説教

深き淵より 片柳 栄一

【開会礼拝 説教】

詩編130編1―8節

私たちは今、深い暗がりの中にあります。この不気味な暗がりの始まりを私が感じたのは2010年の頃でした。この年末にチュニジアから始まった「アラブの春」の改革運動が、アラブ諸国のなかで瞬く間に広がりました。しかしそれが様々なところで苦い挫折を味わい、人々が国を追われ、大量の難民が、かつての民族移動のように、先進国としての豊かで自由なヨーロッパ大陸に押し寄せました。地中海では難民を乗せたボートが転覆し、大勢の犠牲者が出る海難事故が頻発しました。そしてヨーロッパ自身が悲鳴を挙げて、難民受け入れの拒否を求める右翼的運動が不気味に広がって行きました。2010年代のそのころ、私は何かこれまでにない不協和音が低く不気味に世界に響き始めているという感を抱いていました。その不気味な漠然とした不安は、ロシアのウクライナ侵攻によってもはや否定しがたいものになりました。そしてパレスティナにおける怨念と憎悪が固くこびりついたジェノサイド的な戦乱は、忘れかけていた歴史の闇を世界の前に引きずりだしています。そして私たちは今、自由と民主主義の担い手として希望を置いて来たアメリカ合衆国がよろめいているのを、戦慄する想いで目にしています。

この重苦しい不安と恐怖に近い感情に襲われることも多い日々ですが、巷では、第三次世界大戦はもう始まっているのだといった声も聞かれます。そこまでは行かなくとも激しい動乱の時代の始まりを生きているとの感は拭い得ません。ふと改めて昭和の初期の動乱の時代を生きた共助会の先達たちの心の思いを身近に感じました。ニューヨーク株式市場の暴落、昭和金融恐慌から5・15事件、満州事変、2・26事件に至り、太平洋戦争に突き進んでいった時代の暗がりの中を先達たちは歩み抜いたのだという重い事実を、私たちの暗がりの中で、改めて嚙みしめています。さらには2500年前の預言者エレミヤのことが思われます。神の言葉がバビロンによるユダ王国の壊滅をはっきり告げていることを悟り、そのことを人々に神の言葉として宣告したエレミヤです。彼は、神に選ばれたと深く信じた祖国ユダの滅亡を逃れ難く経験しました。そして私たちが前にしているのは、一国ではなく、地球の人類の滅亡の危機だということに身震いさせられます。そのような中で私たちは2024年の京阪神共助会信仰修養会に臨み、「深い淵より十字架の主を仰ぐ」との主題のもとで二日間を共にいたします。その開会礼拝として、詩編130編から学びたいと思います。

「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」(1節)。前の口語訳では「主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる」でしたが、「淵の底」とは思い切った鋭い訳だと思います。単に「深い淵」というだけでなくその深い淵の「底」に追い込まれ、動くこともできない暗い底にいるというのです。誰しもが生の途上で一度は味わう感情「出口がなく途方に暮れた」思いをよく表現しているからです。イギリスの世紀末期の詩人オスカー・ワイルドが同性愛のゆえに、逮捕され、獄に繋がれた時の思いを綴った手記の題名が、この詩編冒頭の言葉「深い淵より」のラテン語訳De profundis から取られ『獄中記』と和訳されています。そのようにこの詩編の冒頭の言葉は、古くから人々の心に触れ、親しまれてきたものです。

「主よ、この声を聞き取ってください」(2節)。前の口語訳では「主よ、どうか、わが声を聞き」(2節)です。ヘブライ語では「私」という一人称代名詞が用いられているので、口語訳はそれを正確にあらわしているのですが、「この声」と訳した新共同訳には独特の切迫感があり、この詩に対する訳者の深い共感が感じられます。自らのうちに今、明確に湧きあがってくる「苦悩の叫び」を「この声」として自分と神との共通の場に持ち出しているのが、感じられます。

