主に在る友情に想う―山本茂男と今泉源吉 飯島 信
【2018年度 基督教共助会1日研修会 開会礼拝】
森明にとって、帝国大学学生基督教共助会の活動は6年、その内1919年の創立当初から2年間の活動は休止状態だったので、実質4年になるかならないかでした。そのわずか4年の間に蒔かれた学生伝道の種は、会の2つの柱である「キリストの他自由独立」と「主に在る友情」によって実を結び、2019年の今年、100年の歴史を刻んでいます。この記念すべき年の冒頭に行われる1日研修会開会礼拝にあたって、私は、私たちの交わりの柱の1つである「主に在る友情」について、先達らの歩みに思いを寄せたいと思います。彼らにとっての主に在る友情とは何であったのか、そして、今ここに呼び集められている私たちにとって、主に在る友情とは何かを考えてみたいからです。
この課題に向き合う時、私はどうしても2人の人物を取り上げなければならないと思いました。森明亡き後の中渋谷日本基督教会主任担任教師となった今泉源吉と、今泉の後を受けて同じく中渋谷の主任担任教師となった山本茂男です。
今泉源吉と山本茂男、この2人は、森明に最も近い存在であり、また森の信頼を1身に浴びた先達たちでした。私は、特に、山本茂男が、今泉が始めた「みくに運動」にどのような態度を取ったのか、そして今泉に関わる彼の「主に在る友情」とは何であったのかを考えてみたいと思います。
1999年秋に行われた京阪神修養会で、大島純男さんは主題講演のⅡで、「共助会と『みくに』運動」と題して発表し、その講演記録がお手元に資料として配布してある『共助』2000年2・3月合併号に出ています。また、この号には、山梨英和中高教員であった藤巻孝之さんの「『みくに運動』の軌跡」と題する論文と、修養会参加者による「みくに運動」をめぐる懇談の内容もフォローされています。何れも読み応えのあるもので、「みくに運動」をめぐる共助会の「主に在る友情」を考える上で、とても参考になりました。
以下、次のようにお話ししたいと思います。
1.「みくに運動」の主張。
2.「みくに運動」を、先達はどのように受け止めていたのか。
3.私は、共助会の「主に在る友情」をどのように考えているのか。まず「みくに運動」の主張です。
お手元の『共助』の30頁から31頁にかけて拾い読みをします。
『みくに』第4巻第9号で、今泉は次のように記しました。
「私がキリストの十字架を信じるのも、それによって霊眼ひらけて、天照大神を拝し奉る1つの手段であることが分かった。」
そして、翌月の『みくに』第10号です。
「キリストは2000年前ユダヤにゐ給ふたと云ふその事實のみ心がひっかかってゐて、主は御霊なりと云ふ方がよく分からなかった私も、近頃やっと眼がひらけて来て、キリストを外に求めるより内に見出して来た。私の持ってゐる神性とか良心とか云ふもの、それがキリストなのだ。ほんとうに自分はわが内にあって生きる神性なのだと気付いて来た。」
今泉は、これらの言葉から明らかなように、キリストの現存を自我の内に閉じ込めます。
続いて第11号では、
「皇國即神國と言ふのはですね『天皇陛下即神也』と言ふことになるのです。そう言ひ切らんが為に、一先づ皇國即神國と表現して居るのです。ですから此の中で1番大切なのは皇國即神國の『皇』と言ふ頭文字なのです。皇國と言ひますが日本では國とは即ち、天皇にましますのですよ。それで次に神國と言ふことですが、これが世界的な言葉で、實に様々な信仰があるわけです。……今神國思想をキリスト教とはまた違って間違って何1000年も信じて居るのがユダヤ人ですね。……自分たちは神國の選民であり他の民族は『ゴイ』即ち豚であると考えて居るのでせう。……義人、善人は自分たちでその他は、悪人ならまだしも『豚』と言ふのですからひどい話しです。」
ここに至って、今泉は「天皇陛下即神也」、即ち天皇を現人神として信じていることを告白し、さらに、
「私はキリスト教の人々がエホバが眞の神であると思ふて居るが、天照大神こそ眞神であらせられ、エホバは實にユダヤ人によって信ぜられる氏神、然もゆがめられた氏神だと思ひます。……今までいかにもユダヤエホバ神と言ふ名前で言はれて来た本當の御本體こそ、天照皇大神であらせられることがわかって来るのだと思ふ。日本のキリスト教は恐ろしいあやまちをして居るのは其處なのです」とまで述べるのです。
