エレミヤのくるしみと私 小友 睦
エレミヤの苦難について幾つかの著書や論文を漁りました。師と説教者が預言者エレミヤの苦難について話していますので、それ以上踏み込むのは学問的な議論になります。今日の状況でエレミヤの預言を読み、そこで苦難をどう解するか、具体
的に私の証しとしてお話しします。預言者とはその時代の社会で、神が預言者を通して神の言葉を投げ掛けた。それは今日の状況での苦難に共通するのではないか。エレミヤは神と社会の間にあって、苦悩しつつ預言し続けた。それに共感して預言を書き記した人がいたいうことは、その人も苦悩していたからではないか。
このことで一冊の著書、と言うか人物がすぐに思い当りました。岩田雅一『岐路に立つ―六ケ所村の人々と共に』(新教新書1990年)です。この著書に書かれるのはエレミヤを通してみた、岩田牧師の苦難の歩みです。岩田牧師は一昨年亡くなりましたが、岩田牧師の牧師としての40年は、エレミヤの預言者としての40年と重なります。六ケ所村、即ち核燃料サイクル問題を抱える只中で、エレミヤ書を教会員と六ケ所の人々と共に読む。アジアの東の果ての日本の地方の片隅で、そこに生きる小さき人々が国家権力と対峙して生きている。その中で住民は余りにも小さい。でも声を上げずにはいられない。しかし国家は住民の声を無視し、人間にとっても自然にとっても最も危険な施設、それも未だに稼働することが確定できない施設を強引に作っている。国のなすことは住民と村をお金で懐柔する。姑息です。岩田牧師の牧師としての生涯は六ケ所村での活動そのものでした。
私は青森県生まれ、育ちです。場所は多少離れていても、現地で起きたことは、核燃料サイクルの誘致以前の政治的な争点―むつ小川原(おがわら)開発―として幼い頃からずっと見ていました。青森県は当地の開発で失敗を繰り返して来たことから、その開発に区切りをつけるためにも、巨額の補償が確実にある核燃料サイクル誘致が目標となりました。でもそれは私が高校を出て、東京の大学に行ったことで地元の問題として一旦は切れたようなものです。それ程、東京では、教会でもこの問題が掲げられることはなかった。しかし六ケ所ではその間にも確実に施設誘致計画は進んでいて、誘致は既成事実化していました。そして六ケ所の問題が私個人に直接の問題、というか苦難として身に降りかかることになりました。全ては38年前に始まります。私が大学四年の時、青森県職員試験で合格したにも拘らず採用されませんでした。前日に知らせが来たのです。その理由は分りませんでした。それで私の父が、当時の県庁の人事担当者の顔見知りであったので、聞いて判ったことです。私が日本基督教団の教会員であることを履歴書に記載されているのを県知事が見て、怒ったということが理由でした。当時、六ヶ所村に核燃料サイクルを誘致することが県知事の承認で決定していました。折しもチェルノブイリ原発事故と重なって、青森県民の多くが反対していたにも拘らず。奥羽教区も反対声明を知事あてに送っていたのです(この経緯が岩田牧師『岐路に立つ』に詳細に記してある)。それで同じ日本基督教団に属する教会員の私を除いた。採用に当ってそういう判定は起り得ることでしょうが、ショックであったことは確かです。
私はそれだけが理由で青森県に帰ることはないと決めた訳ではない。問題はクリスチャンである母の直後の行動でした。母は地元在住の青森県議会議員の家に行って、お金を渡し、知事の判断を変えて欲しいと願い出た。コネで動かそうとした。公務員等の採用に当って客観的な試験の結果ではなく、その背景では地縁や物(お金)で採用が左右されていた。これはあってはならないことではないか。東京では「そんなことはあり得ない」「あなたの勘違いではないか」と指摘されました。でも地方ではそれが当り前。寧ろ地方の日常であり普通の感覚でした。
私は大学法学部での学び、それは憲法や行政法の解釈でも、議員や公務員は憲法と行政法の精神の下、公正で誠実でなければならない。それが法律の趣旨。それが一方では硬直化だとか、官僚的だとか指摘されるでしょうが。私が20歳そこそこの若さから来る正義感もあったかも知れない。クリスチャンであるなら義理人情や物でなく神にまず従う。神が公正と誠実の根源である。それを差し置いて地縁や物でもって人を動かそうとする。それが日常である地方が寧ろ息苦しかった。地方を出て都会で学んだことはその意味で大きかった。都会の教会で受洗したのです。
