晩年のR・シュナイダーにおける信仰と懐疑 ― 懐疑は信仰を養い、信仰は懐疑を養う 下村 喜八
〜京阪神修養会・主題講演II〜
はじめに
1957年11月、54歳のラインホルト・シュナイダー(1903‐1958)はヴィーンを訪れ4か月滞在した。そこでの経験をつづった手記が彼の死後『ヴィーンの冬』という表題で出版された。この作品は、多くの人々に驚きと衝撃を与えた。彼の後世への遺言だとされる一方で、「シュナイダーは信仰を捨てた、もはやキリスト教作家ではなくなった」とか、「結局彼は絶望のうちに死んだ」と考える人も少なくない。シュナイダー自身、この手記が誤解をまねきかねないことを意識していた。そして数年前から自分の内部で生じている変化をできれば隠しておきたいが、われわれにはそれぞれ決められた軌道があるので、自分は「このいかがわしい走行」をなさざるを得ないと言っている。ナチス支配の苛酷な時代にも、彼には歴史の背後にあって支配する神への信頼と、それに基づく希望があった。しかし第二次世界大戦後の2、3年頃から懐疑に苦しみ、このヴィーンで懐疑が極度に深まりをみせる。彼は「われわれは宇宙や深海や歴史を覗きこむと、罰を免れえない ― そして、ひょっとして自己自身、人間を覗きこんでも罰を免れえないのかも知れない」と述べている。
1 宇宙の沈黙
晩年のシュナイダーは近代物理学を学ぶなかで、想像を絶する宇宙の空間と時間の大きさに驚嘆し、同時に恐怖と不安を感じた。宇宙という現実は、彼によれば、人間の実存にとって重すぎる課題である。何が問題なのであろうか。①宇宙のなかで人間は空間的にも時間的にも無に等しい。②それは人類の歴史についても言えることである。われわれの歴史時間は銀河がわずか一回転する時間である。ちなみに現代物理学の推計によれば、宇宙の広さは139億光年で、さらに拡大をつづけている。それに対し地球の直径は約1万2700キロメートルである。宇宙の年齢は137億年、人類の始祖である原人の出現は早くて二〇〇万年前である。③人類の手に地球を何度となく破壊できる核兵器が握られ、人類の自殺の可能性が高まるなかで、歴史の終わりが近づいているように見える。この歴史の終わりも、無限の宇宙のなかでは無に等しい出来事ではないであろうか。④宇宙におけるキリストの救いとは何であろうか。彼は自伝のなかで次のように書いている。「途方もない宇宙空間、太陽群と星団のきらめき、そしてそれらが立ち昇ってきた時間の測り知れない深淵を前にして、私は十字架に架けられた人を見た。そしてそのこわばった両腕が解かれて、だらりとさがるのを見た」。無限の宇宙を前にして見えてくるのは、意気阻喪した無力なキリストの姿である。この地球は、宇宙にくらべると極微の塵ちりに過ぎない。にもかかわらず万物の主は、人類の歴史のなかに降り立ち、無に等しい30年余を生きられた。そして贖罪の死を死なれた。これはいったい何を意味しているのであろうか。伝統的なキリスト教の世界像と近代科学の世界像とは折り合いがつくのであろうか。地球という小さな塵は、途方もない宇宙のなかでキリストが命を犠牲にするだけの値打ちがあるのであろうか。そのような問が彼を苦しめる。
2 生物の世界
さらにシュナイダーは生物学にも関心を示し、その成果を丹念に読んだ。そして知らされた生命という現象は、驚嘆と恐怖を彼にもたらした。生の本質には破壊的傾向が内在している。生命現象においては、弱肉強食の法則が支配していることをわれわれは知っている。しかし『ヴィーンの冬』で叙述される生の凄惨さは弱肉強食の法則の確認で済ますことはできない。
生命現象は、食うことと食われることによって成り立っている。そして破壊者が破壊する相手を破壊しつくせば、その段階で破壊は完全に終わるが、破壊者も同時に自己破壊してしまう。したがって「破壊の進捗の一歩一歩は破壊者自身に向けられている」ことになる。寄生虫の住まいとなったハチはもはや巣を作ることも、産卵することもできない。寄生されたカニも卵が産めなくなる。それは寄生虫がみずから、自分たちの住処を破壊していることを意味するであろう。このように「生命」は生命自身を破壊する。破壊が持続することによってのみ生は維持されるというのは、なんと凄惨な生の姿であろう。ここに、伝統的な神学が説く「創造の秩序」を見ることができるのであろうか。神は「自然の全秩序をその慈愛とみ力と知恵とをもって導くお方」と言えるであろうか。このような自然、堕罪のもとにあるとはいえ、自然もまた神の像によって答えられなければならないであろう。