つまり、今泉の信仰は、もはやキリスト教と呼べるものではなく、キリスト教とは異質な日本教へと変質しています。その上で、賀川豊彦を1942年発行の「みくに」第8巻第10号から12号にかけて「卑劣な寄生蟲のやうな猶太的の國際愛に心酔し(た)ユダヤ人の代辯者である」と批判し、「賀川氏は、ユダヤ人のため、また自分のため、尊い國體に抗しているのである。實に1日も早く不忠不孝を悔改め、大君の醜しこの御み 楯たてとなって米英撃破のため水みづ漬く屍かばねとなるべきであらう」と記すのです。
それでは次にこのような「みくに運動」を主導した今泉を、先達はどのように受け止めていたのかですが、大島さんは、鎌倉教会で行われた今泉の葬儀にして読まれた清水2郎の弔辞(33頁下段)及び『共助』1969年10月号に掲載されたやはり清水2郎の追悼文(34頁上段)を紹介して、今泉に関わる先達らの主に在る友情とは何であったのかを批判しています。しかし、私は、大島さんの批判について、そのまま同意することは出来ません。清水が語り、また記した弔辞や追悼文と言うものは、その性格から来る限界があると思うからです。
それより、共助会の先達の今泉に対する関わり方として、私はむしろ、「みくに」創刊号が刊行された1935(昭和10)年1月、全く時を同じくして刊行された戦前の『共助』第23号の山本茂男の文章に注目するのです。「現代日本とキリスト教」と題する文章で、山本は次のように記しています。
「……併し乍ら、日本主義の運動と共に、所謂日本的基督教が唱道せられ、或は基督教の日本化が叫ばるゝに對しては、我等はむしろ警戒するの必要を感ずるものである。既に日本は仏教を同化し、儒教を我がものとし、且つ科學的唯物主義にも中毒した。而して所謂日本的基督教は、基督教を日本化し、日本人の血肉たらしめ、そこに新たなる日本的基督教を産み出さねばならぬと云ふ。元より基督教が日本人の血肉となり、生活となるべき事は等しく我等の念願である。けれども基督教を日本精神に同化せしむる事と、日本精神を基督教によりて醇化する事とは、單なる言葉の差異のみではない。それは福音に対するその自覚とその使命の確信とに於て、根本的に相違する態度を示し、異れる結果を招來するものと信ずる。……現代日本の國民主義的運動の白熱せる今日に在りて、基督教徒は確かに篩ふるいにかけらるゝ時代が到來しつゝあるやうである。所謂日本的基督教を唱へて福音の眞理を歪曲し、時代に迎合せむとするが如き態度をとるならば、實に基督教を害するものであって、基督教の敵は即ちわが中に在る事を知らねばならぬ。基督教が歴史の中に生くるものなる以上、其歴史的発展の過程に於て、その時代と場所との制約を受けつゝ其民族的特徴を以てこれに寄輿した事実を認める。乍併、同時に異教的なる要素を加へて混淆的基督教たらしめ、その本質を汚濁し、隠蔽し、堕落せしめたる事實も亦之を認めねばならない。斯くてこそ宗教改革も行はれたのであった。」さらに2ヵ月後の3月発行の『共助』第25号の巻頭言「(『共助』)発刊第3年を迎ふ」でも、山本は次のように記すのです。
「我々は、最近、我が國における日本主義の勃興に伴ひ、或は基督教の日本化が呼ばれ、或はまた教會合同が劃策せられつゝあるのを見る。斯る傾向と風潮の中に在りて、我等の最も努力すべきは、純正なる十字架の福音を大膽に宣傳へ、且つ、福音の眞理を正しく鮮明にするに在る。我々の國における伝統的信念や國民的自負の熾烈になりつつゝある現代に在りては、それは頗る困難である。併しながら、此の福音を拒むならば、その國民と國家とは、それ自ら危機に在る。眞に國家と世界の危機とは、人間主義の上に下されたる神の審判ではないか。人類と國家とは、此の福音によりて新なるものとせられ、神に仕へねばならぬ。基督教は福音の真理を曲げて國家に奉仕せしめてはならぬ。福音に於て、國家と國民を神に献げしむるこそ、基督教の使命である。若しこの福音の眞理を歪曲して徒らに基督教の宣傳を事とし、時代の潮流に投ぜむとするならば、それこそ恐るべき基督教の危機であり、神、基督への冒瀆である。斯る基督教は味を失へる塩であり、呪はれて捨らるゝに至るであらう。本誌は敢て時流に抗して、飽まで純正なる福音の信仰に立ち、益々純粹に音の眞理を鮮明ならしめねばならぬと信ずる。」
ここにおいて、私は、今泉と山本のキリスト教理解に決定的な相違を見ます。その相違とは何かですが、そのためにも「みくに」創刊にあたり今泉が述べた抱負を見てみます。お手元の『共助』24頁上の段、終わりから10行目、最後の段落です。ここで彼は次のように述べています。
