だれでも救われる 土肥 研一

モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。

これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。(ローマの信徒への手紙一〇章五~一三節)

昨日、2017年3月11日、東日本大震災から丸6年の日、私は1日中、パソコンの前にすわり、説教に取り組んでいました。

6年前を思い出します。あの大震災の翌日、私は息子の保育園の卒園式に行きました。余震があり、東京も電力の制限があり薄暗い中でしたが、ともかく彼は卒園しました。そして今月、彼は小学校の卒業式を迎えます。

私はこの6年間、彼が成長していくのを間近に見せてもらう幸いに与りました。彼が洗礼を受ける、というこれ以上ない喜びにも与りました。

説教の準備をしながら改めて迫ってきたのは、あの震災によってこの喜びを奪われた、たくさんの方々がおられる、ということでした。幼な子を奪われた、お父さん、お母さんた ちの嘆きを思いました。その方々にとっては、六年前で、我が子の成長が止まっているのだ、と知らされました。

今朝の朝日新聞の天声人語には、6歳の娘を震災で失ったお母さんの言葉が引用されていました。「ママがそばにいなくて寂しくないですか?お友達とは仲良く一緒に遊んでいますか?ちゃんとご飯は食べていますか?」私の息子と同い年です。このご家庭でも小学校入学の準備をしていたはずです。しかし入学式に出席することはかないませんでした。

迫り来る津波から必死に逃げる途中、ふとした拍子に、家族の手を放してしまった方の思いを伺ったことがあります。「取り返しのつかないことをした」。その嘆きの大きさは、私には想像もつきません。「サバイバーズ・ギルト」という言葉も知りました。愛する者が死に、自分は生き残った。そのことを、恥と感じ、罪と感じる、そういう思いに苦しむ方が、今もおられます。

そのお一人おひとりにとって、今日のパウロの言葉は、どういう慰めになるだろうか。そう考えないでは、いられませんでした。今日のこの短い箇所の中で、3度も「救われる」という言葉が出てきます。9節、10節、13節とパウロは「救われる」「救われる」「救われる」と繰り返すのです。一体この言葉は、今苦しんでいる方々にとって、どういう意味を持つのでしょうか。

書いては消し、書いては消し。いつにも増して、なかなか説教が書けませんでした。聖書を読み、思いを巡らし、糸口をさがす中で、震災から間もなくして被災地を訪問した際のことを思い出しました。

今年2017年は、3月1日に受難節に入りましたが、6年前のあの震災の年はさらに遅く、3月9日が受難節の始まり、「灰の水曜日」でした。そしてその2日後の金曜日、11日に地震がありました。さらに2日後の3月13日に、受難節の第一主日を迎えました。つまり被災したクリスチャンの方々は、イエスさまの十字架の御苦しみをしのびつつ、大地震の直後の日々を生きたのです。

仙台で働く牧師が、おっしゃっていました。震災のさなか、十字架の主と共にある、それが「どんなに大きな慰め」であったか。それまで、どこか他人事であった「十字架の福音」を「ど んなに新しく、深く」知らされたか。そのことをポツリ、ポツリと語ってくださったのをよく覚えています。

別の神学者から伺った言葉も、忘れることができません。「たくさんの方々が津波で流されてしまった。私はこう思っているんです。その人々と共に、十字架につけられた主イエスが流されていったのではないか」。鮮やかなイメージです。十字架のイエスさまが、ずっと一緒にいてくださった。この六年間、私の頭から離れることがない、言葉となりました。

今日の御言葉において、パウロは言っています。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中か ら復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」。

大地震の後にお聴きした、あのお二人の言葉を重ねることで、このパウロの言葉の意味がようやく、私に響いてきました。「イエスは主である」。この言葉がやっと、私の中で具体的な像を結んできました。

受難節第2主日の今日、そして震災から六年を覚えつつ礼拝する今日、私たちはこの「イエス」という御名に、特に「十字架」のイメージを重ねたいと思います。「イエスは主である」。それは、十字架を負うイエスさまです。十字架へと向かって地上の生涯を送り、十字架につけられ、そして死者の中から復活された、あのお方が、私たちの主である。

「イエスは主である」。このイエスさまは、私に代わって、私と共に、苦しみを負ってくださるお方です。この十字架のイエスさまが、私と共にいてくださる。この「共にいてくださる」という形において、イエスさまは私の主であってくださる。それを心で信じ、口で表すときに、私たちは救われる。

心は、しばしば私たちを裏切ります。だから口でも言い表します。礼拝の中で、祈りの中で、私たちは主の名を口にします。それは教会がリレーのバトンを渡すようにして、大切に受け継いできた宝です。「イエスは主なり」。

神学生だったとき、同級生が言っていました。目白駅から聖書神学校に向かう道で、気がつくといつも「主よ」「主よ」とつぶやいている。はたからみたら、ちょっと変な人ですけども、でもその気持ちは痛いほど、よくわかりました。心で祈るだけでは足りないんです。思いが口をついて出てきます。苦しい神学校生活を、彼女はそうやって乗り切っていきました。

