説教

旭川に住んで振り返って思う〜佐伯 邦男

三年前、急に思い立って北海道旭川に移住した。

生まれて以来三五回目の引っ越しであった。長年暮らして来た東京の友人からも、転会した旭川六条教会の新しい友人からも、学会の長年の友人の科学技術者や先生方、ビジネス関係の先輩同僚からも異句同音に「歳とって今更しばれるって言う厳寒の北海道なの」と疑問を投げかけられた。その都度、自分でも十分説明が出来ず当惑していた。

八十八歳になって足腰も弱くなり、世田谷の斜面に建つマンションの玄関までの二十四段の階段の昇り降りが苦しくなり、北海道のバリアーフリーの十階建てマンションの八階に移ったと説明すると「ふ~ん、それだけか」と疑問は更に深まる。実は二十二年前定年退職を決めた時、旭川で友人と居酒屋で一杯やりながら、「いつ来ても北海道は素晴らしい所だね。もうすぐ退職するんだけれども、セカンドハウスとしていいとこないかね」と呟いた。友人は「今旭川で新築のマンションで手頃なところがある。早速、明日案内しよう」ということになり見に行った。百世帯用の十階建てマンションで四部屋にキッチンのこじんまりした空間と南北にベランダがあり遠景の山々が美しく、価格も東京のワンルームマンションより安く、気に入ってすぐ八階の部屋を予約した。以来年に三、四度、長期滞在型の旅を楽しんでいた。

六十八歳で退職すると、待っていたようにあいついで仕事が舞いこんできた。キリスト教主義の社会福祉法人泉会と学校法人日本聾話學校の理事就任の依頼であった。どちらも共助会の先輩たちが長年奉仕されていた働きの場であるのでおひき受けした。後に両者の理事長に選ばれ、私に向いた仕事として新しい試みにも挑戦した。実業界でのキリスト者としての実験的マネージメントについては、時折「共助」誌にも書いた。しかし、キリスト教主義を表看板としながら経営している社会福祉法人の障害者授産施設と、聴覚不自由な子供たちの教育とは全く異なる世界であり、片手間でこなせるような仕事ではなかった。泉会理事長の仕事は想像していたより大変であった。理事長、理事、職員、施設利用者、父母の会の間のコミュニケーションが全くうまくいってなくて、誤解と不満の声が満ちていた。解決のために、私は全責任で事に当たることを宣言して全力を尽くした。

一年余りで解決したが、精神と体力を消耗したのは事実で、そのためかどうかは不明だが、予期しなかった直腸癌が発見され、翌日検査入院、一週間後に七時間の直腸全摘の大手術を受けた。おまけに、退院のおり残存癌ありとの診断書を貰い、放射線治療、抗癌剤服用を告げられた。俗に言う癌治療の手術、放射線、抗癌剤の三点セットである。私が泉会に来てからも二人の理事さんが癌で天に召されている。泉会の理事のひとりに日本医科大学の丸山ワクチン医局に勤務されている医師がおられて、私を見舞いに来られてワクチンの話を微に入り細に入りして説明してくださった。当時から今に至るも丸山ワクチンの癌への治療は正式には認められず、治験薬として使用には講習を受けて、主治医の承諾が必要とされて使用が許されている。資料に基づく詳細な質疑応答の末、納得して私は丸山ワクチンに賭ける決心をした。放射線は可能な限り弱くして、抗癌剤は使わないで、丸山ワクチンを使ってみたいと、相談ではなく希望だと主治医に告げて許可を得た。以来十七年経つが異常はない。今も免疫体質維持のためワクチンの注射はほぼ週一回の割合で続けている。

小学校、中学、高校、六年半広島の爆心地から半径一・五㎞の所に住んでいたが、父が原爆一年前に死亡し、兄は外地、私は京都大学へ、姉二人と母は、実家の山口に疎開して原爆には遭わなかった。中学高校時代は戦時勤労動員で学業どころではなかった。広島には原爆一月後訪ねたが、何処が我が家であったか分からないほどの焼け跡であった。戦後どれほど多くの焼け跡を見たことか。翌年の昭和二一年(一九四六年)秋これまた不思議な経緯で北白川教会を訪ね奥田先生にお会いし初めて聖書に接し、奥田先生を囲んだ京都大学の学生の聖書研究会に参加した。福音書の物語は、戦後の空虚そのものの二十歳の青年であった私の心にしみた。貪るように聖書を読み始めた。戦時中の勉強の時間のなかった私は、大学の講義にも魅せられていたが、聖書を学ぶことの重要さに驚嘆して卒業を一年延ばすことを決めた。大学の単位は、卒論以外は終了して最後の一年間は、論文のための研究と、北白川教会での聖書の勉強に没頭した。時間があったので、教会の留守番役も引き受けて共助会の諸先輩の信仰についても、奥田先生から直接お話を聞く機会が与えられたことは忘れがたい恩恵であった。

敗戦から五年経っても、日本はまだ廃墟の中で、工業生産がやっと始まろうとしていた。私は大学という象牙の塔と生産現場を繋ぐ架け橋の役割を担う科学技術者として生涯を送る決心をして鉄鋼会社に入社した。その後、鉄鋼一四年、プラスチックス四年、ガラス二七年、食品容器の製造関係の仕事に従事した。経済成長を目ざし日本は、大量生産、大量輸送、大量販売、大量消費、大量廃棄、環境の大量汚染を生む時代に突入した。私は必然的にエコロジー問題に首を突っ込み家庭ごみの分別収集・リサイクリングの普及に努めた。

大学卒業前に洗礼を受け、共助会員になった私は、生涯を実業界で過ごしたが、聖書は常に知恵を与えてくれ発想の原点であった。私にとって生きたテキストであった。人生は奇跡の連続と思う昨今であり、北海道でもキリスト者の友人も増え、素朴な交わりに感謝している。フロンティアの精神が今も継承されている北海道は空気も水も美味しく、農業、酪農業、水産業、林野業など、日本の基地として養殖技術も盛んだし、厳しいが美しい自然との共存は天地創造の唯一の神に賛美の祈りを捧げる喜びがある。若者は幻を見、老人は夢を見るとあるが、老人も幻を見たい。