【1日研修会 開会礼拝】ハンセン病問題と私 飯島 信
わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家の ように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てて います。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。 イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だ れもほかの土台を据えることは出来ません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるの です。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕 事がどんなものであるかを吟味するからです。 (コリントの信徒への手紙1 第3章10―13節)
数年前、青森で行われた共助会の集まりの後、ハンセン病国立療養所松岡保養園施設長である川西健たけ登とさんに新青森駅まで車で送っていただいたことがありました。駅に着いた後、 東京行き新幹線の出発までの短い時間の間、川西さんは私に 次のような内容の話しをしてくれました。「ハンセン病の歴史 の中で、この問題に関わったこれまでのキリスト者の在り方 が厳しく問われています。この問いを、私はどのように受け 1日研修会(前列右から4人目が浜崎神父です)止めたら良いのかを考えています」と。私は川西さんのことはずっと前から知っていましたけれど、個人的にこれまで親しく話した経験はありませんでした。その川西さんが列車の 出発を待つ短い間でも私に話してくれたことは、ただ聞いただけでは済まない内容を持っていると思いました。
私がハンセン病問題と初めて出会ったのは、学生時代のことです。自主映画作品である「厚い壁」を作った監督を教会 に招き、映画を上映しました。しかし、それ以降の人生の中 では、時折思い出したようにハンセン病問題に触れる程度でした。共助会の先達である原田季すえ夫お の長島愛生園での取り組みに触れた奥田成孝(しげたか)先生や小笠原亮一さんの『共助』掲載の文章、映画「砂の器」、『ライは長い旅だから』の詩と写真集、 ハンセン病療養施設の1つである栗生楽泉園に詩人の桜井哲 夫さんを訪ねたこと、あるいはそこで買った詩集『うたのあ しあと』(C・トロチェフ)に目を通したこと、そのような歩み だけでした。
気になりつつも、正面からこの課題を考えることのなかっ た私への川西さんの言葉は、重いものでした。それは、共助 会を支える柱の1つである「主に在る友情」を私に問うもの でした。川西さんが問うている問題は、私も考えなければな らない、いや少しでも1緒に考えることが出来ればと思いま した。その時思い浮かんだのは、澤 正彦さんの長女の沢知恵 さんです。確か知恵さんは、大島青松園との関わりを持って いたはずです。詳しい経緯は知りませんでしたが、私は知恵 さんを訪ね、彼女とハンセン病との関わりを知りたいと思い ました。 そして、昨年、彼女の自宅に行き、しばらくの語らいの時 を持ちました。
私は、知恵さんと言葉を交わしたのはそれが初めてでした。 お互いに顔と名前は知っていましたが、それまで言葉を交わしたことはありませんでした。しかし、基督教共助会との繋 がりだけで、旧知の友のように語らうことが出来ました。
語らいの中で、彼女が、しばらく休会していた大島青松園 での礼拝を月1回、その月の最後の週に再開すると決めたことを聞き、又礼拝を担当する牧師を探していることを聞きま した。話の途中まではただ聞いていただけでしたが、「牧師を 探している」との言葉が私を突き動かしました。「牧師なら、 私がそうではないか」と。小学生のお子さん2人、彼女と3人だけでも礼拝を守るという知恵さんの言葉に、私は手帳を開き、午後に教会の仕事が入っていない第5週のある月なら引き受けられるのではないかと思いました。さらに、知恵さんから、大島青松園にいる4人のクリスチャンが皆神様のもとに召されても、大島青松園がある限り礼拝を続けようと思っています、との言葉を聞き、何か退路を断たれたように思いました。
私の教会の事情を言えば、赴任してまだ数ヶ月しか経たない立川教会です。役員会で了承されるだろうかとの思いもありましたが、礼拝メッセージで知恵さんを訪ねたことに触れ、役員会で大島青松園の礼拝を担当する提案をしました。結果として、教会から派遣していただくことになり、第5週は、 私に代わって役員が交代で講壇に立つことになりました。
今日お招きした浜崎眞実さんと出会ったのは、沖縄の基地 問題を考える集まりが最初です。ある時、浜崎さんから送られて来たメールに、皆さんに送ったハンセン病問題の資料が 添付されていました。沖縄問題で出会った浜崎さんが、ハンセン病問題にも取り組まれていることを知り、まず浜崎さんから話を聞くことから始めようと思い、この研修会に来てい ただくことにしました。
川西さんに対する応答の初めであり、又先達・原田季夫の 取り組みの跡を辿ることも又、私たち共助会の課題として意 味あることだと思うのです。
ところで、ここ数年、共助会の先達の歩みに関わって問わ れていることがあります。
1つは〝熱河宣教〟に対する批判であり、あと1つは〝ハ ンセン病〟問題に取り組んで来た宗教者への批判です。〝熱河 宣教〟については、京都共助会の月例会で取り上げられ、先に結論ありきの熱河宣教批判の持つ問題性が指摘されました。 さらに、2013年度の京阪神共助会修養会で、先達らの熱 河宣教の跡を追う学びの場が準備され、その報告が『共助』 2014年第2号に掲載されています。それらを踏まえつつ、 共助会の熱河宣教との関わりについては、もう1度この研修 会の場で取り上げ、指摘されている問題に対する責任ある応答をして行きたいと思います。
後者の事柄については、今回の学びを出発点として、問題 の所在をしっかりと理解し、ハンセン病問題に取り組んで来 た共助会の先達らの歩みを追いたいと思います。そして、こ れまでの宗教者の関わりの何が問われているのか、そのこと を私たちはどのように考えるのかを考えて行きたいと思いま す。
この時、私の中に生れている問題意識について述べたいと 思います。
それは、1つは〝善意〟という問題であり、後1つは〝当事者〟 という問題です。ここでは、〝善意〟は関わる側に用い、〝当事者〟 は、善意を受ける側に用います。問われている共通の問題は、 個別の善意が、大きな枠組みで見た場合、その問題の本質か ら当事者の目を背けさせる役割をして来たのではないかとい うことです。 熱河宣教の場合、宣教の担い手の側の善意には、国策とし ての中国侵略下における〝三光作戦〟への認識の欠如ないし 無視があり、その結果、日本帝国主義の中国侵略に対し、と りわけ「殺し尽くし、奪い尽くし、焼き尽くす」という〝三光作戦〟の現実から目を逸らさせ、作戦を是認する役割を果たしたのではないかという問題です。又ハンセン病との関わ りにおいては、善意の行為が、ハンセン病隔離政策への追従 の中で行われて来た結果、当事者から国策批判の力を奪い、 問題解決を遅らせ、究極の人権侵害を許し続けて来たのでは ないかという問題です。
私は、熱河宣教の問題については、京阪神修養会での主題講演を通し、澤崎堅造の伝道の跡を追い、その時点での私の応答をして来ました。そして、ハンセン病問題との関わりについては、今日以後、真摯にこの問題と向き合って行きたいと思います。(以上、開会礼拝に加筆)