【戦前版『共助』第六回】書齋の森明先生 浅野 順一
【戦前版『共助』第六回】書齋の森明先生 浅野 順一
書齋の森明先生と云っても、私は先生と起居を共にし先生がその愛する書齋で如何に勉強せられしかを親しく目撃せし者でもなゐから、そのことを述べるのではなく、書齋をめぐる先生の追憶、云ひかえれば讀書家としての先生を斷片的に書き綴る迄である。無論私の敍述には主観的な要素があり、事實にそぐはなゐものが多ゐであろうが、寛恕を今は亡き先生にも、また讀者にも乞ふておかねばならぬ。
角筈の御宅に於て先生の書齋はたしか二階の六疊の部屋であり、西向の爲め夏は相當暑苦しかった。その故か先生はよく同じ二階の十疊の客室で讀書せられて居ったやうである。初對面の人は仲々此の書齋に招ぜられなかったと思ふ。私の如きも先生との交りが大分親しくせられてから始めて此處に通された。その時の子供らしゐ得意と滿足とを今でも微かに憶えてゐる。先生の清く深く大きな友情は未見の友をも固く抱擁する不思議な力を持ってゐたが、同時に先生は何もかも最初から曝さらけ出すような無ぶ 樣ざまな交友の態度を決してとられなかった。先生との交際淺者は、先ず下の應接室か二階の客室で書齋より出て來られる先生を暫く待たなければならなゐ程に愼み深ゐ方であった。先生の藏書は殆んど英書であった。晩年に獨逸哲學の研究書など取寄せられたが、獨逸書は極く少く數へる程しかなかった。書齋の壁には之等の書物がぎっしり書棚につめられてゐた。當時中學生であった私は先生の書齋に無限の羨望を感じたものである。机上の壁にはゲツセマネの園に於けるキリストの像がかけられ、机の兩側の書架にはケーベルとベルグソンとの肖像が飾られてゐた。先生はケーベルの人格や學風にゐたく私淑せられてゐたやうである。此のギリシヤ的教養の豐な基督者の老哲學者は先生のうちのある深ゐものと一味相通じてゐたやうに思ふ。睿えい智ち そのものの如きベルグソンの肖像も先生の讀書の一面を無言の内に語ってをり、先生の書かれたものを見ても解る通り、先生は決して窮屈な神學研究家ではなかった。何處迄も純粹に福音的なる信仰を把持しつつ、而もまた異教文化に對しても常に深ゐ理解を開拓すべく努力せられた。何故もっと基督教的聖徒の肖像を掲げられなゐのであるか不思議に感じたこともあるが、キリストと共にケーベルやベルグソンが先生の書齋の空氣をつくってゐる處に先生本來の面目が躍如として現はれてゐる。ベルグソンと共に先生が推賞してやまなかったオイケンの寫眞が飾られてゐなかったのは何故であるか、深ゐ理由は解らなゐが此の邊にも先生の心胸の一端が窺へるやうに思ふ。
先生の讀書は驚くべく多方面であった。此のことは先生の恩師故植村正久先生の感化にも負ふ處ところ大であらうが、先生本來の傾向が然らしめたのであるとも考へることが出來る。自然科學特に生物學・哲學・文學・神學・政治・法律・經濟・社會問題等文化の各方面に亘ってゐた。先生程キリストに對して純粹なる愛と確固たる節操とをささげし傳道者は稀れであるが、先生の勉學は決して神學固有の領域にかぎられず、文化萬般に對し廣ゐ興味を感ぜられ、而も先生は驚くほど速かに問題の中心を看破せられた。其それゆえ故先生の眼界は廣くあったがその理解は決して淺薄に流れることはなかった。先生の直覺力の鋭さは問題の要點を適確に握り、能よ くその判斷をあやまらなかった。此の點に於て先生は殆んど天才的であったと云っても決して過言ではなゐ。先生の勉強振りは決して所いわゆる謂學究的にこつこつと積み上げる風ではなかったやうに思ふ。先生を訪問する者は必ず好學の精神を刺戟せられて歸るを常とした。不勉強我々は全く先生の前に頭が上らずに恐縮したものである。今にして思へば多忙な牧會、病弱な肉體の先生にして此の努力は決して並々ではなかったことが深く感ぜられ、自分の怠慢を恥ぢずには居れなゐ。病弱故に先生が少年の頃から獨學せられたことはあまりにも有名であるが、文化人としての教養に於て何なんぴと人にもひけをとらず、此の點に於て後輩をあやまたしめざりしのみか、正しく我々を誘導し得たのは實に先生の信仰と天禀と努力との賜物であった。