2.「民主救国宣言から民主化闘争勝利まで(1976-1987)」井田泉

『日韓キリスト教関係史資料Ⅲ 1945-2010』(新教出版社、2020年)より

■第Ⅱ部「韓国民主化闘争と日韓連帯の動き(1965-1987)」

1976年3月1日、三・一独立運動記念の日、カトリック明洞大聖堂で行われた三・一記念礼拝の中で「民主救国宣言」が発表された。民主化闘争の一画期をなすものである。「本日で三・一節57周年を迎え、1919年3月1日、全世界に響きわたったこの民族の喊声、自主独立を絶叫したあの雄叫びが今もありありと響きわたってくる。今日の状況をこのまま座視することは、救国先烈たちの血を無駄にするような罪意識にとらわれ、われわれはわれわれの志を結集して「民主救国宣言」を国内外に宣布するものである」(冒頭部分)。

それから1年後、監理教神学大学の宋吉燮(ソンキルソプ)は監メソジスト理教の機関紙『基督教世界』(1977.3.31)で次のように論じた。

「三・一運動の計画と遂行過程においてキリスト教は通路の役割や周辺の役割をしたのではなく、初めから終わりまでこの運動を主導し、従って日本当局によって集中的な圧力を受けた。」

「キリスト教はこのように最初からこの民族とともに成長し、苦難を味わい、泣き、笑い、耐え、勝利したのである。」

ここには、三・一運動を継承し、時代の苦難に参与しつつ民主化を達成しようとの思いが込められているであろう。

1979年には民主化を求める反政府デモが各地で燃え上がり、10月には特に釜山、馬山などでそれが激化した。同じ月、朴正煕(パクチョンヒ)大統領は側近の中央情報部長・金載圭(キムジェギュ)によって射殺された。

民主化運動に関わり、ソウル大学から追われて獄中生活を経験した韓完相(ハンワンサン)は、同紙翌1980年2月号で「民族の現実が暗闇の中にある時、信徒は民族の炬火になるべきであり、社会構造が不正腐敗で腐った時、信徒は社会の塩にならなければならない」と訴えた。この年5月、光州事件が起こり、翌年には全斗煥(チョンドゥファン)が大統領に就任する。

1987年1月、ソウル大学生・朴鍾哲(パクチョンチョル)が警察の拷問で死亡する事件が起こった。これに対する真相糾明要求と糾弾の運動が各地に広まった。6月10日に「朴 鍾哲(パクチョンチョル)君拷問致死・捏造隠蔽糾弾および護憲撤廃国民大会」が警察の三重の包囲網の中、大韓聖公会ソウル大聖堂で開かれた。いわゆる「六月抗争」の始まりである。6月26日には民主憲法争取国民平和大行進が行われ、国民運動本部の集計では参加者が全国で150万人に達したという。与党・民主正義党の代表委員・蘆泰愚(ノテウ)は、時局収拾 のための八項目を含む「六・二九宣言」を発表した。民主化闘争の勝利であった。

それから10日後の7月9日、催涙弾の直撃を受けて死亡した延世大学生・李韓烈(イハニョル)の葬儀が行われたが、この葬列に雲集した市民・学生が警察に追われて聖公会ソウル大聖堂に避難。ここに戦闘警察(機動隊)が突入して催涙弾を乱射し、信徒を含む多数の市民を殴打・連行、主教館などを破壊するという事件が起こった。これに抗議し、かつこのような政治・社会のあり方を許してきた自己の罪を悔い改めるとして、聖公会司祭団は7月10日から1週間、主教館で断食祈祷を行った。これに関する生々しい資料が本章には多数収録されているが、その一部を紹介する。「ソウル教区の聖職者たちは、聖堂を安全な避難所と考えて逃れてきた市民・学生たちを保護することができなかった誤りと、警察の催涙弾発射と、進入狼藉を前もって収拾できなかった責任を痛感し、悔い改めます。しかし、私たちは神の栄光のために聖別された聖所が、武器と力によって冒瀆されたことを看過することはできません。それはすなわち、私たちの信仰の尊厳性と神聖性の冒瀆であり、明白な宗教弾圧だからです。ソウル教区聖職者団は、このような悲しい事態を二度とこの地上に起こしてはならないという決意で、聖域の神聖性に対する保障とすべての宗教弾圧の禁止、及び人間の尊厳性回復についての当然の要求が貫徹される時まで、無期限断食し、叫び、祈ることを決心しました」(ソウル教区共同週報1987.7.12、聖堂守護のための大韓聖公会ソウル教区断食司祭団「牧会書簡」)。

金泳三(キムヨンサム)、金大中(キムデジュン)、安炳茂(アンビョンム)(韓神大)、文益煥(ムンイックァン)(民統連)、呉在植(オジェシク)(NCC)その他、有名無名の多数の人々が訪問し、断食司祭団を激励した。訪問者名簿の中には英国領事マクネディの名前も見える。

ところでこの時期、長老派の機関紙『基督公報』は、在日同胞の人権問題や在日大韓基督教会の様子を何度か報じ、読者の関心を喚起している。その一つは「韓国人の名前を正しく呼んでほしい──日本に偏見のない裁判を求める 母国で署名運動」(1982.2.27)と題する記事である。

「日本放送協会(NHK)を相手どって名前を正しく呼ぶように裁判所に訴訟を提起し闘争中である崔昌華(チェチャンファ)牧師が来韓、本教団の支援を受け署名運動を行い、20 日に日本に戻った。……

崔牧師は、署名運動の目標を10万名に設定し、20日帰国した後にも全国の教会が継続して署名運動に参加し、日本へ郵送するように要請した。本教団[注・大韓イエス教長老会統合]総会ではこれに全国教会で参加し、勧奨することに決めた。」

韓国で民主化闘争が燃え上がっていた同じ時期、在日韓国・朝鮮人の人権を回復するための運動が高潮していたことを心にとめたい。                

(日本聖公会司祭)