一足一足。一息一息。主の名を呼び続けることによって、自分の心が作られていきます。主が共にいてくださる。それを信じさせていただきます。

その主は、十字架を負うお方です。しかも、このイエスさまは、神によって死者の中から復活させられたお方です。復活の光の中にあるお方です。

以前にもご紹介しましたが、澤崎堅造という伝道者の言葉が私は大好きです。澤崎先生は、私たち目白町教会とも関係の深い、共助会の先達であり、戦時下の中国伝道を志し、海を渡った方です。その澤崎先生が、記しています。復活のキリストは十字架から降りたのか。そうではない。復活のキリストは、十字架の木を背負ったままのお姿で、この地上を歩まれるのだ。「十字架につけられたままの復活のキリスト」。これも私の頭から離れないイメージです。

私たちは洗礼を受けて、この十字架のキリストと、ひとつにされたのです。私は「十字架の、復活のキリスト」と一つに結ばれている。このお方が私の主である。それを心で信じ、口で公に言い表す。それによって、私たちは救われる。

「救われる」。それはすなわち、「なお生きる」「なお生かされる」ということです。十字架のキリストに支えられて、十字架のキリストとともに、十字架のキリストに背負われるようにして、生きる。悲しみの極みを越えて、なお生きていく。これが「救われる」ということです。主によって新しい命をいただく、ということです。

救われるとは、「なお」生かされること。そのための新しい命をいただくこと。私はこのことを、つい先日、ある小さな新聞記事から教えられました。

作家の高橋源一郎さんが、毎日新聞で人生相談を書いているのをご存知でしょうか。私は、彼が書くものが好きで、高校生の時から30年近く読み続けてきましたが、先日、彼が記した人生相談への答えは、まことにすばらしい文章でした。

こういう質問でした。20代半ばの女性からのものです。「1年ほど前、思いがけない妊娠をして中絶しました。ほかに選択肢はなく、失われた命のためにも前向きに生きなくてはと言い聞かせています。でも何かを始めようとポジティブになるたびに、『恐ろしいことをした。取り返しがつかない』という気持ちが押し寄せてきます。自分の経験とどう向き合えばよいでしょうか」。

重い問いです。これに対し、みごとな答えをします。「あなたは一つの生命を奪う、という決断をしました。そのときから、 あなたには責任が生まれました。『善く生きる』という責任で す」。

続けて、あるユダヤ人女性の経験が紹介されます。彼女は 十五歳のときにアウシュヴィッツに連行されました。一緒に いた八歳の弟が靴をなくしていまい、「なんて馬鹿なの!自分のこともできないなんて」と言った。悲しいことに、それ が弟への最後の言葉となってしまったのです。

アウシュヴィッツで弟は亡くなり、姉は生き残りました。 それを知ったとき、彼女は誓いました。「それが最後の言葉となるとしたら、耐えられないような言葉を、二度と言わない」。 彼女は、つい漏らしてしまった一言、取り返しのつかないあ の一言のゆえに、「善く生きよう」と誓ったのです。

これをひとつの具体例として提示した後で、高橋源一郎さ んはこのように文章を結んでいます。「苦しみを忘れない限り、 あなたの生涯は他の誰よりも豊かになるでしょう。そして、 いつかきっと気づくはずです。それが、生まれなかった子ど もから、あなたへの贈り物であったことを」。

私は、ここに「救い」について記されていると思いました。 聖書における「救い」とは、起きてしまった出来事が「なかっ たこと」にされるということではありません。犯した罪や過 ちが帳消しにされる、ということではありません。

相談者は「取り返しのつかないことをした」という思いに、 さいなまれています。冒頭にご紹介した、愛する家族の手を 離してしまった方もそうです。これは、私たち一人ひとりの 思いでもあるでしょう。私たち、それぞれに密かに、チクチクするようなこの思いを心に隠して、生きてきました。「取り返しのつかないことをした」。

それをよくご存じの神さまは、私たちに、おっしゃいます。 その思いを抱えたまま生きよ、「なお生きよ」。神さまは、そ う命じてくださいます。

高橋源一郎さんは、「その苦しみを忘れずに、善く生きる責任が、あなたには、ある」と説きます。その通りです。しかし罪の私たちが、どうして「善く生きる」ことを始められるでしょうか。この責任をどうして果たせるでしょうか。

聖書の福音を信じる者は、ここにさらにもう一言、付け加 えることができます。そのあなたに、伴ってくださる方がある、と。十字架の、復活のイエスさまが、共にいてくださる、と。

大切なのは、そのお方の御名を呼び続けることです。今日の聖書個所の最後にパウロは言います。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」。

主の名を呼ぶ。「主よ」「イエスさま」、この尊い主の名を呼び続ける。私も、大学生の時に偶然のようにして教会へと導 かれ、わからないままに、多くの方々と一緒に、そして一人で、 主の名を呼ぶ生活を始めました。振り返れば、そうして開か れていった道において、いつの間にか少しずつ、知らされてきたのだ、とわかります。信仰の心が形づくられてきたのだ、 とわかります。「このお方が私と一緒にいてくださる」。

取り返しのつかない、悔やんでも悔やみきれない、あの出来事さえも、主の名を呼び続ける道の途上で、きっと新しい 意味を与えられていく。私を、なお生かす、力に変えられて いく。そのことを私も希望しています。

私たちは、救われるのです。だれもが、救われるのです。「あ なたを救い、あなたをなお生かすために、あなたに伴ってく ださる方がある。その方の名を共に呼ぼう」。そのように世を 招くこと。そこに、十字架を高く掲げる教会の使命があります。

共に祈りましょう。

(日本基督教団目白町教会 伝道師、 2017年3月12日 受難節第2主日