心に残るメッセージ

平和聖日に瀧浦 緑さんに手を 握り締められる 田辺 明子

昨年8月23日に私は瀧浦 緑さんの訃報をその親類筋から受け取った。8月22日に召天(享年100歳)、23日に日本基督教団大阪教会において告別式ということであった。緑さんに関する大切な思い出として、ある年の平和聖日に彼女が私の手をしっかり握り締めて離さなかった事を書き留めたい。

一.北白川教会の日曜礼拝に私が出席していた時期(1971年~2016年)に、いつ頃からか、そして何故かは憶えていないのであるが、私は講壇から見るならば左側(南側)、そして前から3列目の座席で礼拝を守るようになっていた。それはたまたま瀧浦 緑さんの真後ろであった。さて、2010年前後のこととして思い出されるのであるが、ある年の平和聖日(太平洋戦争終戦日の1945年8月15日を記念する日曜日)の礼拝で私は献金感謝祈祷に指名された。周知のとおり日本軍が真珠湾を攻撃して米国・英国に宣戦したのは1941年12月8日であるが、私はその年の1月に生まれているので戦争の悲惨さと戦後の生活の辛苦を子供なりに経験している。

私事にわたり恐縮であるが、私の父は約4年間陸軍工兵将校(職業軍人でなく一般人)として出征し、終戦をシンガポールで迎え、11月以降レンパン島で虜囚生活を送った。日本に手紙を送るなどは不可能事であったので、家族は父の生死を確かめるすべもなく時が過ぎていった。やっと1946年5月に帰国した父は、神戸市から岐阜県山村の親類のもとに疎開していた家族(母と子供四人)を尋ねあてて再会を遂げた。そういう苦労はもとより、親類縁者のさまざまな艱難を思い出すと辛かった。前述の平和聖日にどういう文言で祈ったのかはもはや憶えていないのであるが、何かそういう辛さを痛感しながら祈ったことを記憶している。やっと祈祷を終える段になって、「私の祈りは狭いものかもしれませんが」と言い添えた。というのは北白川教会に出席するようになって以来私は、日本人が太平洋戦争の被害者として自らを意識するだけでは不十分で、近隣諸国に対して加害者である事実をも自覚しなければならないことを教え込まれていたからである。けれども当日の祈祷では自らの辛さを言葉にするだけで私のエネルギーが尽きてしまいそれ以上は続かなかったので、申し訳ない気持ちが起こってきて前述の言葉を添えたのであった。もっとも私は祈りながら、思いがけず礼拝堂のところどころから低い忍び泣きのような声が聞こえてくるのを耳にして内心驚いた。

さて、礼拝終了後に私が廊下の壁に貼ってある写真などを見ていると、思いがけず瀧浦 緑さんが近づいて来られ、私の手を取ってじっと握り締められた。もうその頃になると彼女が他人と言葉を交わすことなどまずなかった。そのうちに私は、彼女は中国に出征し戦病死されたご主人のことを偲んでおられるのだと直感した。当時彼女は岩倉に住んでおられ、同じ岩倉から教会に通っておられた会員の車で送り迎えがなされていた。

そのうちにその方が緑さんに近寄って来られ帰宅を促された段になって、やっと彼女は私の手を離された。

二.かつて緑さんは2003年秋の北白川教会親睦修養会においてお話をされ、その後それを小冊子『守られ導かれて八十五年』(2004年7月発行)にまとめられている。拙文は基本的にはこれに依拠して書かれており、引用文は括弧で括られている。もっとも拙文の冒頭で触れた親類筋からいただいた資料を援用して補足している箇所もある。話を遡らせると、緑さんは1919年4月27 日に緑の美しい京都市に誕生、「緑」と名づけられた。生家は呉服屋で「年齢の大分離れた兄が3人、続いて姉が2人おり、6番目の末っ子として皆に可愛がられ、何かと世話になった」。彼女は1933年春に平安女学院高等女学校に入学し、3年後の復活祭に受洗している。1938年に女学校の課程を終えて保育の専攻部に上がったのであるが、平安の級友だった瀧浦まりさんの紹介により、その両親である瀧浦文弥・サメ夫妻の経営する下鴨の恵美幼稚園にピアノを主とした助手として勤めることになった。

三.瀧浦文弥氏は1883年に仙台市に生まれ、旧制第二高等学校理科に進学したが、盛岡師範女子部に在学していた姉の恩師で後に夫ともなる村井勇太郎先生(国語担当)に導かれて受洗、伝道と教育に献身することを生涯の目的として京都帝国大学文学部哲学科宗教学専攻へ進路を変えた(第一期生として1909年に卒業)。

