キリスト者と「積極的平和主義」 (2014年4号) 小菅敏夫

 二〇一四年の憲法記念日は、ひょっとすると日本が戦争の出来る国になる前の最後の憲法記念日になるかもしれない。それ程に現在の安倍政権は、平和憲法を改訂し再び日本を戦争の出来る国にする方向に舵を切ろうとしている。その主張の前提として、日本の国のあり方の基盤に「積極的平和主義」を掲げている。従来の憲法九条を柱とする平和主義を「日本が非武装であればあるほど、世界は平和になる」という考えとして、消極的平和主義と位置付け、九条の改定、集団的自衛権の行使を可能にし、当然戦争が出来る普通の国を目指す内容を「積極的平和主義」として、安全保障体制の基本に据えようとしている。安全保障体制は、いかにして近隣諸国や国際社会と平和を築いていくか、そのための仕組みであるが、日本国民は、現行憲法に明瞭に定められている恒久の平和を願い、愛し、維持することを憲法前文に記述し、そのために九条の規定を置いているのである。現政権の「積極的平和主義」は、平和を作りだす努力としての安全保障政策であるよりも、自衛権の行使を超えて、他国と共にその紛争の解決のために武力を伴う戦争に参加できる体制を作るものである。現行憲法の施行以来六十七年間にわたり認めてない集団的自衛権の行使を可能にし、多国籍軍に参加し海外で戦争のできる国にすることを狙っている。昨年来の安全保障体制の整備、防衛大綱、武器三原則、武器輸出原則などの見直し、特定秘密保護法の成立など、いずれも憲法九条の平和主義とは相容れぬ、積極的平和主義の内容としては、現行憲法の平和主義に反するものではないか。

  「積極的平和主義」の内容は、憲法違反の疑いの高いものであることを私達一人ひとりの国民が認識すべきではないだろうか。明確に憲法改定、出来れば新たな憲法を作ることを願っている現政権は、憲法改正の手続きをめぐって国民の反対が強いため、正式な手続きを取ることをやめ、立憲主義を否定し、憲法を軽視し国民主権を欺いて、「解釈改憲」を政権の一存で行うことを意図している。私達主権者の力を無視することを許してはならない。微力であっても私達一人ひとりの主権者の力を積み重ねて九条の理念の灯を絶やさず、掲げ続ける人と運動がある限り政治も無視出来ない。

  「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ五章九節)。私たちはただ平和を祈り、平和を頭の中で考えるだけでなく、現実にその平和を実現するための努力をしなければならない。神の前に恐れを知るキリスト者として真の積極的平和を実現する一人となりたいと願う。