半年の後(2001年12月) 片柳 栄一

 21世紀のはじめの年である今年の3月に起こったバーミヤンの石仏破壊のニュースは、何か新しい世紀を象徴しているかのように思えて何とも嫌な気がした。この石像の顔はすでに削り取られていて、仏像に対する歴史的な嫌悪の深さが示されているが、あの巨大な像全体を破壊するという力は今の時代になって始めて獲得されたものだ。科学技術の合理性が獲得した力を、もう一つ別 の或る種の合理化が野蛮に用いた。仏像を聖なるものと考えるかはともかくとして、自らの信念を一貫させ、徹底化する原理主義の一種の合理化が、人間の作り上げたものに対する畏敬の心を上回り、人間的なものを吹き飛ばしてしまったように思えた。アフガンの荒廃と窮乏に対する世界の無関心への抗議だというタリバン側の言い分はあるにしてもである。古めかしく響くようになってしまったが、ヒューマンなものを冷たく無視する態度は、現在の生命を扱う”科学″の態度と或る類似性を持つように思う。そのような広い意味での合理化傾向は、その底にいつも”ヒューマンなものに反する″とい う意味での”野蛮″さを孕む可能性をもっているように思える。そんな思いから、石仏破壊は21世紀の或る本質的な姿勢を象徴するように思えたのだ。

 そして半年後にニューヨークの忌まわしい爆破事件だ。夜11時頃、飛行機2機がビルに激突したとの報に初めて接した時、少なくともテロリストが乗客のいない飛行機を盗んで激突したものであって欲しいと望んだほど、私はテロリストの人間無視のすさまじい心を考えることができなかった。さらにテロリストの素地を生み出しているグローバル化と言われる経済の傾向を考えてみても、そこでも利潤追求のための徹底的な、すさまじいまでの合理化が志向されている。地球上の至るところで生じている、野蛮さと荒廃をも生み出す徹底した合理化傾向に対して、ヒューマンなものを守ると決意した社会と、社会に仕えることに徹する国家(それが民主主義的ということだが)とが何処まで対抗できるか (ミイラ取りがミイラにならずに)、ここに21世紀の、あるいは人類の命運がかかっていることを改めて思わされる。キリスト者、宗教者もそこで問われているように思う。