上野サメ氏は文弥氏と同年に岩手県雫石村に生まれ、盛岡女学校、岩手師範女子部を卒業。同じく村井先生に導かれて、1904年に盛岡の下ノ橋教会で受洗。同年師範を卒業、岩手県下で初めての女教師として4月に渋谷小学校に赴任し、1906年10月に盛岡市に近い本宮小学校に転任。ちなみに渋谷村は石川啄木(1886~1912)がいつも自分の「故郷」と呼んでいた村である。啄木は1906年4月に渋谷小学校代用教員として任命された。彼が上野サメさんについて詠んだとされる和歌4首が『一握の砂』(1910年刊行)に収められているのであるが、そのうちの2首を緑さんは前述の小冊子に引用している。わがために なやめる魂をしずめよと 讃美歌うたふ人ありしかなわが村に 初めてイエス・クリストの道を説きたる 若き女かな

さて、前述の村井先生ご夫妻の仲介により1910年に瀧浦文弥氏と上野サメさんとは結婚した。文弥氏は大学卒業後、京都府立二中、和歌山耐久中学校教頭などの教歴を重ね、さらに東京YMCA主事、京都YMCA総主事などを経て、1922年から1926年まで第三高等学校教授兼生徒監を勤めた。ところが彼は「青少年にキリスト教信仰を直接伝えたいという思いから三高教授を辞し、夫人と共に」「童信寮」(「地方から京都へ進学している中学・高校生と寝食を共にして信仰を育む家庭塾」)を経営し始め、次いで「1927年、三男恵三君が三歳で疫痢のため」急逝したのを機に幼児への伝道を志し、1930年に恵美幼稚園を開設した。

四.さて、緑さんが恵美幼稚園に就任して4年目を迎えた1941年に「瀧浦家の長男・和男の嫁に」という話が出て、「京都人の私と東北人の瀧浦家とではいろいろ違うところも多かったが、同じ信仰の道を歩む者として大切なところでは一致することを信じて瀧浦家の人間になることを決心し」、同年に結婚した。同年12月に太平洋戦争開戦。翌1942年に文弥園長が召天し、サメ未亡人が園長を継いだのであるが、8月に和男氏に召集令状が来た。
10月に長男純弥誕生。
12月に和男氏が中国中部に向かって出征。話を一足跳びに跳ばすと1945年4月の緑さんの誕生日に、何と戦地から弔慰金が届いた(同年8月に日本が降伏して終戦となり、和男氏の遺骨が帰ってきた。実は1944年10月10日に戦病死していたことが後日に分かった)。悲嘆に暮れ意気消沈しながらも、サメ園長は緑さんを一人前の園長に育て上げるべく奮闘した。「もし、帰ってくるならばいつでも待っているから」という実家の両親からの伝言に緑さんは心から感謝したが、それを伏せて「義母を残し、幼稚園の責任を置いて帰ることはできないし、帰るべきではない、ここに留まるべきだと決心した。この場所は自分も選んだが、神様が置いてくださった場所であるのだから―」。

若くして太平洋戦争に正面衝突せざるを得なかった世代の女性として、緑さんはたいへんな非運と苦難とを負わされながら、一種の自由を以ってご自分の進路―瀧浦家の人間として留まりそして同時に恵美幼稚園の後継者を継ぐ―を選択されたことが、この文言からも洞察される。そしてこの自由はパウロの手紙(たとえばガラテヤ5章1~15節)をはじめとして新約聖書の各書に語られているキリスト者の自由に関わっているように思われる。

緑さんはこの自由の基礎を平安女学院高等女学校に於いて培われたのであろうが、この自由は何よりも義父母であるとともに恵美幼稚園創設者であり、一、二代目園長でもあった瀧浦文弥・サメ夫妻から受け継がれたように思われる。

さて、戦後の1950年、サメ園長が高齢(67歳)になったため緑さんが三代目の園長を継ぐことになり、そして「この年、鴨脚さん母子のご紹介で、義母、純弥と共に、〝北白川教会〟に転入し、奥田成孝先生のご指導をいただくことになった。奥田先生が府立第一女学校で倫理を教えておられた頃、義母の長女テル子(大阪教会元牧師市川恭二夫人)が教えていただいたというご縁もあった」。文中の「鴨脚さん母子」はもちろん鴨脚富士・狩野(現姓)義子さんであり、後者は恵美幼稚園第1回卒園生である。さて、時代の変化と共に社会の「少子高齢化」が進行し、1997年3月に第66回卒園生を最後に2千人に近い卒園生を送り出した恵美幼稚園が閉じられた。緑さんは47年間に及ぶ園長の任を辞された。(西宮市内の教団の教会に出席)