先生が少年時代英語を修得すべく病にて數册の辭書を引きくずした話は、先生自身の口から一回ならず承ったところである。獨學の先生は教育に對して特殊な興味と憧憬を持って居られた。「諸君は高等教育を受けて居られて羨ましい」とは先生の唇に屢しばしば々のせられた言であり、その度毎にそう云はれる我々の方はあまり學校教育の恩惠を感じなかったのであるが、先生は心から我々の持てる貧弱な學問上の財産に對し敬意を拂はれたやうである。獨學者の持つ共通な瘠やせ我が 慢まんや、ひがみの如きものは先生には露ほどもなかった。我々如き何も解らぬ學生に對してさへ、その方面を學ぶためには如何なる書物を讀むべきか、謙遜に教を請はれた。先生は必ずしも莫大な藏書家ではなかったが愛書家であった。新しい書物を購入せられし時などは心から嬉しさうにそれを何處へでも持ち運んで讀んで居られた。講壇の上にさへ先生は屡々新刊書を携へて上った程である。一面先生には老成の風があると共に實に無邪氣な他の半面をもありの儘ままに我々の前に示めされた。また先生は自身各方面の書物を蒐集せらるるのみならず、良書を購ふことを後進にもよくすすめられたものである。
夏休の前など先生は講壇から夏休中に讀むべき書物を約二十種もプリントにして紹介せられたりした。先生の説教は決して平易ではなく、先生の信仰と人格とを慕うて來會せし中年以上の人々は屢しばしば々困られたやうである。先生の説教は一面非常に詩的な情操に富むと共に、他面極めて論理的なるところがあった。併し兩者は不思議にも先生の人格の内に調和され不自然な感じ
を少しも聽く人に與へなかったのである。先生の人格の奧にか
くされた二つのものが、その説教の中にも能く現われてゐたやうに思ふ。先生はあくまでもその説教を通して我々にキリストの人格に對して聖き愛と忠節とを抱くことを促されたが、同時に盲信的な信仰を喜ばれなかったし、先生は獨斷的なことは嫌ひであった。人の理性をも感情をも意志をも、換言すれば全人格を生かしむる意味に於て健全なる信仰を提唱せられた。贖罪の眞理は最も深きところに於て科學の眞理とも哲學上の眞理とも矛盾しなゐものである、とは先生の動かし難ゐ確信であったやうである。幾多の困難をも承知しつゝ聖書の奇蹟、例へば處女降誕の如きを科學的に説明しようとせられたのはその一例である。先生の遺著「宗教に關する科學と哲學」は學問的に見て尚ほ不備な點が多からうとも、序文にも記されてあるやうに、先生の眞劍な研學の産物である。
先生は時代の思潮に敏感であり、時代の先を先をと前進せられた。當時は生命哲學の全盛時代から移って理想主義哲學の勃興期に入ってゐた。先生の口からは屢々ウィリアム・ジェームス、オイケン、ベルグソン、ロイス後にはウィンデルバント、リッカート、コーヘン等の名前が講壇からも個人的の對談中にも擧げられた。社會思想の方面はその頃は搖籃期であって、サンジカリズムも共主義も社會民主主義もその區別が一般には未だ判然としてゐなかった程幼稚であった。先生は生物學や心理學の研究から生命哲學に入り、更に新カント派の哲學へと移って行かれたが、併し此處に安住して居られた譯ではなかった。斯く先生に於ける研學の順礼は、所いわゆる謂思想の流行を追ふ意味では毛頭なく、如何にせば現代人の意識の内に基督教の眞理を鮮明にし、確實に植付け得らるるかが先生の関心と努力の中心であった。眞理として研究することを常に主張せられつつ、而も先生の勉強の動機は深ゐ意味で伝道的であったと思ふ。そして先生に於て眞理探究と福音宣伝とは矛盾せざる共立観念であった。何となれば先生の心の中にはキリストの受肉と贖罪とは眞理中の眞理なりとの確信が嚴然として存在してゐたからである。
マルキシズムに對しても先生は早くから着目して居られた。私事に亘るが先生は我々如き無學の書生に此の問題につき研究し教會に於て談かたることを命ぜられた。私は研究發表の代りに、スパルゴーの「マルクス的社會主義と宗教」を紹介せしところ先生は非常に喜ばれ、或る雜誌に掲載せよと云って薦めて下さつた位である。また先生は原始基督教會の信仰と愛による共産體にも深ゐ興味を感じて居られたやうである。如かくのごとく斯、先生は正統的なる基督教の眞理に固く足をふんばりつゝ、而も進歩してやまざる自由な思想家であった。先生自身が之を研究するのみならず、後輩をして研究せしめ、その不完全、不徹底極まる結論をも謙遜に熱心に傾聽せらるる眞劍さと雅量とを持って居られた。
