寄稿 青年の夕べ

境界を越えて 植松真琴

今回の感話の内容は頭の中にあるのに、ちっともタイトルは出てきませんでした。飯島先生にタイトルを送らなくてはいけない、決まっている内容の方が締め切りは先なのに。そんな割と切羽づまった状況で出てきたのは、この言葉でした。今から2か月ほど前の8月に公演した、自分が所属する大学の演劇研究部、新人公演の作品タイトル。名前を付けたのは自分で、脚本を執筆し演出を行ったのも自分でした。

これしか思いつかない。それってどうなんだ。そんな考えもあったけれど。

なんだか思いついたその瞬間腑に落ちてしまい、なぜだか納得してしまいました。そんなわけでこの言葉から私の話を始めます。

世界にはたくさんの境界があると思います。国境などの物理的な境界、人と人の間にある見えない境界など、他にもいろいろあるかもしれないけれど、あえてここでは述べません。「境界」といえば、コロナ禍を生きる私にとっては『ソーシャルディスタンス』という大きな境界が目下の敵だと感じます。そして、私は最近、「境界」を意識するものとして「問う・問われる」ということを考えさせられます。なぜなら、私の環境はたくさん変化し、境界となるものも増えたけれど、今も昔も変わらず「問い」は私の前にあるからです。

「問い」ということを考える時にどうしても私の中に真っ先に出てくるのは先ほど読んだ「神を畏るるは学問の始め」という聖句であり、その基盤である母校、基督教独立学園です。この言葉は私の高校の講堂棟に刻まれている聖句であり、翻訳は普通の聖書とは異なっています。学校に刻まれている意訳をしたのは、創設者の鈴木弼すけよし美先生です。普通の翻訳では「神を畏るるは知恵の始め」となっています。私にとって高校はたくさんのもの4 4 、こと4 4 を問われる場所でした。

さて、その高校を出て、今の私の「学問」の場は明治学院大学という場所に移りました。今の環境も高校とは全く違うあり方ではあるけれど、本当に大切な時間を過ごさせてもらっています。ただし、私の送ってきた、また送っている大学生活は「通常」「普通」と言われてきたものとは大分、違います。

2020年度入学というコロナウイルス感染症流行始めに当たった私の学年は、オンライン授業を余儀なくされてきました。

そして、そんな私の学年、そして私自身に向けられる評価や感想、言葉は結構厳しいです。

「かわいそう」「残念だったね」「大変だ」そんな言葉を何度かけられたことでしょう。見知らぬ人から、知人から、親戚から。

もちろん、これらの言葉が嘘だとは言いません。でも、それだけじゃないんだと言わせてほしいと度々思って来ました。そして、最近、これらの言葉に「同意」するのを私はやめることにしました。

オンライン授業は確かに対面授業のように人と会うことはないから、友だちはできにくいかもしれません。履修や授業課題に苦労するかもしれません。でも、一限への登校のために朝早く起きる必要性はないし、授業の中で分からないところやノートの取り切れないところがあれば、動画を何度も見返すことや止めることが出来ます。オンライン授業なら、どこにいても学ぶことが出来るから、本来通学時間である時間を別のことに使うことも出来ます。事実、私はそのおかげでライター仕事をしていますし、脚本を書く時間もあります。自分の好きなことを学ぶことも出来ています。対面授業にはもちろん期待もあるけれど、どちらがいい、悪いは決められないと思うのです。

私は正直言葉だけならいくらでも私のような大学生に対して、好き勝手言えると思います。こういうと皮肉や嫌味のようですが、そう思われても構わないと思うほど、当事者である私はそう感じることは多いのです。優しいことは良いことだけど、その優しさから生まれた善意は、時に悪意より強力に私の心をえぐっていく。ニュースやデータを根拠にして、それだけを見て同情して優しくすることは簡単です。また、事実そうしている人、こういう言葉を無意識的に言っている人は多いと思います。しかもそれはとても強く大きな「優しさ」の上で。「大学行けてなくてかわいそうだね」「オンライン授業なんて大変でしょう」。そんな言葉をかけてくれる人はひどく優しいです。それに私は「そうだね」と同意して笑って、現状を現状のまま流していれば、優しい『誰か』は喜ぶのかもしれません。でも、テンプレートだけのそんな綺麗ごと、優しさはもう、いらないんです。

私は当事者で今ここに生きています。他の誰でもなく、大勢いる大学生の一人ではない、『植松真琴』という人間で生きています。そして、私の周りにはそんな私を認めてくれていて、一

緒に楽しいことをしてくれる仲間や友人もいます。たくさんの出会いがあって、関わってくれる人もたくさんいます。学ばせてくれる人もいて、直接的なものではないかもしれないけど、自分の人生を豊かにしてくれる存在もちゃんとあります。それも『真実』です。それを握りしめて生きていたいと強く思います。

今、過ごしている世界は確かに『大変』なのかもしれません。確かに苦しいこともあります。残念に思ったことだって、両手両足あっても数え足りません。私のような大学生に向けられる言葉はある意味、正しいです。正しいからこそ、悔しくもなります。でも、そういう同情で作られた言葉で片付けられる感情は、身に染みる程、とっくの前に体験して、理解した後なんです。

今だからこそ思います。それがなんだ。なんだっていうんだって。

そんな世界なのはもう心の底から、骨の髄まで理解したんです。だから、私はその境界を越えることを考えたい。越えたいと強く思うのです。越えるためのあり方を模索して、もっと先の未来に踏み出そうとしていたいし、そのために今自分のいる場所で踏ん張っています。

