「日本の教会に遣わされて」 鈴木 善姫
・来日する前の時に
私が神学生であった当時の韓国の情勢は、光州事件後の混乱が続く中で、全斗換大統領の政権に対する抗議デモが激しい時期でした。その中で、保守的な教会は、このような時こそ神様の助けを求めてより祈るべきで、キリスト者が直接に政治問題にかかわるべきではない、という立場でした。そして他方では、神様は人間の手を必要としているのだ、イエスこそ、ローマの支配と搾取に抵抗した革命家であり、十字架の死は政治犯人としての死であると唱える人もいました。お互いを信仰者として望ましい行いではないと、神学生の中でも意見の差でしばしば揉めることがありました。
そのような状況の中で、私は神学校を卒業してソル近郊の教会で伝道師として働くことになりましたが、健康が悪くなり、2年余りで辞めざる得なくなりました。最初は声がかすれてきましたが、のどの痛みと共に声を発するのが難しくなりました。教会の働きができる状態ではなかったので、辞任して、少し休めば治るだろうと思っていましたが、あちこちの病院行ってもなかなか治りませんでした。癒しの賜物があるという人たちを転々と訪ねる日々でした。そのようなことを通して、韓国の教会の一部分ではありますが、シャーマニズム的な問題を肌で感じることができました。そのような信仰的な戦いの中で、日本に来る機会が与えられ、来日しました。
・底辺の地に生きる人々を通して
東京神学大学を卒業してから、一年間無牧の教会を手伝った後、新宿で開拓伝道をすることになりました。当時は日本の経済が豊かだったので、仕事を求めて韓国から大勢の人たちが来ていました。韓国での生活にも追い込まれて来日した人が多くいました。ビザもないし、日本語もできない人がいて、特に女性の生活を助けながら伝道をするようにということでした。誰も来ない中、一人芝居のような礼拝を守り続けていました。しかし、1年後には礼拝出席が二十数人になりました。酒場のお姉さん、ホストバーのお兄さん、厨房で働くおばさんたち、日雇い労働者、など。とても賑やかになりましたが、様々な教会員同士のトラブルや、教会員の生活の世話などで、心身ともに疲れを覚えていました。礼拝を守りながら涙を流す人たちですが、教会を出ると暴力を振るったり、人情深い人たちですが闇の世界で険しい人となるのです。時にはこの人たちにとって信仰とは何だろうか、本当にキリスト者と言えるのか、私の働きと教えは何の意味があるのだろうか、と葛藤する日々でした。しかしある日、イエス様が「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)とおっしゃったみ言葉をを通して、この人たちこそ私に主イエスの心、福音の意味を悟らせてくれていることを知りました。人々は高いところに上がろうとします。権力があるところ、名誉があるところ、人の上に立つところ、そこに何とか登ろうとします。しかし、主はこの世の低いところ、貧しいところに来られ、罪人と弱い人々の友となりました。低いところこそ、主に出会うところ、人生における大事なものが見えるところです。
・言葉を越えた真のみ言葉
新宿での開拓伝道を止めて、結婚後夫と共に東北に向かいました。東北での生活は楽しく豊かな想い出です。大阪の教会からの招聘を神様のみ旨として受け入れながらも、別れはとても寂しいものでした。引っ越しの準備や仕事の始末などに追われていた2011年3月11日に東日本大震災に遭いました。外出先でしたので避難所で何日か滞在してから、水のを流されないように歩いて戻ってきた石巻の家と教会の周りは悲惨で、残酷な光景でした。それから教会員の安否確認、日本各地と各国からの援助物資の受け入れと配り、ボランティアの宿泊と一緒の活動で目まぐるしいほどの毎日でした。
ある牧師が訪ねて来て、私たちの前で聖書を読みつつ神様の愛を一生懸命に伝えようとしました。それを聞きながら思いました。黙っていてほしい。この理解できない、考えられない苦しみの前で静かに一緒にいるだけでいい、と。多くのことを言わなくていい、心の底から主に向かって叫びたくなるこの気持ちを感じてほしい、黙って共に耐えてほしい、という気持ちでした。
一か月位遅れましたが、後ろ髪を引かれるような思いで何とか大阪に転任することができました。
平穏な生活の中に戻ったはずですが、祈れない、聖書をまともに読めない、辛い日々が続きました。
