日韓の資料を読んでの断想5 朴大信(パクテシン)

『日韓キリスト教関係史資料Ⅲ 1945-2010』(新教出版社、2020年)より

■第Ⅲ部「戦後補償問題を含む日韓の交わりと統一への模索(1987-2010)」

いよいよ最後の時代区分に入った。韓国における民主化時代が本格的に幕を開け、民族の平和と半島の統一への願い、努力、機運が一気にうねり出していく時代である。私自身も、この時代の空気ならばようやく肌感覚で分かる、というものが少なくない。1988年のソウル・オリンピックの国民的熱気、その政治的高揚などは今でも記憶に新しい。

ところで、2021年秋、盧泰愚(ノテウ)・全斗煥(チョンドゥファン)両元大統領が立て続けに死去した。軍事独裁政権に終止符が打たれ、時代が渇望する民主化へと大きく転換した時期を象徴する二人である。今や過去の人となってしまったが、その歴史的評価は、時代の「今」を生きる者たちによって、絶えずこれからもなされ続けるだろう。もちろんここでは、その論評が目的ではない。ただ、一つ、両者に共通して今なお韓国社会で問われ続けていることは、やはりあの「光州事件」(1980年)に対する責任である。ちなみに韓国では、これを「5・18民主化運動」と呼んでいるが、この光州で起きた政府の弾圧と暴虐に対する民衆たちの尊い犠牲と運動が、その後、1987年の民主化実現に繋がったという積極的な意味が込められている。

さて、私の関心は、弾圧した権力側への責任追及そのものではない。むしろ圧政に屈することなく立ち上がり、犠牲を伴いながらも闘い抜いた民衆たち、中でもキリスト者たちの「闘い方」とも言うべきものに心が射抜かれるのである。そこに学ぶべき歴史、継承すべき知恵があり、生きた鼓動がある。そしてわれわれキリスト者が、これから新たな歴史を形成してゆくためのパトス(パッション)が秘められているからである。歴史とは、ただ文字化され、化石化した過去の事実や事件の集積のことではないことを、改めて思う。その歴史的出来事を担った先人たちが見つめていた現実と未来、特に、かれらの眼差しを捕らえていた信仰的ヴィジョンに、われわれ自身も引き込まれてゆくとき、そこに創造的な対話を呼び起こし、さらなる歴史形成的な連帯をも鼓舞するものであるに違いない。その意味で、韓国の民主化と南北の平和統一のために貢献し、多くの民衆たちの支持を受けて、やがて大統領になった故金大中(キムデジュン)氏の言葉が、一筋の輝きを放つ。彼はかつて内乱首謀者として死刑判決を言い渡された時に、その最終陳述で次のように語った。「わたしは、わたしに対する寛大な処分よりは、ほかの被告に対する寛容を望む。一昨日(死刑の)求刑を受けた時、わたしにも意外に思えるほどわたしの心は静かであった。それはわたしがキリスト者として、神の赦したもうところであるならば、この裁判部を通してわたしは殺されるであろうし、そうでなければ、この裁判部を通してわたしは生かされるであろうと信じて、すべてを神に任せているためだと考える」(766―767頁)。

一歩も引くことなく、自分自身のすべてを神に委ねきる。神の真の裁きと正義こそが、ここに貫かれることを信じ、待つ。崖っぷちに立たされた金氏が抱いた驚くほどの静けさと確信は、決して一朝一夕に到達できるものではないはずだ。だからこそ、ここに至るまでの彼の真実なる姿がくっきりと浮かび上がる。彼は、自分の信念や正しさをゴールにして闘ったのではなく、自らにその確信を与えるところの神の義にこそ捕えられ、突き動かされて来たのではなかったか。そしてそれは、絶えず神の御前で悔い改めさせられながら、自らの歩むべき道が示され続けて来たことでもあったに違いない。

このような姿は、しかし金氏一人だけに見られるものではない。例えば、韓国民主化闘争を準備する上で重要な目印の一つとなった「一九七三年韓国キリスト者宣言」には、既に次のような一文が掲げられている。「(1)…今日われわれを動かしているのは勝利することを期待する感激ではない。それはかえって神に向かっての罪責の告白からくるものであり、韓国の今日の状況の中で真理を語り、それに従って行動せよといわれる主の命令からくるものである」(245頁)。

あるいは、南北の分断の状況を受けて、1988年に世界教会協議会(WCC)が主催して開かれたグリオン会議での「韓半島の平和と統一のためのグリオン宣言」では、以下のような「信仰的決断」が謳われた。「私たちは、神が歴史の主であり、あらゆる状況において歴史を創造され、また人間のすべての歴史を裁かれることを信じる。平和の主としてこられたイエス・キリストは力によって平和を売り渡そうとする人間の傲慢と貪欲を拒否された。恵みの御使いである聖霊の働きは、反目と憎悪によって隔てられた人間と人間の間の中垣を取り払い、私たちはその血によってあがなわれた聖なる共同体に招かれていることを信ずる。

こうした私たちの告白に基づいて、私たちは過去40余年間、韓半島を引き裂いてきた反平和的・分裂主義的な歴史を改めて反省し、私たちが神と人類の歴史の前に誤まりを犯してきたことを告白せねばならない」(697頁)。

こうしてみると、韓国のキリスト教には、様々な政治的逆境の中で、支配への抵抗だけでなく、自らの罪責を告白する信仰にこそ立ちながら積極的に歴史に寄与し、歴史そのものを形成して来た側面がある。そしてそれが、日本や在日同胞、また世界のキリスト者たちとの連帯をも生み出したと言えるだろう。

そもそも闘いや抵抗の精神は、福音に内在する真理だとも言える。しかしそれが、この世の闘いと異なる点が一つあるとすれば、その最終目的が、自己主張や権力打倒に置かれるのではなく、その闘い自体が、キリストを証しするものとなり、主にある和解の実現のために用いられる、ということにある。これはあらゆるキリスト者、また教会にとってすぐれて今日的課題であろう。キリストは、自己主張ではなく自己犠牲の道を歩まれて十字架に磔にされた。今もここに、真の平和をもたらすために。神の言葉において、「キリストのみに固執することから、逆説的に、世界と人間に対する開放性が生まれるのが、福音の論理である。キリストを通して、苦しむ民衆との連帯も、戦う教会との連帯も、生まれる」(573頁)。

本書に出会った幸いを重ねて感謝し、一人でも多くの読者が生まれることを期待する。マラナ・タ!

(日本基督教団 松本東教会牧師)