講演

信州の地より、十字架の主を仰ぐ 朴大信

1 信州という風土

今回の演題は、主催者代表の片柳榮一さんに付けて頂きました。事前にこれをご提案頂いた時から、感じ入るものがありました。全体の主題である「深き淵より十字架を仰ぐ」に対して、挑戦的に応答するタイトルだと思ったからです。私が現在牧師として遣わされている松本、ひいては信州という土地(風土)に立った時、十字架の主がどのように見えて来るのか。そのありようを私自身も捉え直したいと思いました。そしてそのためにも、信州という土地を、まさしく「深き淵」として見つめ直す大切さに気付かされたのです。

これからお話しすることは、私が松本に赴任して7年足らずの牧会生活を振り返りながら、いわば一つの伝道報告のようなものになることを予めご容赦頂けたら幸いです。そこでまず、次の文章をご紹介します。

信州は教会形成のできない所である、という議論がある。内村鑑三の好意的批評は、「山の有る処には必ず岩がある、岩のある所には必ず岩のような硬い骨を有たる人が居る、余が信州を愛するのは一つには其岩の為である、二つには其人の為である」と信州人を容認しているが、信州人は不羈(=ふき. 束縛されないこと。他から押さえつけにくいこと。)の気質を持っていて一筋縄では御難(ぎょし)にくい処がある。手塚縫蔵(ぬいぞう)は東京神学社(東京神学大学の前身)に学びながら、日本基督教会の組織の中に牧師としては定着していない。平信徒にして牧師の職を代行しても、誰もが不思議に思わず、かえって好ましく思うような風土である。この教会制度の枠に入り切れないようなキリスト者は、信仰の証しの場を教育という仕事の中に見出して行った。否、教育を天職と自負する教育者は信仰を持つことが大切だと、信仰の意義づけを与えられ、教育実践のために教会に加わった。極論すれば教育者のみが信州のキリスト教受容の主たる風土であった。…中略…

この意味で、信州のキリスト教は教会形成は二の次で、まず真実の人間として世の中で生きるということに眼目があったごとくである。バター臭い、所謂信仰的な教会生活は、社交的表層的と退けられた(塩入隆、『信州とキリスト教』、1982年、キリスト新聞社、7~8頁)。

2 松本東教会の歴史

この文章は、信州という風土の特徴を良く描き出していると思います。信州(長野県)は日本列島の中央部に位置し、四方は山々に囲まれ、シーズンになると登山客で賑わいます。緑豊かで空気も澄んでおり、四季折々、自然の恵みに満ちています。しかしこの自然下で育まれて来た風土や文化、またここに暮らす人々の気質や気骨というものは、内村が指摘するように、一方では「岩のように硬い」と評されます。

表層的な印象でしかありませんが、もしこれを「画一的・閉鎖的」といった意味で断面的に理解するならば、一つ、真っ先に脳裏をよぎる由々しき事実があります。長野県は、いわゆる「教育県」として(少なくとも一昔前までは)知られ、良くも悪くも教育に熱心という傾向があります。これが先鋭化すると、学歴志向・偏重という風潮をも生み出すのでしょう。こうした中で、時々耳にする言い回し、もしくは肌感覚に訴えるような表現があります。「深(ふか)志し以外は高校ではない」。深志とは松本にある公立高校名ですが、県下で一位二位を争う、いわゆる「進学校」として地元では認知されています。要するに、「この学校に入らなければ良い大学に入れない=将来が約束されない」という価値観が暗黙の内に共有されているようです。もちろんこれが一つの動機や目標となって、若者たちの向上心を実際に喚起する効果もあるに違いありません。しかし他方で、ここに象徴される画一的な価値観だけが独り歩きする時、この物差しで測られる若者たちのプレッシャー、あるいは、実際にこの秤からこぼれ落ちてしまった若者たちが抱く心理的抑圧や屈辱感はいか程でしょうか(ちなみに私は、松本に来るまで「深志」という名すら耳にしたことはありません)。