あるいはまた、生きることの意味を疑いたくなるようなあさましい生の姿が展開される。たとえばトクシアリは、それが寄生する別種のアリとは敵対関係にある。両方のアリの群が〈野外合戦〉を始めると、決着がつかず何日もつづく。降雨のような外からの力が加わらないかぎりその合戦は終わらない。オビガの幼虫は、ごく細い糸で互いに結ばれ合って帯状になって歩く。この行列全体は食物を探す一匹の生き物のように見なすことができる。先端が、何らかの障害物によって鋭く折れ曲がると、先端と末端がぶつかりあうことがある。すると、その縦列はその場で休みなく何日も力尽きるまで回転する。このような生物の様態はシュナイダーには「生きつづけることを余儀無くする劫罰、回転する地獄、苦という現象形態をとった無である」ように思える。また生物の形は、飢えと、激しい欲望と、破壊衝動によって規定され変更される。そうであるなら、われわれが生物の形に見いだす美とは何なのであろうか。これらの生の姿はすべて、慈愛に満ちた父なる神の像を否定することにならないであろうか。そしてまた、人間の生存がそのような生命の悲惨の上に成り立っているのなら、その存在は悪なのではないであろうか。さらに、われわれが精神や美と呼んでいるものは何なのであろうか。それらの基盤は崩れ去ることにならないであろうか。
他面また彼は生涯、自然風景を愛し、動植物の姿に慰めを見いだしてきた。それは彼の多くの作品で確認できる。しかし『ヴィーンの冬』では様相が反転する。この二つの面は互いに関連しているのであろうか。われわれはこう考える。被造物への愛が深ければ深いだけ、いっそうその苦悩を感じ取るのではないであろうか。被造物への愛と被造物の苦悩を感じ取る能力とは一つであって、同じものの表裏であるように思える。
3 歴史
この世は罪に対しては罪によって応えることしか知らない。悪行(あくぎょう)は報復を呼び起こし、その報復の仕打ちがさらに別の報復を呼び起こす。ここに宿命とも呼びうる恐ろしい「罪の循環」が生じ、不信と猜疑と恐れが増幅される。「ほとんどすべての出来事、防衛措置をも含めてあらゆる措置が、この不信を増加し、正当化しているように思われる」。
今日の戦争においては、もはやいかなる意味においてもいわゆる「正義の戦争」は存在しないし、核の威嚇によって敵の攻撃を抑止できるというのは幻想である。なぜなら、威嚇による防衛は際限を知らないからである。風は思いのままに吹く。核戦争の被害は敵・味方の区別なく全人類を襲う。この事態をシュナイダーはいささか皮肉なトーンで次のように表現する。「人類は、すでに知力と技術と死の恩恵によって ― 残念ながら倫理の恩恵によってではなく ― 一つとなった」と。
さらに発明・発見の成果がひとたび歴史のなかに持ち込まれると、事態はもはや、科学者だけでなく、政治家をも含めた人間の意志と自由はほとんど機能しないところまできている。彼は、科学のなかにヒトラーと同じ独裁者、人類の破壊者を見た。相互報復による罪の連鎖、自己目的となった戦争、科学の独裁、核の脅威、それらの行き着く先に彼が見たものは人類と地球の破局であった。
「歴史は歴史自身が呼び寄せる諸々の力を破壊する。歴史がそれらを必要とするのは焼き殺すためである」と彼は語る。人類の歴史もまた生物の生命と同じように破壊の持続によってかろうじて保たれている。しかし非人格化した権力と独り歩きする科学技術が結びついて、人類の近い未来には絶滅が予見される。このような歴史のなかに、なお神の摂理を認めることができるのであろうか。
4 神の啓示
