその討議の場そのものを破壊する行動から受けた衝撃は、今もって生々しく思い起こされます。
イスラエルは、この翌年の2002年からヨルダン川西岸地区で、パレスティナの人々から、彼らの生活・移動・本来の居住地への帰還の権利を徹底的に奪い去る分離壁の建設を開始しす。その分離壁建設の動きをこのとき既に察知していた参加者たちの多くは、南アフリカのアパルトヘイト政策の歴史的罪責を見据えながら、「イスラエルがいま進めつつある計画は、まさしく現代の新たな人種隔離政策、アパルトヘイトそのものだ」との告発の声を上げていました。
この国際会議が最終日に採択した反差別・反植民地主義の共同声明に、アメリカやイスラエル、欧州の幾つかの国々は、自国が行ってきた植民地支配への賠償責任追及を恐れて加わりませんでした。2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルでのあの航空機による凄惨なテロが起きたのは、この国際会議終了後(9月7日)、程なくしてのことです。
今一つの話をします。それは首都プレトリアの市内から車で十分ほど離れた小高い丘の上に聳え立つ、「フォールトレッカー(開拓者)記念堂」と呼ばれる豪壮な建物を訪ねたときに見たこと、そして聞いたことです。
はじめに、この記念堂の歴史的背景に触れておきます。南アフリカ南部の東ケープ地方に、船に乗って最初に「入植」してきたオランダ系白人(ボーア人)たちが、遅れて「来た」英国系白人たちとの間で、金やダイヤモンドの利権獲得をめぐって対立し、最終的に戦争となり、その戦争にボーア人たちが敗れた結果、彼らはそれまでの「快適な」入植地であった東ケープ地方を捨て、牛車に最小限の家財道具を積み込み、手に聖書を携えて、家族集団で「生き延びるsurvive」ために内陸部(北方)へと「移動」して行きました。彼らは「敗北」の屈辱感、そして東ケープでの土地・財産・生活を奪われたという「被害者」意識を多重に抱えながら、「新天地」を求めて移動していきました。
しかし彼らのその深い屈辱感を内側から支えたものがありました。それは、この自分たちの現在の苦難の先に、「乳と蜜の流れる約束の地」が必ず与えられるという、イデオロギー化した「出エジプト」の物語でありました。彼らは出エジプトの物語に自分たちの「開拓行」を重ね合わせ、内陸部への「入植」過程で行っていった先住民族の生活圏への一方的侵入とその土地での戦闘行為を、「神の計画」のうちにある事として徹底的に合理化していきました。
モーセに率いられた烏合の衆が、奴隷の地エジプトから脱出し、40年の苦難に満ちた荒れ野の彷徨の末、豊饒なカナンの地を戦闘行為によって占取していったという出エジプトの最終局面での土地占取と祝福の物語は、彼らボーア人のフォールトレッカー(「開拓者」)たちが行った、ケープ海岸地方から北方内陸部への「開拓」行の物語と重ね合わされていきました。
彼らは移動の道すがら敬虔に朝夕聖書を読み、日曜礼拝を欠かすことなく、植民地支配競争に敗れた自分たちの「開拓」行を、文字通り出エジプトの物語により祝福・栄光化していったという消息が、この記念館の館内エントランスの巨大な壁面をぐるりと埋め尽くす、彼らの先祖たる「開拓者」たちの足跡を絵物語的に表現するレリーフ一枚一枚に、濃密な情感を込めて描き込まれていました。
しかしそこには、この突然出現してきた侵略者に抵抗するズールー民族をはじめとする先住民の人々を、野蛮かつ未開の異教徒と見下していた事、そして抵抗する彼らと「勇敢に」戦いそして打ち破った事、その戦闘行為のなかで時に敗北し落命していった同胞がいた事、そしてその仲間を「殉教者」として悼み顕彰した事、そして遂に「神の約束したもう土地」に定着できた事が、一連の物語となって展示されていました。
そのレリーフを一枚一枚丹念に見ていくなかで、私はかつてやはりフィールドワークで訪れた靖国神社の遊就館に漂う妖気、すなわち、かの戦争で「日本」はどれほど甚大な被害を蒙ったのかという被害者意識の一面的・一方的な強調、同時に、戦死者たちを、「皇国日本」を守るための尊い「犠牲者」、「軍神」として徹底的に祀り上げ聖化する精神構造、すなわち犠牲死を栄光化する精神構造、それらとまったく同質の精神が、その記念堂に充満しているのを感じずにはいられませんでした。
そこには、黒人先住民の現代にまで打ちつづく歴史的苦難に対して、また今この時も苦しみを与え続けている事への痛みは、露ほども見られません。むしろ「われわれこそがこの未開の国の開拓者である」という歴史的「矜持」と、対英敗北そしてその後の苦難に満ちた「開拓」行という二重の被害者意識が折り重なって、ボーア人のボーア人によるボーア人のための「開拓者記念堂」が、市内を睥睨するようにして、丘陵上にそそり立っていました。案内してくれたボーア人のドライバーは、さらに驚くべき説明をしてくれました。
それは、毎年12月16日の祝日になると、大勢のボーア人たちがここに集まってくる事、そして館内中央に据えられている大理石上に刻みこまれている「ボーア人讃歌」を、ある時刻を待って一同で斉唱するという事でありました。その時刻とは、一年にたった一度、この建物の一階ロビー吹き抜け上方にある一つの天窓から射し込む陽光が、この大理石の歌碑をぴったりと照らし出し、輝き立たせる時であるとの事でありました。その特別な時、その場に集うたボーア人が、その「栄光」にどれほど酔いしれるのか、その異様さは想像に難くありませんでした。
自民族の歴史的苦難のみを栄光化し顕彰する。それは、近代国家が延々と繰り返してきた、そして繰り返している営みです。その営みを駆動する自民族栄光化の精神が、自分たちが踏み潰してきた隣人たちの底知れない歴史的苦難に対する、怖お ぞけ 気をふるうような無感覚と無関心と倨傲と一体のものであるということ。歴史の暗黒とは、この隣人の苦しみの叫びに対する、われわれ自身の忘却と無感覚と無関心と倨傲と一本で繋がっているということ。南アフリカで直面した出来事は、今この時代の暗黒のなかで、私にそのことをあらためて突きつけてきます。
そのなかにあって、御子の降誕を告げる御使いの合唱の言葉を以下のように聞きとって、この話を終えたいと思います。
栄光帰するは地にあらず天にのみ、地にはただひたすら平和あるのみ、と。
(日本基督教団 北白川教会員)