ある日、眠れない夜、声は出せないが心の底から泣き叫んでいた私に主イエスが現れました。津波に流されて傷だらけになって私を見つめているイエス様が私の前におられました。そしてそっと私の隣に座ってくださったのです。その主イエスは十字架の上で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」つまり「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでおられた方でした。
災難の中に、津波で流されて死んでいく人々の中に主は共におられた、そのような思いで嗚咽しました。言葉を越えた方、真のみ言葉主イエスによって私は立ち直りつつ、前に進むことができました。
・悲しい記憶
20年以上いくつかの日本の教会に遣わされました。様々な出会いがありました。忘れられない多くの思い出の中の一つを話したいと思います。教会の役員で礼拝を欠かさず守るのはもちろん、牧師を支え、弱さを持っている教会員を助ける、キリスト者として模範になるような方がいました。その方は知恵と洞察力をもって教会の大小の問題に適切に対応してくれました。牧師としても心強い存在でした。ある日祈祷会を終えてくつろいだ時間の中で話し合っていました。その方が私にこのように言いました。「日本は天皇がいるからいいんですよ。天皇がいるから一つになることができるし、みんな平和に暮らすことができます。日本こそ、平和の国です。また、韓国は日本に支配されて良かったです。韓国に鉄道を作ったり、いろいろな発展を支えたのは日本でしたから……」まさかの話でした。私の話に彼は言いました。「韓国もベトナムや弱い国に行って悪いことをしているのではないか」という反論でした。これ以上話し合うとお互いの関係だけが悪くなることだと思い、直接に言うのは止めて、いつか信仰生活の中で変えられることを望むことにしました。悲しい記憶です。
・欠けがある私たち
昨日のシンポジウムにおいて、澤崎堅造と和田正についてのことを感銘深く聞きました。彼らが主イエスに出会い、当時未知の世界ともいえる遠い国である中国に妻や幼い子どもまで同行させて伝道に向かった彼らの主を愛する熱情と隣人愛としての中国伝道への熱心さを深く感じ取ることができました。しかし、皆様の中からも話があったように、当時の日本の隣国への侵略戦争については、指摘の言葉も論じられた形もありません。当時の情勢を考えると思っていることがあっても言えない状況であったのかもしれないというのは多くの方々の意見でもあると思います。また、福音を宣べ伝えることによって、平和と時代への批判を間接的に示したいと思っていたのかも知れません。あるいは、韓国での私の経験を話したように、クリスチャンは信仰的なことに徹することで、政治、社会的な問題には関わらないで祈りをしながら神様に委ねるべきだという考えがあったのかも知れません。
どうであれ、私たち人間が持っている限界、いくら信実を求めようとしても欠けがある人間の姿を示しているのではないでしょうか。
・おわりに
紙面の都合で語れないところもありましたが、私の経験、体験を述べさせていただきました。
正しい人はいない、すべての人が罪人だと言った使徒パウロの言葉が身に沁みます。勿論、事柄に置いての正しさを知り、それを示し、伝え、正していこうとする努力は絶えず必要だと思います。歴史を知り、同じ過ちを繰り返さないようにすることは人間の責務です。しかし、それですべて解決できたのでしょうか。繰り返される悲劇的な歴史の前で私たちは首をかしげるしかないのです。
聖書は言います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)神様は罪に満ちているこの世をありのまま愛してくださいました。そして、主によって回復し、お互いが愛し合う救いの世界を与えてくださるのです。罪と欠けの多い私たちが、それにもかかわらず、赦され、愛されていることを知り、主の赦しの十字架と死に打ち勝つ復活の恵みに自分の人生を委ねつつ生きようとする人たちの中で真の和解は生まれてくるのではないでしょうか。主によって砕かれた心、主の愛にとらえられた人のみが真の正しさを知り、赦しと和解に生きることができるのではないでしょうか。
(日本基督教団 大井町教会牧師)
