巻頭言

「一緒にいる」ということ 吉田昌市

この何年かリモートで出ているマルコ伝を読む会で、先日14章の初めの部分を読んだ。発表や討論を聞きながら、しかし私は少し別のことを考えていた。どなたもご存知の話で、ある女性が高価なナルドの香油をイエスの頭に注ぐという話である。こんな無駄なことをして、貧しい人々にたくさん施すことができたのにと、周りにいた人々がその女性を咎めると、イエスが、貧しい人はいつも一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではないと言って弁護する。

私が考えていた別のことというのは、この「一緒にいる」ということで、この女性を咎めた周りの人々は、本当に貧しい人と一緒にいたのだろうかということだった。この場面で一緒にいたと言えるのは、この女性がイエスと一緒にいただけで、周りの人々はイエスと同じ場所にいながら、一緒にはいなかったし、もちろん貧しい人と一緒にいたわけでもあるまい。

ここでふと「善いサマリア人」(ルカ10・25―37)のことが思い浮かんだ。「この三人の中で、誰が追い剝ぎに襲われた人の隣人になったと思うか」とイエスが問うわけだが、この「なった」あるいは「なる」ということがとても大切なことだという講解を、以前に聞くか読むかして、しかし私には「である」に比べて「なる」ということがそれほど大切な点だというのが、あまり理解できなかったからである。

しかし、ナルドの香油の記事を、これに当てはめて考えてみたらどうだろうか。イエスの周りの人々は、イエスの隣人ではあったかもしれないが、隣人に「なった」とは言えまい。貧しい人々に対しても、この周りの人々は「しようと思えば、いつでも良いことをしてやれる」というだけのことだった。しかしこの女性は「(イエスに対して)できるかぎりのことをした」(マルコ14・8)のであり、こうして彼女はイエスの隣人に「なった」のである。

「一緒にいる」あるいは「隣人である」とは、この女性のように切実な思いに促されてのものでなければならないのではないか。今回の「2024年度京阪神共助会修養会」でも、そこに連なる人々の名前に出会うことができた。ヒトラー暗殺を企てたボンヘッファー、蒙古の地へと赴いた沢崎堅造や和田 正、彼らは、まさに「一緒にいる」あるいは「隣人である」ことを追い求めた人々であったと思う。もうお一方、私には「隣り人」ということで忘れることのできない人がいる。飯沼二郎先生である。

(日本基督教団 北白川教会員)