神の義は、その福音の中に啓示され (2003年4月号) 清水 武彦

 さまざまな国や組織が「己の義」を主張している。イスラム教やキリスト教の善悪二元論の原理主義者の主張がナショナリズムと結びついて武力行使を正当化している。二十一世紀のナショナリズムはまた、「市場原理」という非宗教的な原理主義と結び、グローバリズムとも結託している。キリスト者として堪え難いのは、超大国アメリカのブッシュ大統領が、キリスト教原理主義の熱心な信者としてGODやキリストの名を借り、聖書の言葉を用いて先制攻撃作戦を推進し、連邦議会の多数もこれを支持していることである。

 平和憲法よりもアメリカとの軍事同盟を重視する小泉政権の基盤には、ブッシュ政権と同じような新保守主義者と、日本的原理主義者ともいうべき、若手国会議員らの「さくら会」のような軍国主義者が同居している。

 受難過と復活節を迎え、「神の義はその福音の中に啓示され」(ロマ書一・一七)ていることを、すなわち、わたしたち人間は、他者を己の義で裁くことによってではなく、神の恵みにより「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、無償で義とされる」(ロマ書・二四)ことを、あらためて心に刻みたい。

 キリスト者は日本では極めて少数者ではあるが、その平和主義・平等主義・政教分離・人権擁護に立つ社会的主張は、戦後の新憲法と民主主義の下では「正統派」に属してきた。しかし、国際紛争の激化とグローバリズムの嵐の中で、長く逼塞していたナショナリズムが、民主的な原理や福祉国家制度の「改革」までも求める動きと結びついて復権しつつある現代では、キリスト者の主張は再び「非正統派」に属すことにな名であろう。

 さればこそ、私たちキリスト者は、互いに義を主張し合うのではなく、キリスト・イエスに倣って、「兄弟の愛をもって互いにいつくしみ、迫害する者を祝福し、だれに対しても悪をもって悪に報いず、できる限りすべての人と平和に過ごし、自分で復讐しないで、善をもって悪に勝つ」(ロマ書三・一〇―二一)ことを、それぞれの場において、より鮮明に告白し、行いによって示していこうではないか。