「あけぼの幼稚園」の保育 上村真理子 髙橋泉
あけぼの幼稚園は東京都品川区にあります大井バプテスト教会附属の幼稚園です。
第二次世界大戦敗戦後、まだ小さい群れであった教会は、日本再建と、この後の世界平和をひたすら祈る中で一つの幻が与えられました。「次代を担う人財を育てるならキリスト教教育を進める幼稚園を設立しよう」ということです。その祈りはどんどん熱くなり、教会員の中から教員免許を取得した3名の保育者が整えられて、1949年6月に開園するに至りました。「敗戦の暗黒から『わたしは曙あけぼのを呼び覚ます』人材を神によって育む」(詩編10編3節)という意味であけぼの幼稚園と命名することになりました。
行政の変化、少子化の進行、共働きの家庭の一般化等に伴うニーズの多様化に応えて、園児送迎バス導入、週一回の給食(任意)、預かり保育など新しく導入されたことはあるにしても、教会附属幼稚園として日曜日を正課(保育日)とし、保護者対象の日曜第一礼拝、水曜日バイブルクラス&コーラス(現在、コロナ禍のため休止)を行いながら保護者伝道を大切にしてきたことは創立72周年を迎えた今も変わりません。
1982年、核家族化が進む中で、子どもたちにふさわしい教育法としてモンテッソーリ教育を導入し、数年間かけてクラスも縦割り編成としました。同時に最も敏感な時期にキリスト教保育を提供したいと考え、1歳半幼児クラス、2歳児クラス、満3歳児クラスを開設したことも保護者の子育て支援となり、現在は多くの方に望まれるクラスとなっています。
近年、モンテッソーリ教育が話題になり「是非、モンテッソーリ教育を我が子に受けさせたい」と考える保護者が多くなりましたが、日本でのモンテッソーリ教育は英才教育と思われているところがあります。幼稚園ではそうした保護者に「本来、モンテッソーリ女史は、知的な障がいを持つとして隔離し、なおざりにされていた子どもたちに目を向け「子どもは人類にとっての希望であり未来への約束です。大人の義務と責任は彼らに適切な環境を整えその発達の援助を細やかに行うことです」と話し、モンテッソーリ女史の進めた教育も聖書を土台としていることを伝えます。
幼稚園の朝は、まず職員礼拝から始まります。大学を卒業して間もない職員、子育て真最中の職員、病を抱えながらの職員、両親の介護をしながらの職員……様々な環境、家庭から押し出されて出勤してくる保育者は決して強い者ではありません。しかし、朝の礼拝の中で、当番の〝証し〟を聞き、讃美歌を歌い「今日も子どもたちの前に、立つにふさわしい者とならしめてください」と祈る時、主から支えられ、力を頂いてそれぞれの保育室に向かうことが出来るのです。
幼稚園は保育の中で毎日子どもたちと礼拝をします。讃美歌を歌い、祈り、月ごとのみ言葉を皆で暗唱します。昨年度までは日曜の教会学校で聖話を聞いていた子どもたちですが、コロナ流行により日曜日の休園が余儀なくされたため、今は水曜日に全体での礼拝の時間を持ち、日曜日に予定していたメッセージを伝えています。メッセージを聞く子どもたちの目は真剣そのもの。うれしい話の場面ではキラキラと目が輝き、悲しい場面では眉毛が八の字に……。小さいダビデが大男のゴリアテを石ころ一つで倒した場面では「やったー!」と喜び、イエス様が十字架にかけられる場面では苦しい顔つきになる子どもたち。つい先日はモーセの紅海 ― 海が二つに割れる場面では「すごい!」と歓声が上がりましたが、礼拝後に年長の男の子がやってきて「イスラエル人を追いかけてきたエジプト人は海に流されちゃって可哀そうだね」と……。話を真剣に聞いていたからこそ出てきた言葉、そして一緒に語り合うひと時……子ども一人ひとりメッセージの受け取り方も違い、話す保育者も子どもたちから新しい気付きや緊張をもらいます。それ故、保育者はメッセージの準備がとても大切です。子どもたちに聖書をより正しく伝えることができるよう月に一回、それぞれの保育者が担当メッセージの聖書箇所を調べ、発表し、大事なポイントやわからない点、心に残る御言葉などを話し合います。クリスチャンの保育者も求道者の保育者もまた、勤務して一年目の保育者も同じように学びあう時間です。そしてその学びを受け、メッセージの担当者は子どもたちにわかりやすく話せるように準備をしていくのです。ただ原稿を整え、覚えて話すだけではだめなのです。いかに自分がその聖書箇所を理解し、神様のなせる業に感動して子どもたちの前に立てるか ― 信仰が問われるのです。自分が本当に聖書の御言葉に感動しつつメッセージを伝えると子どもたちは自然と耳を傾けます。ですから保育者は祈ります。「神様どうぞ正しく御言葉を語らせてください」と。