はたして、こうした懸念がどこまで因果関係として作用するかは慎重な検証が必要でありましょう。しかし私が「由々しき事実」と申したのは、ここ数年、自分の眼を疑うある一つの統計的事実がここにどうしても重なって見えるからです。それは、「長野県における青少年の自死率が、全国平均に比して群を抜いている」という不名誉な事実です。豊かな自然に恵まれたこの信州の地で、いったい何が、未来に希望を馳せる若者たちの魂を息苦しさの崖っぷちにまで追い込んでいるのでしょうか。得体の知れぬ魔物が、今もかれらをそこから突き落としてしまう程の猛威を振るっている現実にあって、いったい何が、逆にその歯止めとなり得るのでしょうか。これは学校教育の問題だけではないと思います。家庭の問題であり、地域共同体や社会全体の問題でもあります。そして私にとっては、すぐれて伝道の課題に他なりません。

だからでしょうか。一方ではこうした「岩のような硬い」気風を生み出すことになった信州という大地が、他方では(まるでそれに対抗する反動軸として)「不羈(ふき)の気質」を持つ人々をも生むに至ったことが暗示される引用文中の指摘は、実に興味深いことです。不羈とは聞き慣れない言葉ですが、「一筋縄では御し難い」と形容されます。これは、物事の常識に捕われず、思いのまま行動する気質の故でありましょう。この代表人物として挙げられるのが「手塚縫蔵」です。曰く、「手塚縫蔵は神学社に学びながら、日本基督教会の組織の中に牧師としては定着していない。……この教会制度の枠に入り切れないようなキリスト者は、信仰の証しの場を教育という仕事の中に見出して行った。否、教育を天職と自負する教育者は信仰を持つことが大切だと、信仰の意義づけを与えられ、教育実践のために教会に加わった。極論すれば教育者のみが信州のキリスト教受容の主たる風土であった」。

実はこの手塚縫蔵こそ、私がお仕えしている松本東教会の創設者です。繰り返し確認したように、彼は終生、教会制度における「牧師」にはなりませんでした。小学校の教師を貫いた人です。しかし明らかに、「良き教育者にして、良き伝道者」であったことは疑いようもありません。彼にとって、教育の徹底は、信仰の必要と意義に至らしめるものでした。また信仰の徹底は、必ずしもその証しの場を教会だけに限定せず、むしろ「教育という仕事の中に見出」す自由をももたらすものだったのです。

手塚に関するこんなエピソードがあります。彼にとって、教育者として信仰をその軸に据えるということは、必然でした。それ故、神の御前で「真実の人間として世の中で生きるということに眼目」が置かれることになり、その姿はまた、当時の公教育、あるいは戦時下の天皇崇拝に基づく臣民教育とは真っ向からぶつかる、反逆児の態度として現れることにもなりました。これにより、教員の手塚は三度にわたる懲戒処分を受けることになるわけですが、その機会に上京して「東京神学社」(現東京神学大学)で学びます。そしてそこで植村正久に出会います。植村は、手塚の伝道者としての素質を高く評価して牧師の道に転向するよう強く勧めるのですが、結局、手塚はこれを断ります(すき焼きをご馳走してもらった食事の席で!)。彼曰く、教会の伝道が「上からの伝道」であるなら、自分は「下からの伝道」、すなわち教育を通じた伝道を志したいと。この返答に失望した植村が、手塚に対して「愚か者!」と一喝した逸話は、今も私たちの教会で語り継がれています。

このように、「不羈の気質」を貫く手塚には、当時のお上に対しても、教会の大勢に対しても、決して物怖じしない自由さがあったことが窺えます。こうした事情が、「信州は教会形成のできない所である」という言説を生む要因ともなったのだと考えられます。しかし驚くべきかな、この手塚の感化を受けて洗礼に導かれた者は数百人とも言われ、さらに彼の下で学校教員を中心に集まってできた聖書研究会は、やがて神の計り知れぬ摂理により、教会誕生の母胎となってゆくのでした。そして今年、松本東教会は100周年を迎えました。