神の啓示の場とみなされるものは自然と歴史とキリストの三つである。そのうち神の啓示をキリストに限定する最も鮮明なものとして、カール・バルト(1886‐1968)が起草したドイツ告白教会のバルメン宣言の第一条をあげることができる。シュナイダーが多大な影響を受けたパスカル(1623-1662)も同じである。それに対し、シュナイダーはキリストと並んで自然と歴史も神の啓示の場であると考えている。そのように考える立場は、自然のなかに創造の秩序と神の栄光を見、歴史のなかに神の支配を見る。シュナイダーも、ナチス支配の苛酷な状況のなかでも歴史を導く神を固く信じていた。しかし晩年の彼においては、上記のように自然と歴史は光ではなく闇を、いわばマイナスの符号のついた神を指し示す。そして、その負の神を自分の肩に担う形でキリストの姿が浮かび上がり、啓示はキリストへと収斂してゆく。したがって結果的にはパスカルおよびバルメン宣言と同じであるが、啓示の場として自然と歴史を捨象していないところに違いが認められる。そしてこのことが彼の懐疑と深く関わっている。
5 懐疑
彼は二〇代の初めに、スペインの哲学者ミゲル・デ・ウナムーノ(1864-1936)をとおして、人間は不死への渇望をもっているが、理性の立場に立てば、それは実現不可能な要求であり、われわれは不死の絶対的な確実性を得ることはできないこと、そして懐疑のなかにあって、悲劇的感情と苦悩を回避することなく、それらを積極的に担って生きることを教えられた。そして『ヴィーンの冬』でも彼は永遠の生命の不確実性の前に立たされている。信じたくても確信することはできないのである。「そのような疑問は私を孤立させ、私をいささかなりと評価してくれた人々、私から慰めを求めてくれる人々を失望させ、傷つけることを私は感じる。神学はそのような諸問題を解くことができ、片づけることができる。しかしそれらが根を下ろしている地面にあたる生の内容と生活経験を抹消することはできない」。
ヴィーンで持病が悪化し、彼は激しい痛みに耐えながら、苦痛が鎮まることを願うが、「墓を踏み越えて、死の彼方にあるものを憧れることも、死を恐れることもできない」、つまり復活を望むことはできない。これは彼自身の現在の状況である。しかし、それは多くの現代人の状況と重なるのではないであろうか。シュナイダーは、ニヒリズムによって生きる力をむしばまれた現代人が死と無に対する不安をもたず、復活の願望も信仰ももたずに生きている状況を共に生きている。そして、この状況の先に恐ろしい破局を予感している。したがって彼はこう自問する。「私は、恐るべきことの前触れの使者として生きなければならないのであろうか。そう自問する。このつらい実存にそれ以外の意味があろうとはもはや私には思えない」。
6 信仰と懐疑
彼は自分の懐疑的な態度を批判しながら、同時に懐疑を自分の信仰にとって欠くことのできない重要な部分であると考えている。懐疑は生活経験に深く根ざすもので、消し去ることはできない。彼は自分の信仰の状態を原生林内で共生するランとキノコにたとえる。ランは菌を通じて水と無機物を吸収し、一方菌は植物の根から有機物を得ることによって共生が成立する。懐疑と信仰は共生関係にあり、懐疑が深まると信仰が深まり、信仰が深まると懐疑が深まるとシュナイダーは言う。
真の信仰は懐疑を包含するということを彼はウナムーノから学んだ。「疑うことを知らない信仰は死んだ信仰である」と。さらにウナムーノは「私は人間として、キリスト者として、永遠をみつめながら疑い、闘い、苦悶する」と述べている。この実存の姿はシュナイダーにおいて繰り返される。次のように書いている。「もはや誠実でない信仰をもって死ぬよりも、心に激しい問いを抱いて死ぬ方がよい。麻酔にかかった状態で死ぬよりも、苦悶のうちに死ぬ方がよい」。R・ベートゲは、「シュナイダーは不安と懐疑がより深い洞察を得るのに役立っていると感じる。懐疑を許容しない信仰にはある重要な次元が欠けている。そのような信仰は表面的であり、誠実さを欠いている。今日の人間の疑問を取り入れない信仰をシュナイダーは欲することはできない」と述べているが、われわれもやはり、そのような考えに同意せざるを得ない。なぜなら、現状に満足したキリスト教は現代の問題、神なき社会の問題に答えることはできないからである。「今日なおキリスト教に存在の意味があるとすれば、それは、この時代に応えることができ、この時代を助けて、それ自身を乗り越えさせるものでなければならない」。
7 十字架像