この2節までは、嘆き祈る私の苦しみの叫びに焦点があてられていましたが、3節はがらりと視点が変わります。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう」(3節)。この詩人は、暗がりの中、いわば泥の深い淵に落ち込み、苦悩の叫びを挙げたのでした。しかしこの詩人はその深い原因が悲劇的ではあれ、単なる運命のなせる業ではなく、その奥に自分の過ち、罪、咎とがが潜んでいることを予感しているようです。

自らの嘆きの根本にある恐れが、単に自らの生存を脅かす獰猛(どうもう)な敵対者からくるのではなく、自分の振る舞い、姿勢の根底にある自我の暗い蠢うごめきとしての罪に起因していることを感じています。そしてこの詩人は、この自らの暗がりを見つめておられる主の眼差しに戦慄しているのです。

私自身の宗教的求めを省みると、私は自らの存在の儚はかなさ、結局は死と無意味さに行き着くしかない存在への疑問といったものから求道生活を始めました。ですからキリスト教でいう人間存在の罪性ということには何か馴染めない感を抱いてきました。年を重ねてさすがに自身および人間全体のもつ悪の問題を突き付けられることが多く、ようやくキリスト教が問う問題の深さを感じとっています。その意味でこの詩人の「深い淵」へ向ける眼差し、そして戦慄が理解できるようになった気がします。

3節が深い視点の転換であったと先に言いましたが、4節においてはさらに驚くべき転換をこの詩人は告げています。「しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」。この人生の歩みの中で人は否応なく、自身が紡ぎ出し、自らそのものをがんじがらめにする罪の泥沼にはまり込み、深淵に面しています。そしてそれが消し難く明るみに晒さらし出される

ことの中で、この厳しい尊厳なる眼差しの真中で、主の「赦(ゆる)し」を感じています。この詩人が感じている「主の赦し」はしかし、罪を心に留められる主の眼差しと別のものなのではないのでしょう。罪の結果は、それが他者のうちに与えた苦しみ、悲しみ、恨みとして、また自分に跳ね返った行き詰まりとして消し難く残ると言わざるをえません。主が「罪をすべて心に留められる」とは、一度犯された罪の結果は、起こった出来事が無かったことにならない如く、永久に消えないということです。だからこそ詩人と共に「主よ、誰がそれに耐ええましょう」と言わざるをえないのです。そのように罪とその結果が消し去りえないという中で、ここで語られる「赦しはあなたのもとにある」という言葉はどのように理解されるのでしょうか。罪において人は自分を粉々にされます。そのような瓦礫のなかで、しかしなおもう一度やり直しうる、やり直して生きることを赦されていることを告げられているのだと思います。

そしてこの詩人の語ることのさらに驚くべき点はこれに続く言葉にあります。「人はあなたを畏れ敬うのです」。この二つの文章、「赦しはあなたのもとにある」と「人はあなたを畏れ敬う」という文章のあいだには、ヘブル語の接続詞ルマアンがあります。これは通常目的を表すもので「~するために」と訳され、英語のin order to に当たるものです。直訳すると「畏れ敬われるために赦しがある」となってしまって、赦しが単なる手段のようになってしまうので、新共同訳の訳者は、この接続詞を訳さないままにしたのだと思います。訳すとすれば口語訳のように「ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう」と「ので」を付加するしかないのでしょう。それにしてもここで詩人が言おうとしていることは驚くべきことです。私たちが通常感じている「恐れ」とは異なる「畏れ」があることをこの詩人は此処で教え、示しています。詩人がそこで生きている宗教的世界、神と共なる生の根底にある赦しです。そしてこの「畏れ」のもとにあって真に始まる神と共なる生です。