3 聖書が明らかにする偽善

手塚を創設者とする私たちの教会の歴史に刻まれた一つの特徴は、人格的な交わりによる人間形成であると言えます。それは先の言葉を借りるなら、「真実の人間として」いかに生きるか? という点に眼目が置かれるものです。そしてこの基底には、神の御前にあって「贖罪(しょくざい)信仰」が絶えず息づいていると思うのです。このありようについて、しばらく聖書の光に照らして見てみたいと思います。

偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。〔偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。〕偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。

盲目な案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、『神殿をさして誓うなら、そのままでよいが、神殿の黄金をさして誓うなら、果す責任がある』と。愚かな盲目な人たちよ。黄金と、黄金を神聖にする神殿と、どちらが大事なのか。(マタイ23:13~17、口語訳)

目を引くのは、「わざわいである」という言葉が繰り返し強調されていることです。ここに引用した箇所は一部ですが、この後にも続きます。実は、ここを含むマタイによる福音書23~25章には、主イエスが地上の生涯で語られた最後の教え(説教)が記されています。すると興味深いことに、これと対をなすように浮かび上がってくるのが、主が宣教の歩みを開始された頃に弟子や群衆たちに向かって語られた、いわゆる「山上の説教」(5~7章)です。言うまでもなく、その最初の場面で幾度も出て来るのが「さいわいである」という言葉です。かつてあの辺境のガリラヤ湖畔の丘に座した主イエスが、そこに集まる者たちに何度も「さいわい」と語って祝福を告げられた。ところが今や、その主がガリラヤを発って都エルサレムに入り、十字架を目前にして最後の言葉・説教を残して行かれる時、そこで「わざわい」という裁きと呪いを連呼しなければならなかった。この対照は実に印象的で、深く問いかけられる思いがします。

 しかしこの厳しさは、他を顧みる暇がない程、私たち自身の姿をも切実に顧みさせるものではないでしょうか。いったいなぜ、主はここで何度も「わざわいである」と語り出さねばならなかったのか。この痛烈な宣告を招いたのは、律法学者やパリサイ派の人々のどんな姿であり、私たちの何であるのか。 

ここで注目したいのは、「わざわい」と並んで、「偽善」と「盲目」という言葉が多用されていることです。盲目とは、ここでは心の目が見えないという意味でしょう。そしてまさに、物事の真実が見えていないところで、私たちは偽善に陥るのです。ある学者が、ここに出て来る偽善とは「客観的な偽善」のことだと言いました。客観的ということは、その反対に主観的なものがあるということです。そして主観的な偽善とは、主体である自分の目で見て分かる偽善ということになるでしょう。これに対して客観的な偽善は、自分の傍にいる誰かによって明らかにされる偽善を意味します。ところがその学者の洞察はこれに留まらない。誰が見ても、という視点よりもっと大きな眼差しがある。他の追随を許さない絶対的他者、すなわち神の御目からご覧になった時に初めて露わにされる偽善というものがある、ということなのです。この、神の目だけが明らかにし得る偽善という罪から、誰が逃れられるというのでしょう。しかし私たちは、そもそもこれに気づいていないのです。盲目のままさ迷い、偽りの道を長く歩んでしまっています。

わざわいだ! 「さいわい」から一転したこの激しい言葉は、主イエスの宣教の旅の最後に当たるという意味で、私たちは一種の悲しい伝道報告を聞かされているような気にもなります。主イエスもまた、伝道の厳しさを共に痛感されているのです。ほとんど地団太を踏むように、深く嘆き悲しんでおられたのではないでしょうか。律法学者やパリサイ派たちがしていることは、神殿に良く仕えているようで、しかし神殿の栄光にこだわる余り、目に見える栄光としての黄金や供え物に心を奪われているだけではないか。神殿を神殿たらしめるものは何か。自らの信仰生活を成り立たせる真実は何であるのか。自分たちの業によるのか。