十字架はキリスト教の歴史のなかでさまざまな意味に理解され、用いられてきた。それは罪と死と滅びに対するキリストの勝利のシンボルであったが、単なる勝利のシンボルとして軍旗、武具の文様に用いられた。日常的には成功を祈願して十字が切られる。シュナイダーは、十字架が歴史の流れのなかで、キリストが架かられた時のままなる十字架であることは少ないことを洞察していた。彼の意識は、修正されていない「裸の十字架」に集中する。
ウナムーノは、「われわれスペインのキリスト像はすさまじいまでに悲劇的である。それはまだ身まかっていないキリスト、苦悶するキリストを崇拝する心の現れである」と書いています。シュナイダーにとっても、信仰の対象は墓所に安らかに眠るキリストでも、復活の栄光に輝くキリストでもなく、十字架にかけられ断末魔の苦しみの内にあるキリストであると捉えられます。それは『ヴィーンの冬』においても同じで、「苦悩は持続している。(……)極限に達しながらそれを超えず、埋葬の夜の間じゅう血を流し続ける肉のままでとどまり、不朽の苦悩であり続けた人間、この世における共苦の人間キリスト、彼は復活のキリストよりも救いの助けとなる」と表現されています。
8 無力な神
この世における勝利のキリスト教をシュナイダーは退ける。栄光の神、力の神への信仰、そして選民意識と結びついたキリスト教が、歴史のなかで多くの過ちを犯してきたことをわれわれは知っている。十字軍、魔女狩り、ユダヤ人迫害、征服戦争、植民、奴隷制度等である。シュナイダーはそれらをあらゆる機会に、さまざまな作品をとおして厳しく批判してきた。ユルゲン・モルトマン(1926-)も指摘しているように、全能の神、あるいは力強い神のなかに神の栄光を見るキリスト教は、神の力によって自国の栄光と、権力による他者支配を求めているのである。そのようなキリスト教にあっては、自分の願望の延長線上に、それをかなえてくれるものとして神がある。人間が神を、無力で十字架につけられたキリストのなかに見、また信ずるならば、人間は権力と他者支配、自己正当化、および自己の神格化を目指す意志から自由になり得る(モルトマン)。シュナイダーが出会っている神は無力で弱い。彼は自分のためには何も求めないことを求める。なぜならキリストとキリスト者は他者のための存在だからである。
『ヴィーンの冬』で描かれているこのような破局のなかで、詩人には何が残されているのであろうか。彼には一つのことしか残されていない。「われわれは祈らなければならない、たとえそれができなくとも。私は他の人々のためにとてもよく祈ることができる。司祭のため、科学者のため、政治家のため、諸国民のため、被造物のため、現世のため、また当然のことながら何よりも病人のため、また死者のためにも祈ることができる。それは謎に満ちた関係のひそかな確認である。私はこのような祈りをしたいという深い欲求をもっている。これが私を支え、毎朝、私の足を教会へと誘うのである。しかし自分のためには祈ることはできない」。
神、被造物、歴史、そして人間。現代において、それらのすべては、存在の理由と意味と価値において極小状態に達している。その極小のものを繋ぎとめて滅びから救うには、ただ祈りしか残されていない。そして結びつける帯は共苦である。共苦がそれらを結び付けることができる唯一のものである。祈りの内容は途方もなく空間的な広がりをもっている。共苦がそうさせたのである。全体的状況のなかに深く入ってゆき、その状況を共に生き、共に苦悩する信仰。そのような信仰しか、現代では意味を持たない。「わずかに世界に対する苦しみからのみ祈ること、それがすでに敬虔の最後の形である」。
「信仰を超越し、信仰に逆らい、不信仰に逆らい、自分自身に逆らって祈らねばならない。毎日やましい良心をもちながら人目を忍んで教会に出かけること――自分自身に抗して、自分の知性に抗して出かけること――このねばならないが感じられるかぎり恩恵は存在する。恩恵の秩序のなかにある不信仰がある。そこは、イエス・キリストの宇宙的、歴史的遺棄に入る入口である。もしかしてそれに与ることでさえあるのかも知れない。宇宙と歴史への絶望からくるこの経験(遺棄)が、十字架の前のこの絶望が、今日のキリスト教なのであろうか」。
