発題と応答

【応答】飯島 信牧師の「基督の他、自由独立」と「主に在る友情」―韓国共助会の新たな出発を願って―に対する応答 天安サルリム教会牧師 崔 亨黙(チェヒョンムク)

(通訳 長尾有起)

飯島信牧師の発題を何度か繰り返して読みながら、どう応答すればいいのか悩まざるを得ませんでした。直ちに単刀直入に答えを出すことは困難でした。飯島先生の論旨は明らかで、期待することもまた明らかです。韓国基督教共助会が再開することを期待し、そのためにこの場で具体的な約束をしましょうということです。このように期待されていることと求められていることが明らかなわけですが、答えを出すことが難しい理由は何でしょうか?

まず、歴史の重みのためとでも言いましょうか。 飯島先生は日韓基督教共助会の交わりが持続されるべき必然性を一つの「言葉」と一つの「できごと」を通じて力説なさっています。「言葉」が即「できごと」という意味となるヘブライ語「ダバル」を連想させるように、です。その言葉とできごとは、過去に日本が韓国に対して犯した罪科に対し、心から懺悔する良心の声を聞き、日本と韓国のキリスト者の間に真の友情が築かれた契機、その出発点を喚起するものです(李 栄環이영환先生の回顧、尹ユン 鍾ジョン倬タク윤종탁牧師と和田 正牧師の出会い)。これに加えて、飯島先生は日韓の間の関係で重要な1970―1980年代の歴史を喚起しています。 韓国の民主化と人権のための運動の第一線に立った韓国のキリスト者たちは、それに対する日本のキリスト者たちの支援と連帯の力が非常に大きかったことを知っています。韓国の民主化と人権の伸展、ひいては平和統一運動が今日に至るまでには、国際的連帯もまたなくてはならないものでした。その国際的連帯の中心に、日本のキリスト者たちがいました。飯島先生は、またその中心に日本の基督教共助会があったことを証言してくださっています。過去の歴史に対する反省が懺悔の〈言葉〉で終わるのではなく、絶え間ない連帯の〈できごと〉につながったということを共助会が見せてくれたわけです。

その経験は、飯島先生の言葉通り「日韓両国の未来に、ひいては東アジア全体の平和と和解実現に向けた歩みに、二度と取り戻す事のできない宝」ということになるでしょう。否定することのできないこの歴史的な真実、そしてそれが与える重みの前に「アーメン!」というほか、どんな答えができるでしょうか。このように、歴史的重みの前であれば、むしろ答えを容易に出すことができそうです。

ここに集まった韓国側の参加者は皆、その歴史の重みを実感しており、その歴史を継承していかなければならないことに同意していますこの場に同席していること自体が、その志を共にするということを意味しています。そのため、大切な「宝」を失ってはならないと思っており、様々な形で展開されている韓日間の連帯活動に大概参加しています。

まさに、簡単に答えることができなかった理由は、現実的なところにあるのかもしれません。現実的に評価する時、日韓の間の市民社会および教会間の連帯活動は多角化し、かなり活発に展開されているのに比べ、基督教共助会による連帯活動は実質的な活力を持つことができずにいます。

 例えば、教会的レベルだけで見ても、両国のNCC及びその関連分野別の連帯(例:URM、移住民、障がい者、女性など)が最近再開されており、教団間(例:韓国基督教長老会・日本キリスト教団)、老会・教区間(例:ソウル老会・東京北支区、大田대전老会・京都教区など)、教会間(例:ソウル第一教会・西片町教会など)連帯活動が続けられています。それだけでなく、沖縄米軍基地問題及び東アジア平和のための日韓の宗教間の連帯活動も展開されています。今、ここに同席している韓国側の参加者の大半は、その中で少なくとも一つ以上、日韓の連帯活動に関与しています。

一方で、1992年に韓国基督教共助会が設立されて以来、共に働かれてきた方々の大多数が神さまの御許に行かれ、後の世代がつながっていないという実情があります。後の世代が続かないのは、日韓の間の連帯活動の意義がなくなったためではありません。それよりも、共助会を通じた連帯活動に参加しなければならない直接的な動機を持つ人々が希薄だからです。共助会は個人単位で参加する形なので、何か直接的なきっかけが与えられない場合、参加動機を持つことは容易ではありません。もちろん、今回の韓日修練会のようなものも、参加する動機を生み出す一つのきっかけになることはできるでしょう。しかし問題は、ここにいる韓国側参加者の多くが、異なる日韓の連帯活動に比較的積極的に参与しているということです。このような実状は、共助会への参加を誘発するよりもむしろ制約する要因になりかねません。

結論的に言えば、共助会を通じて蒔かれた種が実を結び、日韓の連帯活動はより活性化された反面、共助会自体を通じた連帯活動は弱まっている状況なわけです。このような状況で果してどうすれば良いでしょうか。一つの種が落ちて豊かな実を結ぶようになったことを嬉しく思い、よりしっかりと実を結ぶように努力する方向へ進んだ方が良いのではないでしょうか。すぐさま「解散」であるとか「復元」であるとか、そのように結論を出そうとするよりも、朽ちて実を結ぶ小麦の意味を心に刻み、未来に向けた方策を模索すべきではないでしょうか?(天安サルリム教会牧師/韓国キリスト教長老会総会の教会と社会

委員長/NCCK正義平和委員長)