笑われてしまうかもしれないし、「そんな話こそ理想論だ」「綺麗事だ」と言われてしまうかもしれません。その言葉が全てになんかなるわけない、と言われるかもしれません。それも事実としてあるでしょう。だけど、こんな風に考える、私みたいな人間がいたっていいと思いませんか。今、この時、持っている思いを大切にしたい人がいてもいいはずだと、私は思っています。

そして、有難いことに私はそんな風に自分の好きなように生きるための環境や術もちゃんと与えられていて、持っています。具体的な仕事もあって、その中でもライター仕事は私にたくさんの出会いをくれて、話を聞かせてくれています。問いかけをさせてもらっています。コロナ禍でありながらも様々な活動をされている方の声は私の探しているあり方や生き方をとても動かしてくれています。学びたいことも、問いたいことも、好きなことも、共にいてくれる大切な人たちも、それらを与えてくれた神様に感謝したいものが山ほどあります。だから、少なくても今はこの気持ちや考えを大切にして、与えられた場所の中でたくさんのものを吸収していきたいと思います。

話は少し変わって。

私が高校三年目に一年をかけて校長先生と一対一で学んだ

『後世への最大遺物』から今の自分に通じる言葉、よく𠮟咤激励されている言葉を紹介します。筆者は私の母校である基督教独立学園の創立者の師匠にあたる内村鑑三先生です。彼はこの作品の中でこんなことを言っています。

【引用】

それなら最大遺物とは何であるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことの出来る、そうしてこれは誰にも遺すことの出来るところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。他の遺物は誰にも遺すことの遺物ではないと思います。しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。 

【中略】

たびたびこういうような考えは起こりませぬか。もし私に家族の関係がなかったならば私にも大事業ができたであろう、あるいはもし私に金があって大学を卒業し欧米へ行って知識を磨いてきたならば私にも大事業ができたであろう、もし私に良い友人があったならば大事業ができたであろう、こういう考えは人々に実際起る考えであります。しかれども種々の不幸に打ち勝つことによって大事業というものができる、それが大事業であります。それゆえにわれわれがこの考えをもってみますと、われわれに邪魔のあるのはもっとも愉快なことであります。邪魔があればあるほどわれわれの事業ができる。勇ましい生涯と事業を後世に遺すことができる。とにかく反対があればあるほど面白い。われわれに友だちがない、われわれに金がない、われわれに学問がないというのが面白い。われわれが神の恩恵を享う け、われわれの信仰によってこれらの不足に打ち勝つことができれば、われわれは非常な事業を遺すものである。われわれが熱心をもってこれに勝てば勝つほど、後世への遺物が大きくなる。もし私に金がたくさんあって、地位があって、責任が少くして、それで大事業ができたところが何でもない。たとい事業は小さくても、これらのすべての反対に打ち勝つことによって、それで後世の人が私によって大いに利益を得るにいたるのである。種々の不都合、種々の反対に打ち勝つことが、われわれの大事業

ではないかと思う。それゆえにヤコブのように、われわれの出遭う艱難(かんなん)についてわれわれは感謝すべきではないかと思います。

内村先生は「不都合がない」とは言っていません。「不幸がない」「不足がない」「反対がない」とも言っていません。そのようなものがある世の中であっても、そんな世界をどんなものであるかを信じるのかが大事だといいます。それらのものに「打ち勝つ」ことこそ、大切だといいます。

私は、今こそその時だと思います。

ロナ禍で、苦労、悲しみ、大変さ、自分の生きている時間の不都合、それに対する自分の生き方への反対を味わってきました。今も少しそれらは続いています。でも、そんな私だから、それらに打ち勝つことが出来ます。そんな私だから、世界は本当に面白くなります。そのことに誇りを持ちたいです。誇りを持って、自分の生きてきた時間を、過ごしてきたあり方を、ちゃんと自分の人生として携えていたいと思います、今も、この先も。そして、その人生を願わくば後世に遺したいとも、少しだけ胸の奥底の野望として持っています。

最後に、最初に読んだ聖句に話は戻ります。

「求めよ、さらば与えられん。探せ、さらば見つからん。門を叩け、さらば開かれん。」(マタイ7・7)

私の始めはここからです。

もっともっとたくさんのものを求めて生きます。大学ではやっぱりとことん学びたいです。共にいたいと思う人を探します。そして、出会ったからには門を叩いて、その中に「門」ともいう境界を越えて、中へと入っていきたいです。大変なのは百承知で、それでも自分の人生は大切にしたいです。これまで送ってきた人生が本当に豊かなものだったので、神様が絶対に導いて、時には叱って、時には共に立ち止まってくれると信じています。どんな日も等しく、私の日々として、神様から頂いた時間を心から大切にしていきます。

同情や憐み、大変さ、不幸に不便、不安、不満、反対、そんな不都合に塗り固められてたまるものか。従ってなんてやるものか。問いかけていく。絶対に流すのではなく、ちゃんと聴きたい。話したい。学びたい。そのための努力を惜しまないで生きていたい。勇ましく、たくましく生きたい。少しずつではあるかもしれないけれど、不都合に打ち勝ちながら、それらのような「境界」を越えて、今私の与えられた生きる時間で、今私の与えられた場所で、大切に日々を生きていきたい。(10月17日)

(明治学院大学学生)