「國家の興亡はその神観の如何に關する。民族の特色を明かにし、眠れるを内より覺ます力の源泉は宗教である。之により、政治、經濟、思想一切は新たなる生命を得るのである。國家の維新は宗教改革から生ずるとは史家の教へる所、聖霊による維新こそ皇國の最も急務とするものであらう。」
問題はその次です。
「國民性を眞に生かすは基督教の本質である。基督の血に贖はれた大和魂を以て、聖書の眞理性を闡明し基督教を日本に於て更生せしむる事こそ我等の双肩にかかる重き責任ではないか。ソドム、ゴモラは如何にして滅びたかを痛切に思はしめられる時である。」
つまり、今泉は、基督教を大和魂によって更生せしむる事こそ我らの双肩にかかる重き責任であると言っています。これこそ、山本が繰り返し警告し、自らをも戒めている日本的キリスト教、日本教なのです。つまり、キリスト教の持っている人類普遍の原理を、大和魂と言う日本人にしか通用しない特殊原理へ変質させてしまったのです。
私は、この時期、山本は、今泉の「みくに」運動の主張に同情していたとは思いません。確かに山本にとって今泉は旧制7高時代以来の知己の仲〈同期〉として、また森明の直弟子として、あるいは何よりも中渋谷日本基督教会の前任者として、尊敬し敬愛もしていたと思います。しかし、浅野順1が記しているように、この時期、共に属した高倉徳太郎の「福音同志会」の分裂(20頁)によって、山本は今泉と袂を分かっています。その山本にとって、今泉の「みくに運動」に対する精1杯の批判が、この2回にわたる『共助』の文章であったと思うのです。
それでは、私は、共助会の「主に在る友情」をどのように考えているのかについて述べます。
今泉の「みくに運動」についての関わりから述べるとすれば、当時の近代日本の天皇制イデオロギーから自由で有り得た日本人は果たしてどれだけいたのかと思います。教育の分野では、臣民教育に対峙したプロレタリア教育が有りました。また、レーニンによって指導されたコミンテルン(1919〜1943)の国際共産主義運動もありました。しかし、圧倒的多数の日本人は、天皇制的臣民教育のもとで教育勅語と国定教科書によって天皇制イデオロギーを叩き込まれていました。1931年の満州事変以降であればなおさらのこと、軍人勅諭(M15/1882)に加えて戦陣訓(S16/1941)が作られ、天皇の神格化はますます強まりこそすれ、緩やかになることはありませんでした。
私は、この時代に生きていたとして、自分に出来ることがあるとすれば、やはり山本がしたように、『共助』を出し続けることによって自分たちの拠って立つ信仰を明らかにすることであったと思います。今泉の「みくに運動」を正面切って論難することは、今だからこそ言えることであって、当時の時代情勢の中で『共助』の発行禁止処分と共助会員の逮捕・弾圧を覚悟の上で「みくに運動」批判を展開する事が果たして可能であったかどうか。そして、批判をしなかった事が共助会の「主に在る友情」の質を貶めていると言い切ることが出来るかどうかを考えるのです。
私は、友情とは、言葉ではなく、実践だと思います。
その人に希望と慰め、そして生きる力を与える実践、それが友情だと思います。
私が人生の困難な中にあった時、無償で力を貸してくれた友人・知人たちがいます。確かにそれは素晴らしい友情でした。今思い起しても、感謝してもし切れないほどのものです。しかし、共助会の「主に在る友情」とは、彼らによって与えられた感謝と喜び、それだけではない何かがあるように思うのです。
その何かとは、神の国を目指す同労者であることの自覚です。
共助会規約第2条に「本会は、キリストのためにこの時代と世界とに対してキリストを紹介し、キリストにおける交わりの成立を希求し、キリストにあって共同の戦いにはげむことをもって目的とする」とあります。この志を同じくする者の集まりであり、この世に対しての使命的伝道団体、それが共助会です。
教派を問わず、教会・無教会を問わず、生活する場所が遠く離れていても、何年も会わなくても、友情を育みながら共に神の国を目指して歩んでいる自覚を持ち、さらに出自を問わず、国を問わず、性別を問わず、まさに「この時代と世界とに対してキリストを紹介し、キリストにおける交わりの成立を希求し、キリストにあって共同の戦いに」労している小さき群れ。それが私にとっての共助会です。そして、私たちのこの小さき交わりは、神の国を先取りするものでもあると思うのです。