私たちの生きるこの生にあって、三つの違った恐れがあるように思われます。一つは、自らの生存を脅かす敵対者への恐れです。現在の世界において、私たち自身漠然たる思いで、この恐れの内に生きているように思います。これは私たちが身体をもって生きていることと直結するような形で、生きることそのことと深く結びついているような感覚です。私たちは文明社会の様々な防護壁によって、この恐れを緩和されているので、つい忘れているものです。夢というのはこうした感情を純粋な形で映し出します。殺人者がビルの自分の部屋の上の階から階段を下りて自分に迫ってくるといった夢において感じる混じりけのない恐怖です。殺されるということはこういう恐怖の中でなのかと、愕然として目が醒めることが、若い頃しばしばありました。私たちの世界を今覆っている黒い影は、こうした生存に関わる恐怖に添って延びているように思えます。

また別の恐れがあります。それは罰への恐れとでも言えるものです。私たちが現実に生きている世界において、多くの場合、規則を守り、道徳的生活をするのは、罰せられない、世間から、司法機関から罰せられないためです。その意味で「罰への恐れ」から、規則を守るという形がしばしばです。そしてこのことは宗教的領域においても起こります。様々に起こる災害や事故に遭遇し狼狽し、途方に暮れている人たちにふと、これは何かの祟り、気難しい神様の機嫌を損ねたのではないかとの感情が浮かぶのも自然なことなのでしょう。様々な宗教における犠牲の風習、儀式にも、「罰への恐れ」が深く関わっており、犠牲は「荒ぶる神への宥め」の供え物なのです。

しかしこの詩人はもう一つ別の畏れを知っています。赦しを与えられる主への感謝に満ちた畏敬としての恐れです。ここで人は始めて、生存を脅かすものに対しての、いわば生物学的な恐れからも、また違反への罰からの恐れからも解放されて、真に絶対なる神に真向かう時の感情としての「畏敬」のうちに生きるのです。もちろん、罪によって惹き起こされた破壊と傷は、自分のうちに、そして他者のうちに傷と痛み、嘆き、恨みを根深く残すでしょう。赦されたからと言ってそれが無かったことにはならないのです。そのことの重みで人は粉々にならざるをえません。神の赦しは、私たちが粉々にされることの中で起こるしかありません。その中でもう一度始める力と勇気を与えられることが赦しの最も大きな特徴です。なおもう一度始めてよい、との赦しの呼びかけにおいて人は立ち上がりうるのです。おそらくここで初めて有限に過ぎ行く者が、自らの生を与え給うた永遠の主の前に、真に跪(ひざま)づくことができるのでしょう。生存を脅かされた恐れでもなく、罰への恐れでもない、感謝と信頼に基づく畏敬というものです。

そして先の二つの恐れを真に取り除くものは、この第三の神への畏敬において初めてと言えるのです。それ以外に真にこれらを取り除くものはないのです。そして自らの罪のみでなく、社会、人類の罪を真に見据え、これに真向かいうるのも、この畏敬においてです。

こうして詩人は、この畏敬から起こる「望み」について語ります。「わたしは主に望みをおき、わたしの魂は望みをおき、み言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして」(5、6節)。ここに湧き出る望みは、単に自らの欲望の成就を求める願望ではなく、また自らの栄誉が輝くことでもないでしょう。詩人は「み言葉を待つ」と言います。ここで待たれるのは、私たちの内からおこる「恐れ」を越えた、神ご自身の「もう一度始めなさい」との語り掛けです。

現在私たちは、理性的見通しや正義の成就を求める願いを砕く出来事に繰り返し襲われています。この詩人が述べるように、私たちは夜明け前の暗がりの中にあります。まさに私たちを磨(す)り潰つぶす出来事に粉々にされて、自らの力と武器をほとんど失った中で、見張り台に立たされている見張り番なのでしょう。そのような中で、見張りが、自らの力から来るのはなく、私たちを越えて向こうから開けてくる暁の光を、ひたすら待つように、私たちの思いを越えて、私たちの暗がりから力をもって引きずり出す方の前に立ちたいと思います。そして主への畏れから与えられる望みを抱かしめられ、この地上で呻く苦悩の叫びに耳を閉ざさず、一歩でもこの苦悩の世界の中へと、前に踏み出したいと願います。

(日本基督教団 北白川教会員)