遺棄感に捕らわれたシュナイダーを、神の御子キリストは、神に捨てられた神、すべてのものから捨てられた神、それでいてすべてのものの遺棄の極限にまで入ってゆく神、すなわちご自身のもとへと連れてゆく。そのような遺棄のなかで、「キリストはすべてを集め、統合し、宥和する場所となる」(K・ヘメルレ)。
神に捨てられる苦しみのなかにあってさえ、キリストには父なる神への絶対的な帰依があったとシュナイダーは語っている。同じように、遺棄に苦しむシュナイダーのなかにも神(キリスト)への帰依がある。われわれにはそう思える。彼の遺棄感も恩恵の秩序のなかに包摂されていると考えられる。
世界も自己も神に見捨てられているように見える。にもかかわらず、キリストの十字架において、神の子が神に見捨てられた出来事において、すべての罪と苦悩が、そして宇宙と歴史への絶望が受け止められ担われている。現代社会にあって、キリスト者は、天も閉ざされているようにみえる遺棄を経験するが、それはキリストが、彼の後をおって、彼が経験した最も暗い時間にまで入るように呼び求めていることを意味するとシュナイダーは考える。
9 希望
シュナイダーは絶望のうちに死んだのであろうか。われわれはすでに「十字架の前の絶望」について述べた。そして、神に見捨てられた人間が、絶望の淵から、神に見捨てられた方に祈る、そこに現代の究極の敬虔があるのを見た。もし希望があるとすれば、そのような敬虔のなかにしかないであろう。「イエス・キリストの宇宙的、歴史的遺棄に与ること」、そういう絶望のなかにしか希望はなく、そういう闇のなかにしか光はない。自分がひそかに絶望しているものを追求することはほとんど自分の力を超えている。にもかかわらず、そうすることが求められている。「虚偽のこの世のなかで真理(キリスト)を行うことは致命的なことであり、同時に救済の行為である」。「キリストが世界にぶつかって破滅したように見えるとき、実は世界がキリストにぶつかって破滅しているのである」。そのような意味でキリストの十字架は世界に対する勝利である。為すことはできないが為そうとする人間、致命的な真理を生きようとする人間を、彼は「極限の存在(extreme Existenzen)」にたとえる。
彼は作用物質の働きについて考える。「たとえば副腎髄の分泌物、あるいは副腎皮質ホルモンは、繊細極まりない作用・反作用のうちに身体を調整する力をもっているが、有機体全体からするとほとんど確認できないほど微小である。しかしそれらを欠けば有機体は健康でありつづけることはできない。諸国民に関しても事情は同じではなかろうかと彼は考える。微量の作用物質は、国民共同体のなかでは無である。しかしおそらく、それらは、もしも極度に強ければ作用物質になりうるであろう。 (……)それらは血液の流れに入り込み、自分自身は変化することなく、体内の働きを可能にし、促進し、抑制する」。それらは、ただ一人で真実を極度に強化することができる存在である。望みを失い滅びへと向かう世界は、そのような極限の存在を必要としている。彼はそこに望みをかけている。極限の存在とはどのような人間なのであろうか。現代にあっては、繰り返しになるが、ありとあらゆるものが、その存在の理由と意味と価値において極小状態に達している。しかしながら、いかなるものも捨象しないで、その全体的状況のなかに深く入って行き、その状況を共に生き、共に苦悩する信仰。そのような信仰のあり方を彼は全体的実存と呼んでいるが、そのような全体的実存を生きる人間が、極限の存在である。
さらにまた、キリストに贖われた人間は、キリストと共に十字架につけられ、自己に死して共苦の愛に生きる者とされる。キリストへの接近、キリストとの一体感が深まってゆくと、キリストと共に他者の苦悩、時代の苦悩を担うなかで、まるで天も閉ざされているかのような様相を呈し、神に見捨てられたキリストに近づく経験をする。「苦しむものと共に苦しむ神」は、人間の全ての罪と病と苦悩を担われた。そして、キリストの苦しみは今も持続している。その苦しみに共に与る人間、そしてその生が真実にキリストの生と同じ姿に近づく人間が、極限の存在である。
(日本基督教団 御所教会員)