私は、山本が今泉の「みくに運動」に取った態度、即ち正面から対決しなかったことをもって、共助会の「主に在る友情」を疑問視することが出来ないのは、山本はキリストの十字架の贖いによってこそ罪が赦されるその1点において、変わる事のない信仰を持ち得ていたからです。そして、戦時下、最も近しかった友の1人である今泉の「みくに運動」が展開される中にあって、(私は「みくに運動」は、その運動自体が、時代の趨勢の中にあっては共助会への激しい批判であったと思います。しかもかつて共助会の中枢にいた今泉の起こした運動であるが故に、山本にとって、その厳しさには耐え難いものがあったと思います。)そうであればこそ、戦前の『共助』が贖罪信仰に立ち続け、発行され続けていた事実の中に、山本が今泉に示した苦渋の中の「主に在る友情」を見るのです。
『共助』掲載の山本の文章のそこかしこに、時代に翻弄されている言葉を見ます。しかし、時代の波に翻弄されない人など、私は稀有だと思います。時代の波に翻弄されつつも、主イエス・キリストの十字架による贖いを信じ、復活の希望に生きる、それこそが私たちの「主に在る友情」に命を与え続けるのだと思います。そして、互いの持っている重荷をたとえ少しでも分かち合い、神の国に向かって心を同じくして歩み、祈りを1つにする時、「主に在る友情」はさらに力が増し加えられるのです。
確かに、森川さんの努力によって戦前の『共助』誌を手にした時、私は驚きました。その驚きとは、戦前及び戦時下のあの時代、日本はともかく、植民地化の韓国において51名もの獄死者を出した神社参拝に対していかなる疑問や抵抗の文章も見つけ出すことが出来なかったからです。柏木義円の「上毛教会月報」の論稿や矢内原忠雄の国家に対する発言、あるいは聖公会機関誌「基督教週報」に掲載された貫民之助(介)の「神社参拝問題に就て( ( (注」を知る私は、戦前の『共助』誌にも時の権力に抗う論稿を期待しました。しかし、その期待に応え得る文章を見つけ出す事は出来ませんでした。
しかし、その一方で、日本の中国侵略の罪を背負うように澤崎堅造の熱河伝道がありました。その後を追って和田正も中国に赴きました。あるいは敗戦時、奥田成孝は戦争責任を認め、北白川教会に牧師辞任を申し出ます。そして、戦後、共助会が出した幾つもの声明の中に、私は山本茂男の、戦前及び戦時下、国策に対して己の取った在り方に対する懺悔と決意を見るのです。
互いの重荷を分かち合うこと。それはどれほど困難な事でしょうか。まず、友の重荷を知らされなければなりません。そして、自らの重荷を語るには、友への深い信頼があってこそ出来ることです。信仰を礎とした深い信頼と交わり、それが「主に在る友情」だと思います。
山本が「森先生を始めて識りし頃」の文章の最後で記している森明の言葉があります。「人生は寂しいね!」と山本に語った森明の、ある人に対する言葉です。「君が世界中の人に捨てられても、私は最後まで君の味方だ。」
そして、山本は述べるのです。「基督を愛する外に基督者の愛はない。私のない友への眞實な心に於て基督に捧げられた愛こそ眞の友情である」と。その人を愛するのではなく、キリストを愛するのです。その人の内にキリストを見るのです。
だからこそ、友を最後まで見捨てることなく、だからこそ、友へ私のない眞實な心を捧げることが出来るのです。
森明と山本茂男は、彼らの「主に在る友情」によって、私たちにそのように語っています。
教会と共助会との違いは何か。
主イエス・キリストを神の御子、救い主として十字架の福音を信じる信仰、それだけが求められ、神の前に独り立つ群れ、それが共助会です。教派を超え、教会を超え、国籍も、性別も、出自も一切問う事無く、主に在る友情を育みながら、友にキリストを紹介しつつ神の国を目指して歩む群れ、それが共助会です。
私はそのように考えています。
祈りましょう。
【注1】「1931年の満州事変の翌年書かれた、日本聖公会司祭である貫
民之助(介)の『神社参拝問題に就て』(『基督教週報』)は、上智大学学生による靖国神社不参拝問題を契機とした神道側のキリスト教攻撃に反論する形で論旨が展開されている。神社は宗教に非ずとする政府の主張に対し、『神社に対する歴史上の諸事実は全まったく然神社が宗教なる事を物語る』と断じ、『事実上宗教たるものゝ礼拝を其宗教を信奉せざる他人に強要する事は信教自由の憲法に違反す』と明言する。そして『宗教的信仰の故に神社に参拝をなさゞるは至当の事なり……従て神社に参拝せざる事が我が国体に反すと云ふが如きは論をなさず』とまで言い切っている。」(富坂キリスト教センター編『日韓キリスト教関係史資料Ⅱ』新教出版社、1995、144頁)