この問いの前に、私たちは深い思いで立ち止まらざるを得ません。しかしこのような〈盲目の偽善・罪〉から、私たちはどのように救われるのでしょうか。己の不信仰しか見えず、自分は神を信じることができなくなったのではないかという疑いや不安に苛まれる時、そのどん底で、神は自らをどのように顕すのでしょうか。

4 ある一人の生きざまから

この罪からの救いの物語(贖罪の信仰)を、私は理論の上ではなく、牧会の働きの中で幾度も見させて頂く幸いを与えられて来ました。今日の私の話は、ささやかな伝道報告になることを冒頭で申し上げました。ただし、これからご紹介する一人のT姉妹の証しは、主イエスの悲しい伝道報告を上回るものではありません。むしろ、禍わざわいとしか言いようがない人間の生の姿と破れの現実のただ中で、それでもなお、生ける主がそこに真の幸いを造り出してくださったことの証しに他ならないからです。

教会創立100年を祝った9月15日。その同じ日に、会員最高齢の100歳のTさんが天に召されました。私が知る彼女の姿は、最晩年の時でしかありません。忘れられないのは、訪問を重ねる中で、ある時から私が誰であるかも認識できなくなってしまわれたのではないかと感じられる寂しさを募らせる傍らで、彼女がいつも決まって、「イエス様がいるから大丈夫、イエス様がいるから大丈夫」と口癖のように連呼していた姿です。時に力強く。時に涙ぐみながら。力が失われ、確かなものがどんどん揺らいでゆく不安と恐れの中で、イエス様だけは確かだ! このイエス様がいるから大丈夫! と思える人生は何と幸いなことかと心動かされたものです。しかしその理解が不十分であったことを、私は後になって思い知らされることになりました。約半世紀も前、Tさんの全生涯の半ばを過ぎた頃、彼女は最愛の夫を53歳の若さで突如喪いました。そこから始まる長いトンネル。その暗がりをどのように歩んで来たかについて彼女はある時の教会報で次のように綴りました。

主人が私の名前を呼んで「胸が苦しい」という言葉を最後に、二十分間で息をひきとってから、私は真暗な穴に落ちてしまった思いで目の前しか見えませんでした。そして主人のお骨の前で、私が健康管理を怠った結果として死においやってしまったことを悔やみ、詫びても、申し訳なくて、苦しくて、いたたまれない思いで、赤ん坊の様に、おいおい泣くばかりの日々だったのです。……そして罪を意識した私はお許しを乞うしかない身であること。こんな罪深い私をお許し下さるのはイエス様しかおられないこと……など次第に教えられた様に思います。

とやかくしております間に……死と向かい合った表面的な苦しみは薄らぎましたが、一人になると心の片隅に罪の問題、基督教への疑問は厳然と坐をしめて笑うことの出来ない日常生活でした。何か事があると心を騒がせ固執してしまう自分が嫌で嫌でたまりませんでした。そんな自分を忘れる為に、老人ホームへ奉仕に出掛けたり、お花やお茶の趣味に、カルチャー教室に通いましたが凡て中途半端に終りました。

そんな頃に……説教で真の神様を知らされ、私の悩みや淋しさ等は人として当然のことであり、自分一人が悲劇の主人公の様に思いこんで何もせず、自分の殻にとじこもるべきではない。神様の子供にして頂いた恵みに私がどうお応えするべきかで悩むことが与えられていることを知らされて、恥ずかしくなりました(松本東教会報「おとずれ」149号、一九九三年)。

はたして、喪失の真っただ中で、Tさんが自らを恥じることになる程、「真の神様を知らされ」てようやく知るに至った「罪の問題」とは、何だったのでしょうか。あるいは、キリストに赦して頂かなければならない「こんな罪深い私」とは、どんな姿のことだったのでしょう。彼女は告白します。「主人のお骨の前で、私が健康管理を怠った結果として死においやってしまったことを悔やみ……おいおい泣くばかりの日々だった」と。深い悲しみと慟哭の淵で、さらに自責の念を募らせずにはおられなかった苦悩はどれ程のものだったでしょう。

