罪責を告白する教会(2007年12月号) 森岡 巌
歴史に生きる教会は、必然的に歴史の危機に直面する。危機の中で、その危機に教会は関わろうとして、不可避的に戦い、苦しむ。そして教会が苦しみながら戦う時、教会は様々な試行錯誤を重ね、過ちを犯す。その過ちは、教会の罪責として、歴史の主、キリストから、また現実的にはこの世からも、人間からも問われる。特にその苦しみ、その戦いが、教会として負うべき人間のため、世のための苦しみであり、戦いであれば、その過ちのために痛みを味わったことで、あるいは、教会がその戦いと苦しみの困難さや厳しさを、またそのために受ける迫害を恐れ、それを進んで担おうとすることを避け、それから逃れて安逸を貪り、無難な世界に逃避したとすれば、そこで教会が問われる罪責、そのために問われる問いは、なおさら重く厳しいはずである。いずれにせよ、このようにして教会は歴史の中で、常に罪責を問われるべき存在であり続けて来た。
一九六七年、日本キリスト教団は、教団の名において、第二次世界大戦下の戦争責任告白を表明した。告白は教団総会議長の名でなされたが、それは総会議長が教団を代表し、また教団が日本の教会全体に代わって、教会の問われる戦争責任としての罪責の悔改めの告白をなしたことを意味する。 教会の歴史を顧みるに、教会が問われる戦争責任は、常に教会が問われる罪責の悔改めのために、またその悔改めの告白を、教会の主キリストに告白することから、その教会の罪責は十字架のキリストの贖いによって赦され、自由へと解放される。そうして教会には再生と新生がもたらされ、教会は歴史の中で、ルターの言う「大胆に罪を犯す」勇気と自由と責任と希望をもって、告白し行動することが可能となる。
日本の教会は無力な少数者に過ぎないであろう。しかし、教会は絶えず真理の御言葉のもとに立ち、それに聞き、自分の十字架を負って主キリストに従う責任と使命を負わされている。それを果たすためには、教会は罪責の告白から出発して、そこでキリストの教会を代表し、十字架を負うてキリストに従って行く時、教会はどのような苦しみや戦いに出会おうとも、またどれほど過ちを犯そうとも、キリストにおいて終末の勝利に到達することができる。その勝利の希望において、絶えず前進して行く勇気と力を、教会は主から賜わっている。それを信じる群れとして、教会は地上の歴史の中に存在することが許されている。