先生は宗教のみならず文化のあらゆる方面に於ゐて諸家の説に學ばれたのであるが、併し先生は決して單純なる祖述家ではなかった。先生の本領は寧ろ獨創的なる思索家たる點にあったと思う。先生に對する植村正久先生の感化は最も著しゐのであるが、此の傑出せる弟子は彼の師のもてる最も貴きものを最も良く生かすことによって師を恥かしめなかった。先生に於て生物學・心理學・哲學・社會思想の研究は決して無目的無秩序な知識の蓄積ではなく、文化の利器を用ひて基督教の中心眞理を證明せんとする不斷の努力であった。斯かかる考え方が今日の神學的傾向から見て妥當ならざる方法であるか否かは暫らくおくとして、當時の日本の基督教會に於ては獨自なる地位を占める思想的系統であったと思ふ。此のことは『森明選集』中の「基督の人格及位置」と「文化の常識より見たる基督教の眞理性」とを比較して讀まるるならば一目瞭然である。その構想に於て兩者は殆んど同一であるが、先生が傳道を開始せられて間もなく筆をとられし「基督論」とその絶筆たる「基督教の眞理性」との間にはその内容と文體とに於て非常なる進歩と發展のあることを容易に看得することが出來る。十年間の先生の傳道と研學とは、思想の骨格をしてますます逞ましうせしめ、その血肉をしてゐよゐよ豐かならしめた。如斯先生の眼底に映ずる領域は廣くその關心は多方面であったにかかわらず、その歸着するところは一つでった。先生の思想に獨自性あるは、文化のあらゆる諸問題が結局キリストとその十字架の眞理に歸一せしめられてゐた點に存する。而も先生に於てその連關は論理的には飛躍があるにせよ、受くる感じとして少しの無理もなく不自然もなく、その説教を聽く者、その文章を讀む者をして成程と首肯せしめずにはおかぬ程に人格的深さと豐かさとによって潤うるおいあるものとせられて居た。
歐洲大戰後世界の變動は激しゐ。その千波萬波を敏感に感ずる日本の思想界は先生逝去後特に變轉極りなき昨今の有樣である。先生今生きて在まさば、と思ふ者はあながち私のみではあるまゐ。先生の信仰は醇化してやまずその思想は進歩してやまぬものがあった。今日の危機神學と之に深ゐ關係を持つ存在論的哲學とに對して先生は如何なる態度をとられたであろうか。現今の社會不安、共産主義やファッシズムに對しては如何、特に滿洲問題をめぐる國際聯盟の論爭に對して先生の見解はどうであらうか、之等は我々が切に先生から聽きたゐと思ふところである。特に問題益々輻湊し危機益々切迫してゐよゐよ沈滯し無氣力になりつつある基督教界に對し、天にある先生は如何ばかり悲痛な感慨を持ちてキリストの前に立ち、深き悲しみと責任を感じて居られることであろう。ウィルソンの政治的理想主義を支持して國際聯盟の將來に大なる希望を囑せられし先生、北米合衆國の日本移民拒絶の法案の通過せる當時愛國的熱情よ
り病床に奮起せんとせられし先生を憶ふにつけても、國の爲にも我等のためにもあまりにも早く逝かれし先生の死を殘念に思はざるを得なゐ。「文化の常識より見たる基督教」が未完成のまま殘されたやうに、先生自身もまた小さく完成せる人物ではなかった。三十八歳にして完成すべく先生の天資はあまりに豐であり、その志望はあまりに大であった。我々も亦完成せられた人格として先生を見るべきではなゐと思ふ。先生に於ける中心的なもの、先生が死を以って守りおおせたるキリストと十字架の眞理のみが搖ぎなき先生の確信であった。他のものは時代の進展と共に先生自身の人格も思想も亦深化し發展して行ったことと思ふ。森先生の選集が出版せられたのは過去の先生を知る上に最も正確なる材料を我々に提供して呉れる意味に於て慶よろこばしゐことであった。先生のもてる永遠的なるものは古ゐ裝よそおいの内にもられて居ったかも知れなゐ、併し我々はその内に裝はされたる先生自身のものを確実に把握し、先生若し今日在せば如何に生き、如何に思ひ、如何に決せられたであろうかを追求して行けばよゐのである。裝は古ゐがその内の先生は今日も尚新しく我々に活きて働きかけてゐる。貴ゐのはその裝ではなく、不斷に進歩してやまなゐ先生その人ではあるまゐか。同時に我々は先生に未完成のままに遺し逝かれし部分を各々分擔して育てて行かねばならぬ責任がある。或は傳道に、或は研究に、或は實社會の活動に、先生の弟子たるものはその立場々々に於て重大なる責任が與へられてゐるのである。