けれども、聖書が見つめる人間の罪とは、そうした自覚可能な罪責に留まるものでしょうか。私は、Tさんがキリストから知らされた罪の深刻さ(それ故、その罪の赦しの喜び)は、それとは比にならない程大きなものだったと思います。むしろ、自分のせいで不幸が起きたのではないかと思い込み、それに凝り固まっていた態度の内にこそ、〝罪〟が深く根を下ろしていたことに気づかされていったのではないでしょうか。「悲劇の主人公」の座に安住しようとした己の偽善。神なお愛されているのに、己に託された使命を見失っていた盲目。そんな、何をしても八方塞がりだった暗黒に、解放の光が差し込んだのです。

あまりに早すぎた夫の死の責任、一人で負えるはずもないその重荷をTさんは何とか負おうとしたのでしょう。それは痛ましい程の愛の姿です。しかしその愛は、いつしか独りぼっちの闇に陥り、独りよがりにもがき苦しむ姿でもなかったでしょうか。聖書が明るみに出す罪とは、「的外れ」を意味します。神の愛の的から外れるが故に、そこで空しく孤立し、枯渇する姿です。神が絶えず吹き込まれる命の息を、吸うことも吐くこともできないまま、愛の呼吸困難に陥ってしまう。これが罪のもたらす現実です。しかし迫り来る神の真実の愛が、ついにTさんを捕えたのです。己の罪の重さと共に知る、主の計り知れない愛です。

「イエスさまがいるから大丈夫」。何度も耳にして来たあの言葉は、単なる常套文句ではなかったと確信します。人生の危機において魂の奥底に刻印された主イエスを、時を経てもなお呼び求め、讃え、そこで我が真の救い主と告白し続けた、一筋の信仰に貫かれた姿であって他の何でありましょうか。

5「ウーアイ」、そして「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」

こうして、一方ではTさんも、危機的な苦悩に向き合うまさにそこで、「客観的な偽善」からは免れることができなかったと言えます。しかし幸いなるかな、「わざわい」の深淵に突き落とされる生涯を送ることなく、文字通り「さいわい」なる道へと救い出され、最期まで祝福の道を歩まれたのでした。

「わざわいである」。原文では「ウーアイ」と記すこの言葉は、その発音からも想像できるように、実は唸っている声の響きをそのまま映した言葉であり、呻き声です。するとこの言葉の意味は、単なる裁きとは少し違った意味を持つようにもなります。自らが受けている悲痛な苦しみをそのまま言い表す言葉なのであり、そこで禍を告げるということは、ただ失望や怒りに任せて相手を呪うのとは事情が異なります。主イエスはここで呪ってはいないのです。怒りはあったでしょう。しかしそれ以上に悲しみが伴う。あるいは悲しみがその怒りを包み込む。そして、私たちが気づき得ぬ先から、私たちの偽善や盲目の愚かさについて誰よりも心痛め、さらには、それをご自身が引き受けるべき痛みとさえしながら、ただそこで「ウーアイ」と、呻きの声を挙げておられるのです。

ならば、あの山上の説教で語られた「さいわいである」という言葉から、今ここにおける「わざわいである」との言葉に至る主イエスの歩みは、まさに私たちの負うべき痛みと苦しみの中へ、ますます深く入り込んでゆく歩みに他ならなかったのではないでしょうか。主なる神が、私たちの不信仰の中に身を低く屈めながら、私たちの偽善と盲目を根底から造り変えてしまわれる。私たちよりもっと深く、「ウーアイ」と張り裂けんばかりの唸り声を発しながら、主イエスはここから十字架へと向かう覚悟を新たにされる。

私たちが負いきれるはずもない、罪の代価としてのあらゆる苦しみをご自身の身に引き受けようとされる、この〝共苦〟という名の主の愛は、やがて十字架上で轟とどろいたあの決定的な叫び声において、その極みを見るのです。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(我が神、我が神、何ぞ我を見捨てたもうや)。注)本稿は、講演当日には時間の都合で語りきれなかった例話を挿入して再構成したものです。

(日本基督教団 松本東教会牧師)