霊について(2004年9月号) 小笠原 亮一
目に見えない霊力、神々や精霊や死者の霊が、忘我や悦惚の状態に入った人間を通して、託宣や治癒など不思議な働きをする。この霊の働きは一般にシャーマニズムと呼ばれ、その媒介者はシャーマンと呼ばれる。その働きは太古から世界的に行われてきた。
旧約時代には、周囲の諸民族の霊的活動が盛んで、その影響がイスラエル民族の中にも入り、エリヤや預言者たちが続出した。しかし、旧約の預言者たちは、唯一なる神の霊による神の言葉を語り、バアルに代表される神々や諸霊の偽預言者たちときびしく対決した。福音書によると、イエスはガリラヤで病気で苦しんでいる多くの人たちを奇跡的に癒し、それを見た人々は驚き、イエスはエリヤか預言者である、と噂した。
パウロの時代にも地中海世界では多様な神秘的、密教的宗教活動が活発で、パウロの伝道によって成立したコリント教会でも霊的賜物が豊かで、特に異言が目立っていた。その霊的状況の中でパウロは、「イエスは主である」という告白を霊の基本とし、「愛がなければ無に等しい」、「愛は決して滅びない」、「最も大いなるものは愛である」と書いた。
私が住んでいる北の津軽や南の沖縄では、女性のシャーマンが今も活動している。その霊的働きの基本は、共苦共感によって、今苦しんでいる生者を過去の死者の霊と媒介し、救うことである。それを恩うと、今苦しんでいる人とのイエスの霊による共苦共感が、私になんと乏しいことかと痛感する。また、弟子ぺトロたちがイエスに従いながら、十字架を前にして逃げ去ったように、私もまた、小さな十字架を真実に負いぬくことのできない自分を痛感する。
イエスは、父なる神の愛の心をわが心とし、神の霊の力によって、苦しむ人々に生きる力を与え、愛の十字架の死を負いぬかれた。
私は近頃、イエスの十字架と復活の後、ペトロたちが心を合わせて祈り、聖霊降臨をいただいたことの深い意味を思う。弟子たちはそれ以前からもイエスを見、その霊にあずかってはいたが、しかし、イエスの十字架と復活を見て、イエスが父なる神と一つなる愛と命の霊に生き、死に、復活し、今生きておられることを知った。そして彼らもまた、根底から新しく、その霊に生かされ、真にイエスに従う道が切り開かれた。イエスに敵対していたパウロですら、イエスの十字架と復活を見て、イエスの十字架の道に喜び従った。