八月十五日に寄せて(2014年 5 号) 工藤 浩栄
二〇一四年八月十五日がめぐって来る。日本では終戦記念日、韓国では光復節と呼ぶ日だ。一九七一年生まれの私は、かの戦争も、それ以前の我が国による朝鮮半島の植民地支配も直接には知らない。しかし、過去に我が国が犯した罪への反省から、絶対的平和を追求する日本国憲法を当然の如く信じて生きてきた。今、我が国では日本国憲法の理念を根底から否定しようとする議論が続けられている。日韓両国は、かつての我が国による侵略行為に起因する問題を未だ清算出来ないどころか、両国の政権は、己が政権に対する国民の批判の目をそらすための都合のよい道具として、それらの問題を用いている感すらある。両国の政権は、互いにマスコミを通じて相手を挑発し合っているように見えるが、実際に挑発されて騒いでいるのは、自国の国民なのではなかろうか。我が国は世界に誇るべき日本国憲法を持ちながら、政府は敗戦以来未だかつて近隣諸国に対する過去の侵略行為を本音のところでは認めていない。一方、韓国では、民主化以降も、軍事独裁政権の時代さながらに「反日」は国是であり続ける。このような現状にあって、私を含め直接には植民地支配も戦争の記憶もない多くの両国の国民が、醜い姿に仮想化された自分の隣にいない相手に向かって、口汚い口調で罵り、貶め、自らの溜飲を下げている。しかし、両国の若い世代は実際には互いに戦った事実もなく、痛めつけられた事実もない。実際に支配される肉体的、精神的痛みを知っているならば、あるいは実際に痛めつけ支配した罪責感があるならば、互いにその痛みと罪故に、軽々しい言葉を発することなど出来ないはずだ。
日韓両国民には、歴史背景や地理的条件の違いなどから、思考様式に互いに理解しがたい感性がそれぞれ存在する。日本の「恥」、韓国の「恨(ハン)」がそれである。我が国の自民党政権は現行憲法を敗戦によって押し付けられた「恥」をそそぐために改憲を企み、一方、韓国政府は日本への「恨」を解くことに汲々とし、歴史認識を盾に教育や言論を通じて、むしろ火に油を注いでいる。 私たちは罪なきイエスがどのような状況で十字架に付けられたのか、なぜ十字架に付けられなければならなかったのかを知っている。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」(ロマ3・25)。 「恥」も「恨」もキリストの血によって示される義の前には相応しくな い。「恥」をそそぐのではなく、罪を深く見つめて悔い改めること、「恨」を解くのではなく、愛を以て赦すこと、それが実現出来るなら、私たちは互いに真の隣人となるだろう。朝鮮半島が本来の姿に回復されることを祈らなければならない。その原因を作ったのは私たちだから。そして、私たちが八月十五日を終戦記念日と光復節という二つの名で呼び合う、主にある平和が実現するように祈る。