公正と誠実からしても、この世での行動とクリスチャンであることを分けることはできない。なぜなら私自身、日本基督教団のクリスチャンであることで地方では差別を受けたから。それ以前の過去に戻すことはできない。理不尽なコネが日常的に残る、それが日常の青森には住むことはしないと心に誓ったのです。柔軟性が無い。冷たいと言われても。それで極度に心を病んだのです。母は(父も)こういう私の心情を察したのでしょう。それ以降何も問わなくなりました。後に両親とは和解しました。
当時は孤独でしたが、私の一連の出来事の証しを、唯一人涙を流して理解してくれた神学生がいました。その方は私が二戸教会に赴任した時、偶然にも奥羽教区の小さな教会の牧師であった。これも聖霊の導きでしょう。エレミヤの召命は20歳位ともされますが、その強烈な召命観と正義感は唯若さから来るものだとは私は考えません。
私は10年前に神学校からの、ある意味指名で今の二戸教会に赴任しました。二戸教会は日本基督教団の奥羽教区に属し、同地区(北東地区)に核燃料サイクル施設があります。恥ずかしいことですが、二戸教会に来るまで奥羽教区で核燃料サイクル問題について、教区の課題の中心の一つとして取り組んできたことは知りませんでした。実はこの問題は二戸教会にも関わるものでした。と言うのは岩田牧師が八戸柏崎教会の牧師であった時に、この問題を教会として掲げる岩田牧師に反発して二戸教会に転会した信徒がいたからで、その方はことある毎に岩田牧師の批判を私にぶつけたのです。その方は五年前に亡くなったのですが、核燃関連の仕事をしていたらしい。岩田牧師は八戸柏崎教会とは決裂し、自分で伝道所(八戸北伝道所)を開拓した。それは岩田牧師のある意味エゴで建てた伝道所と言っていい。岩田牧師も「自分が死んだらこの伝道所もなくなる」と証していました。
その岩田牧師が一昨年亡くなりました。それで岩田牧師が先導して関わって来た核燃料サイクル問題をどうするか。どう継承するか。中心となった担い手が亡くなることで教区で問題となり、それは当事者の地区である北東地区でどうするか。地区にまず投げ掛けられました。その最中に私は北東地区の地区長に選出されたのです。地区協議会と地区総会でも、この問題をどうするか、議題として取り上げました。しかし継続審議のままこの活動はストップしています。地区長である私に対処が投げられているのを感じるのです。この問題を継続するにしても、縮小するにしても、終了するにしても、私の任期中にはある程度の方向を出さざるをえない。最低限これまでの活動を纏めないといけないのです。
核燃料サイクル問題については、奥羽教区に来てからはずっと聞いてきましたが、深く関わることはないと、私自身は距離を置いてきました。それがあの38年前に、私個人に降りかかったことが、再び私に降りかかったのです。それは私が避けようとしても避けられない現実でした。こういうことがあり、岩田牧師『岐路に立つ』を改めて読むことになりました。苦難は繰り返されるのです。その先については。
最後に神学的に。ヴェスターマンは、民と共に苦しむエレミヤが描かれても、神の審判預言を語ることで逆に迫害され、殺されそうになるエレミヤの苦悩を描くものとします。エレミヤは、バビロンの宮殿で守られるという申し出を断り、ユダでエレミヤは迫害されても、打ちひしがれる残留民と共に歩む道を選んだ。ヴェスターマンは、エレミヤ45章4―5節に「神の苦難」を見るとします。即ち神御自身が建てたものを破壊する。それは神の苦難であるけれども、それはイスラエルの民として生きるエレミヤ自身であり、その神の苦難を語るエレミヤ自身も苦難そのものなのであると。その苦難の向こうにあるもの。エレミヤは新しい契約と預言しながらも答えを示さず、それは第二イザヤの贖罪の預言に繋がるものであると。(注)そうかも知れません。尚更にイエスの十字架の苦難、何より復活に至るしかないでしょう。(注)C・ヴェスターマン『預言者エレミヤ』(新教出版社、1998年)
(日本基督教団 二戸教会牧師)