幼い子どもたちが小さな手を合わせて祈る姿は何とも可愛らしいものです。生まれてまだ数年しかたっていない子どもたちがその純真な心でまっすぐに神様を見上げ、たどたどしいながらも自分の言葉で祈る姿に感動を覚えます。毎日の礼拝でよくこのように祈るのです。「天にいらっしゃる大好きな神様。今日はお天気にしてくださってありがとうございます。世界には困っている人が沢山います。みんなをお守りください」良い天気 ― 子どもたちにとって外で遊べることは何よりうれしいことなのでしょう。それでも雨の日には「神様、雨をありがとうございます」草や花、虫たちが雨を喜んでいるからありがとう……と祈る子どもたちです。お弁当前には「感謝して残さず食べられますように。スプーンやフォークがない国の人たちをお守りください」世界にはいろいろな状況の中におかれている子どもたちがいることを日頃から話しているからでしょうか。〝スプーンやフォークがない〟ことは、大変な事態なのだと感じるのでしょう……「お休みしている○○ちゃん、お引っ越しをした○○君をお守りください」「津波で流された人をお守りください」(2011年はまだ生まれていなかった子どもたちですが、先輩からの祈りは心に残り伝承されていくのです)。
「コロナの病気が流行っています。早くよくなりますように」
子どもたちの祈りはいつも真剣です。先日、幼稚園に足を怪我して飛べなくなった雀が籠に入れられてやってきました。〈あけぼの〉から名をとって「あっけちゃん」と名付けられた雀を見に来た子どもたちの一人が「足痛そうだね。飛べないのかな?可哀そうだ。お祈りしよう」そういうと「うん。そうだね」と近くにいた3~4人の子どもたちが加わって手をくみ、目を閉じてお祈りをしました。「神様、あっけちゃんの足が早く良くなりますように」急きょ始まった祈祷会。あわてて保育者も手を合わせました。子どもたちにとって、お祈りは身近なことなのです。うれしいことがあった時「神様ありがとう」悲しいことが
あった時「神様悲しいことがおきました」苦しいことがあった時「神様助けてください……」こう祈るこどもたちは本当に素敵です。素直な心で祈る姿から保育者は大切なことを教えられるのです。
例年夏に行われる年長組の一泊サマーキャンプ。今年もコロナ禍にあり宿泊は出来ませんでしたが、朝から夕方までの約一日〈年長サマーフェス〉と銘打っ
て礼拝の他、ゲーム、水遊び、製作などを楽しみました。今年のテーマは「神様がくださっている私の良いところ」 ― 園長先生のメッセージを聞いてから、等身大の自分の絵を描きそこに「私の良いところ」を書いたハート型の紙を貼り付けました。「どんなことを書いているのかな?」とのぞいてみると「僕の良いところ ― 転んでもすぐに立ち上がるところ」と書いているY君 ― 彼は生まれつき足が不自由で、歩いても走ってもすぐに転んでしまうのです。しかし彼はそのことを決して辛いとは思わず、乗り越えている自分に自信をもっていると感じました。また、Y君の友だちであるK君は「僕の良いところ ― 転んだ友だちをすぐに助けるところ」と書いていました。助け合うことの喜びをしっかりと持っている子どもたちの姿に思わず心が熱くなります。Aちゃんは「私の良いところ ― 神様が大好きなところ」と書きました。子どもたちの心は神様によって豊かに育まれています。神様の御愛を一身に受けて、強く優しく成長させていただいているのです。一人ひとりが書いたカードを見ながら、「素敵な子どもたちをありがとうございます」と神様に感謝しました。「子どものようにならなければ決して天の国に入ることはできない」(マタイ一八3)という御言葉をかみしめています。
卒業していった子どもたちは4千人を超えます。その中から多くのクリスチャンが生まれ、「基督教共助会」の飯島 信先生(6回生)をはじめ十数人の牧師、牧師夫人が生まれました。また、保護者や旧職員の多くも教会を支える信徒となっていること ― これは主の哀れみと恵みのほかありません。 幼稚園には同窓会があります。決して大きく立派な幼稚園ではありませんが、にもかかわらず幼稚園を覚えて献金が送られ、祈りと励ましの手紙が届けられ、数年に一回の同窓会が続けられています。その同窓会会長も飯島 信先生が担ってくださっていますが、72年の歴史を覚える〝同窓会の祈り〟があることは今を歩む職員の大きな力となっています。
これからの時代、決して順風満帆ではないと思います。しかし、安易な風に流されることなく、どんな時も聖書を土台とし「愛と正義と平和を求める人材の育成を目的として、神様がお造りになった子どもたち一人ひとりの個性を尊重し豊かな成長を得られる保育」を進めていくことが出来ますようにと祈る日々です。
(大井バプテスト教会附属あけぼの幼稚園 教諭)