この幼子の一人にしたのは(2002年10月/11月) 木村 葉子
雨の涼しい休日、聖書を開き暑い夏の喧騒の中からやっとわれを取り戻した。雨に黒々と潤いを得て耕される畑のように貴重な時のしずく。「2学期のこと、10月には卒業対策、そして有事法制や、教育基本法、組合、教員への締め付けを考えると暗くなってしまいます。出来ることを蟻の一歩でも」という友人からの葉書と同じ焦燥にいた自分だった。しかしこの友は、「君が代」伴奏拒否に対する処分の不当性を裁判で闘っている人。その陳述書に「家庭や学校でいやなことがあるとただ叫ぶような声で歌ってしまう子、何かあったのだろうと思いながらピアノを弾きます。歌っているうちにみんなの明るい音楽の中にそのイライラが溶けていくことがあります。-人ひとり違う感じ方。内なるものに感じるアンテナを持って表現してほしい。クラスの音楽、学校の音楽。そこにいる人たちでしか創り得ない音楽が好きです。『一人ひとりの思いを肯定せず、何億もの人を束ねて同じ方向へ向かわせるような音楽』を私は弾くことが出来ない」「一人ひとりの生きている、喜び、可能性、希望を一緒に作り出すのが教育の仕事。子どもたちは家庭や、学校で、悩み、傷つき、そして勇気をもらい励まされたりしながら必死で生きている。一人ひとりの子供を受け止めていくのはなんと大変なことか」。
このような教師の真摯な声に「教育とは誰のためか」という原点にもどることをうながされ、反省と方向、励ましと連帯を与えられる。
聖書に、「この幼子のひとりを受け入れるものは私を受け入れるのである」「この小さいものの一人にでもつまずきを与えるものは海に投げ込まれたほうがましである」(マルコ福音書九章)とある。一人ひとりの人権を尊重する愛が教育を支える。私も教員としてこの箇所に常に反省させられる。
しかし、今や、憲法の平和主義や主権在民、人権の尊重に沿って教育の仕事をしようとする良心的な教員が、不適格教員として全国の学校から排除されつつある。管理と強制の学校で子どもたちはいったいどうなるのだろうか。教育基本法の改定が国会審議に予定された。「有事法制」や「国旗国歌法」と関連して、戦前、学校教育によって戦争へ国民を駆り立てた道の再来である。自律して考え実現する力をつけるのが教育である。
一人の人を国のため社会のためといって教育することは人を手段として利用することであり教育ではなく利用価値の有る便利な物として扱うことである。利用価値がなければ捨て置くという考えである。どんなに美しい言葉で「愛国心」や文科省配布「心のノート」で道徳や宗教的情操を説いていてもそれは欺瞞である。いじめや、学級崩壊、家庭の崩壊、リストラ、就職先の無さで傷ついている子に必要なのは教育基本法の精神を現実化すること、教師も、保護者も、市民も行政も力を合わせて、パンを欲している子に向き合い、滋養のある食べ物をさがして与えることではないだろうか。公の意識が必要というなら、今や、それは国家の枠にとどまらず、地球規模で福祉倫理を考えなければならないことを生徒たちの方がよっぽど感じている。