先生はその書齋を愛し此處にアット・ホームを感ぜられたであろうか、先生は決して蠧書堆裡の學者ではなかった。先生はキリストの最も忠信になる傳道者なりしが故に、その書齋をぬけ出でて、或は教會の講壇に、或は學校の教壇に立たれた。畢竟キリストを離れて先生には研究し主張すべき眞理はなかったのである。夫故書齋に於ける先生も教會に於ける先生も一つであった。先生は所謂學究ではなかったが、あくことなき眞理探究者であった。然りキリストを愛するが故に眞理をも愛せられた。何となれば眞理はキリストに於て人となったからである。
先生逝去の年の夏藏書を整理せる時、未だ包をも解かざる數册の獨逸書が書架にのせられてあったのを發見した。瀕死の病床にも尚好學の精神を失はず、新刊の洋書をつぎつぎに註文せられし先生の心中を思ふて暗然たると共に、また無言の激勵を受けたのである。先生の進んでやまざる勇猛心に鞭撻せられて、我等も亦傳道に研究に精進して行きたゐと思ふ。
『聖書と民族』(昭和十二年十月二十八日発行、長崎書店)にある
第三部「書斎の森 明先生」を使用。
(一九三三〔昭和八〕年二月記)
浅野順一先生略歴 [作成者:牧野信次]
1899年(明治32)12月12日 福岡県大牟田に、浅野長七・はなの長男として生まれる。母が所属する富士見町教会の教会学校で植村正久牧師に導かれる。
1912年4月 大磯高等小学校を経て、東京府立第一中学校(現・日比谷高校)に入学
1915年12月 中渋谷教会にて森明牧師より受洗
1917年4月 東京高等商業学校(現・一橋大学)に入学
1921年3月 同上卒業 三井物産に就職
1923年9月 関東大震災で父君死去
1924年 京都帝国大学哲学科選科に入学許可。家の事情で1年延期
4月 東京神学社(現・東京神学大学)に入学聴講
4月20日 高倉徳太郎牧師の司式で内垣泰子と結婚
1926年6月 スコットランド・エジンバラ大学ニューカレッジで学ぶため出発A・C・Welchに師事、2年後にベルリン大学に転ず。
1929年4月 シベリア経由で帰国し、東京神学社講師
1931年 青山北町で教会学校により伝道開始、美竹教会の発足
10月 『豫言者の研究』(長崎書店)出版
1936年2月 『旧約聖書』(大思想文庫、岩波書店)出版
1944年10月7日 応召
1945年5月23日 美竹教会(宇田川町)同25日浅野宅戦災消失
1946年9月 日本聖書神学校教授に就任
1947年4月 日本神学専門学校講師に就任
1949年4月 青山学院大学文学部キリスト教学科教授に1968年3月まで就任
1955年9月 『イスラエル豫言者の神学』(創文社)出版
12月 京都大学より文学博士号を授与さる
1956年1月 泉会(身障者授産施設)創立 初代理事長
1960年 日米安保条約反対運動に参加
1961年12月 美竹教会主任牧師を辞任、砧教会の牧師となる
1962年2月 『ヨブ記の研究』(創文社)出版
1965年頃から 積極的にベトナム戦争に反対
1970年3月 新泉教会の発足と共に兼任
1973年3月 青山学院大学神学科募集停止
1977年3月 同神学科廃科
12月 『モーセ』(岩波新書)出版
1979年9月 『旧約聖書を語る』(NHK出版)出版
1981年6月10日 召天 享年81歳
以上のほか『浅野順1著作集』(11巻、創文社)が刊行され、美竹教会から、砧教会、牛久教会、桜本教会、100人町教会、新泉教会、鶴川北教会が分かれて独立しています。その他先生は日本旧約学会会長、日本基督教学会理事、日本宗平協副会長など多年勤められました。